雑踏


人混みを(雑踏)と言うが分った気がした。
 踵(かかと)は人間の身体感覚の中心、コマの軸の下の先端のような所だと感じる事がある。
 何時もとは行かないが心身の状態のいい時にそう感じるから、本来的な感覚ではないかと思う。
 体感として脳や神経以上の働きをしているのではないだろうか。
 仏教の中に≪真人、踵を以って思惟す》の考え方があるが、本来的には人間の普遍的なものかもしれない。
 昔の人が一人一人で出来た群れの目を向けた所に大事な意味があるのではないかと、鳥の声を聞きながら頭に浮かんだ。
 授業中、≪足!≫≪かかと!≫と唯一の注意のように言い続けたが、あれで良かったのカもしれない。

 
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

歌を忘れたカナリヤ

ふと、子供の頃よく聞いたこの歌を思い出した。続いて
 
  2009年頃、人類は(【学び】を忘れたヒトビトは~)だったのかなーと頭に浮かんだ。
 学校は【教育】するばかりで子供から【学び】を奪っていた。やわっこい子供は学校へ行けなくなったり、落ち着いていられなく、中には心を壊されたりした。
 子供だけではない。そこには学びを忘れた大人たちが取り巻いていた。
 人は誰から学ぶ?
 人ではない。
 芸術も科学も、歴史も未来も自然が最高の先生だと思う。
 地球上に棲みながら人間の(先生)から学ぼうとしたからおかしい事になった。
 (先生)の先生は自然であり主は地球ではないか。
 2009年頃、競うように盗掘をやって稼ぎ学びを忘れ主に叱られ諭され歴史は進んで、今日がある。
 2009年頃のドジは小さく小さく今にも灰になって消え入りそうだった。
 当のドジは承知しながら、踵を抱え小鳥の声を聞いたり、午後は囲碁とライブ音楽,夜は親友との一杯
を楽しみにしていた。
 一つに感じるって、いいなー。
  
 
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

【強烈な努力】

これは藤沢秀行名誉棋聖が遺言のように病院のベッドで書き残した最後の言葉である。
藤沢秀行が有名である事ぐらいしか知らないし、【努力】の言葉もあまり好きではないのに【最後の努力】と書き間違えるほど印象に残った。
恐らく地球や己とも相俟って【最後の強烈な努力】として映像化したのかもしれない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )