人類は鈍化していないか

勿論、自分を含めてのの事だが、我々人類の感覚が全体的に鈍くなっているのではないかと思う。
  
   国の内外を問わず、最近の政治、経済、メディア報道を見ていると、その進み具合もかなりんところまで来ているのではないだろうか? 

   我々は周りの状況の変化に応じて、物事の意味や価値は変わるものだ。 とくに、自分達が生きるため、身の安全を守る感覚は特にそうだ。 
 
   我々は身の回りから世界や地球の状況の変化に対応して安全を守る感覚が働いているだろうか? 

   「地に足が着いている。」の言い方で言えば、地球人は地から足が離れ、浮き足立っていないか?と思う。  
 
    我々は、状態や状況の変化を察知し反応するものだが、自分達の思い(価値観・目先のお金)を最優先し固定させて動いていないだろうか?  

    総裁選を見ていても、日本の政局は世界の変化に反応せず、どの主張を選んでも、経済が良くなるとは考えられない。 

    メディアは無感覚ないくつかのパターン化した声を拡大して大量に報道?し、我々はその情報?の前に整列して並んでいるようだ。   

   これでは世界も日本もウダツが上がらないから、これからが、試行錯誤の学習が始まるチャンスだと考えたい。   

   これまでの成長路線をベースにした財政改革、構造改革、経済対策、   「霞ヶ関をぶっ壊す。」など‥、何時まで言っていても始まらない。  

   これまで、どの内閣も経済を最優先して、上記の対策を講じた結果が世界に類のない借金国家になり景気が後退しても、打つ手も財もないところまで来たではないか。   ここに至っても、同じ言を繰り返す。   

     毎日100人からの自殺者を出し、12万人からの学校へ行けない子供達を生み、既に10年になる。

   管理監督するはずの農林省の売ったお米で食の安全が脅かされても、管理監督責任の声すら聞こえない。 

    これまでの経済対策の赤字国債の累積で今日に至っているのに、総裁候補の4人はどの人も、「経済緊急対策」で、またもや赤字国債を発行して経済を立て直すと言う。  

   対策の中に、子供の安全を図るためだと、学校の耐震工事が入っているが、現実、子供の安全を脅かしている優先されなければならない事は そんなところにはない。多くの子供達は不安と心の傷を固めながら成長しているのが現実。 耐震工事の理由の意図が透けて見える。

  
    昨日、新聞の投書や街の声にリアリティを感じないと書いたが、補足すると、  個人は、夫々が独自の経験をしているはずで、経験や実感をそのまま語るといいのに、分類された情報の中で付け足したようにして語る。自分を語る術を失ったか?  

 昨日、テレビ局が街行く人に、「総裁選で、もし投票出来るとしたら誰ですか?」と奇異な問いかけをしていた。  
  自民党の支持は30%とそこそこなのに、通行人は殆どが「だれそれがいい、~だから。」とおまけまでつけて答える。  
 これだから、総裁選が自民党の支持を拡げ、新しい自民党の総裁の支持が過去、80パーセントを超えたことすらあった。
       論理的におかしいが、にこれは、メディア効果である。  
    
     こうして世論を誘導し、選挙をやり、党や議員を選んでも良い政策を選択したり政策を生み出す事にはならない。   
   だから、作られた情報で国民が選択してきた積み重ねが、国の借金を積み重ね、ニッチモサッチモ行かない景気後退に至ってしまったのではないか。  
  
    迫る総選挙もこれまでと似たり寄ったりだろうが、   

    結局は選んだ国民一人ひとりに返ってくる。   

  新聞社や テレビ局の職員も、政治家や学者も家族や子供がいるだろうに。   

   地球や世界の状況は、自分だけ甘い汁が吸える時代では無くなりつつあるのに。    

    全体的に感覚が鈍っている。    
  
  自分がおかしくなると全てがおかしく見えるものだが、 それを気にしながら、これを書いている。  
       
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