さんまの改革

とにかく夕方や休みの日、子どもの声があちこちから聞こえてくる。「子どもは遊びをせんとや生まれけむ。」ではないが。町も田舎もどこも生き生きし、子どもはもちろん大人も年よりも幸せな気分になる。
 それだけでも十分なのだが、実はこの中に、社会にとって大事な大事なものが隠されている。(お金と違ってすぐには見えない。)
 今、国が経済の国際競争力だ、少子化だ、いじめ自殺だと声だけ大騒ぎしているが、その答えがこの「さんま」の中に含まれている。
 秋刀魚の栄養価は高い。国際競争力で人材が日本の唯一の資源であることは誰しも認める。要する、会社はじめ社会で必要な力を発揮できる人間が必要だという意味である。
 体力や精神力や普通言うところの人格は勿論、会社や社会を発展させられる智恵や創造性は特に求められる。現在の教育制度や今やろうとしている制度が全く逆になっていることはあまり人は口にしないが、現実を見れば十分証明されているはずだし多くの人が感じているだろう。
 いい悪いは別にして、戦後の壊れ疲弊しきった社会の復興を担ってきた人たちは十分秋刀魚を食べてきた人たちだ。残念ながらそこの伝承が出来ていない。
 40年も教師をやってきたが、学校の勉強の中に、良質の秋刀魚の栄養は無い。戦後よく食べた(おから)見たいなもの。どれだけ食べさせても肥満になるだけで、社会が求める真に競争に勝てるような人材は育つはずがない。これは日本の教育制度だけの問題というのではなく、歴史や国を超え、(環境などによって、意味合いの違いはあるものの)基本的には、どの民族も、秋刀魚の栄養でその力をつけることを暗黙に了解し、基本にしてきた。(日本だけでなく、国際的にもそうでない傾向は見られるが)それを都市化とお金を前に忘れている。秋刀魚の隠された栄養は、体力をつけることにある。個人の体力や学力の土台になるのは当然だが、国際的経済競争力の体力に欠かせない。

すぐ現金に変わるものではないが、人的な先行投資になるはず。「教育は100年の計」といわれる所以もそこにある。

目先の即戦力や使い捨ての今の風潮とは違い、子どもも大人も元気になる。経済のマイナス成長路線をとっても経済的にも、精神的にも幸福になり笑顔は倍増する。

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経済のマイナス成長路線

食料の限界が見え始めてる現在、日本の経済が水ぶくれのように肥大化し、経済の体力や国際競争力を落としている現在、ダイエット【倹約】し体力を回復しなければならない。
 2パーセントのマイナス経済は年間の国民所得が現在より≒10パーセント(500兆円→490兆円)にすることを意味する。
 国民の幸福を中心
にするなら、1、に倹約2、バランス。行政をはじめ、公的部門・民間部門・国民の暮らし部門 それぞれ無駄遣いと思われるものが意外に多い。
 我が家の生活を見ても切り無くある。
①体調があまりよくないのに深酒し次の日苦しんでいる。
②食べ方が雑で急ぎ食いし、味合わず、食べ残しも多い。 ③冷蔵庫の中も腐るほど物がいっぱい入っている。物置や押入れを見ると、買いっぱなしで封も切っていない物も結構ある。そのほかまず絶対読まないだろうと思うような本などなど持ち主も知らないようなものがこれまた沢山。家もその重さに負担を感じているだろう。傾くのも早まるはずだ。
④毎朝来る新聞広告の山 アレは仕方ないのか分らないが、家では誰も目を通さず、まっすぐ新聞回収の袋へ入れる。
⑤電気のつけっ放しは1階も2階でも良く見る。  ‥切が無い。
 近所を見ても似たり寄ったりのところがある。夜中街は光々と電気をつけ放し。朝まで家の周りをクリスマスの豆電球をピカピカさせているところもある。
 朝コンビ二等から出る、期限切れの大量の食品。そういえば学校だって、給食の残飯は目を覆う。アレが普通になっている。これも言い出したら切が無い。
 会社はどうだろう? 私は努めたことが無いから分らないが、さっきの新聞広告、お店のやたら明るい電気やパチンコ屋の馬鹿でかいバックグラウンド音楽。八百屋さんや魚屋さんの売れ残った商品、どこもかしこも冷暖房 。アレでは医療費もかさむ。
学校だって,ダストシュートやゴミ箱の中にどんなものがある知らないだろうが、税金やお家のお給料の一部とは言え日本全体では相当捨てている.  あーあ 切が無くて疲れた。 これらの無駄遣いを失くすだけで、かなりではないか?10兆円がそんなに大きいとは思えない。(一人当たり10万円)日本の借金は850兆円(一人当たり850万円)以上ある。85分の1なのだからなんとかなるさ。
 国や地方自治体だって、当の議員さんたちは給料意外に調査研究費の名目でかなり多額のお金が支給されている。どこの世界に、事前に一律出費するとかろがあるか。これではそのお金の使い道は分るはずがない。他は押して図るべし。
 教育関係や学校予算の中にも(素人でも内部で見れば)結構無駄がある。大体公のものは(タウンミーティングのやらせの費用もそうだが)予算を組むと無理してでも執行ししなければならない。必要なくなったからと言って、返すことは殆ど無い。家庭では考えられないことです。(税金と言う他人のお金だから出来るのです)ごちゃごちゃ倹約しなくても、その辺だけ整理しても85分の1は楽に出るはずです。
 いざなぎ以来の好景気とやらで、来年度は赤字国債の発行(借金)を3億円減らすと政府は得意げに言う。大体世界1の借金大国(夕張市なんか問題でない)が借金を返すのではなくさらに借金をする。借金の額を少しを減らすからといって胸を張る、どうかしていないか。私の案だと、無駄遣いをやめるわけだからその分、全部借金の返済に回せる。最低10兆円は浮くはずだ。官民全く痛みはともなわないし、贅肉はとれ健康になるから、プラスアルファも出るはずだ。
 例えばこの幸福構造改革をすれば、公的な医療費や、教育費治安維持費などかなり浮くはず。それは官・民・家庭や個人など全てから出てくる。そうすれば2年もせずに税金など上げずに、借金等しないで済む。3年後からは借金の返済に充てられる。
 実際はこれでも甘いはず。普通の家庭や個人は、借金で首が回らないのにさらに借金する人はいない。それどころか、誰も貸してくれない。食うものも食わず借金を返済する。個人は自己破産、自治体では夕張市のように財政再建団体に指定される。3年後なども暢気な話のはず。
国と個人は違う? 国際信用や競争力でに違いがあるはずは無い。もし違いが有るとすれば、個人の借金は誰も払ってくれないが、国の借金は法律を作って命令して国民に支払わせることが出来る。

借金を立場で使い分けしなければ済む、難しい話ではない。

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もし、私が総理大臣だったら【幸福構造改革】を提起する

もし、私が総理大臣だったら政権公約でとりあえず【幸福構造改革】を提起する。
中身は2つ
1、経済のマイナス成長路線
2、子どもにサンマ(時間・空間・仲間の3間)をしっかり食べさせる。   
 両方、構造改革しなければならないので、多くの法律を作らなければならない。かなり時間がかかるが、とりあえずこの2点を提起し、法制化しそれを目標に行政と民間一体となり実現化したい。メディアの論評は自由だが内閣は協力を求める努力をするのはは当然である。
 1はどれだけマイナスにするかではなく、どのようにマイナスに持っていくかが政策の要になる。とりあえず2パーセント減(現在の逆)を目指す。
2は子どもの権利として子どもが裁量できる最低基準の時間を3時間以上を提起する。土日は倍の6時間 原則宿題はなし。塾は、これも許可制とする。 教育基本法では誰もが、家庭生活を営め、自己決定できる 時間を平日12時間以上と明記する。   書いていて面白いので、また「幸福構造改革」を書こう。
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私も鍋ガエル

いつも偉そうに世の中のボケ振りを、鍋蛙とかゆでダコとえっらそうに揶揄する自分のボケ振りを書きたい。
 ここ何回か日本とアメリカのワーキングプアの報道をテレビで見た。ひどい暮らしぶりを見ていてもなんとブラウン管の中の出来事としてしか映らない。私はまさにガラス越しで見ている感じだった。枯れていて反応せず、想像の広がらない自分がそこにいた。女房に尋ねると私の問いにはうなずきながらも、一つ一つのシーンや解説に、大きくため息をつきながら見ている。
 若いときから貧乏と寂しさを感じれるのが自分の取り柄と思ってきたので、実際は(アレ!)と(やっぱり)の複雑な感じだった。
 と言うのは、
まだ20歳代の頃、ベトナム戦争のニュースや写真を見ると、背中がぞーとして見られなく、新聞を遠ざけたことがあった。近頃では淡路の大地震の災害や、アメリカの9・11、イラクの爆撃や自爆特に子どもの様子は詳しくは見ていられない。教師としての仕事でも、子どものことで自分が思ってもどうしようもなことに、何度かぶつかった。
 そんな時、「人にはできることと出来ないことがある」と自分に言い聞かせ目をつぶらなくてはならない。言い訳かもしれないがそうしないとやっていけない。
 そんなことを直接的に間接的にいくつもやってきたので、ある程度自分の感覚マヒは予測はしていた。

もともと、自分の分らないことは沢山あるだろうし、目にしても感じなく意味の分らないことも多いはず。
その上、感覚マヒしているのを
実際に感じると、やはり穏やかではない 。 そういうものだ。
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社説「狂気が国を滅ぼした」を読んで

 これは12月9日朝日新聞の社説の題名。
 65年前の昨日、真珠湾を奇襲しし太平洋戦争へ突入し、内外におきな犠牲を強い、敗戦と言う形で破局した。
 当時アメリカの大統領のルーズベルト政権内部では【狂気の沙汰】と言ったそうだ。
 朝日は「あんなことが、絶対2度と起きないとは言い切れまい。どうすれば踏みとどまれるのか、狂気に包まれる前に、現実に目を見開き、自問することは意味がある。今もあの狂気が世界から無くなったわけではない。」と警告の社説だった。「あの戦争で朝日新聞始めメディアも戦争を煽り、国民も「やったやった。」と熱狂した。日本中が「狂気」が覆っていたと言えよう。」と論じている。
 朝日新聞が日本中が「狂気」と表現しているので、私が同じように表現してもいいのかなと思った。私は現在既に、日本中が(朝日が言っている意味で)「狂気」に覆われていると思っている。朝日やメディアや国民もあのパターンにもう既にはまってしまっていると感じている。
 朝日が他人事のようにお説教しているのがその表れではないかと言いたい。歴史や社会は単純には繰り返さない。パターンは同じでも、様相は変わる。ここで一つ一つ取り上げてもしょうがない。私は今までこのブログで、社会に起きた困った出来事の反応の仕方を見て日本中が「鍋がえるやゆでダコ」のようだといってきた。一応気を使った表現だった。遠まわしでなく率直に言えば「狂気」の方がずばりの感じがする。地球が壊れかけ、子どもがいじめ・自殺を繰り返し、国民も、しかるべきところも責任を回避しその解決の糸口すら探ろうともしない。言い訳だけで、原因をさらに拡大している。この状態は、65年前、彼我の関係を見ることなく戦争に走ったのと同じではないか。(飛躍するが)愛国心を(ため)に用いるのではなく、本当の意味で、日本を初め、世界の人類や自然や歴史を守り、大事にする愛国心が満ち溢れてほしいと願っている。本来のものなら立場は関係ない。右翼でも左翼でもいい、必ず繋がり智恵の一つも出てくるものだ。何故なら与えられた天地は同じなのだから。多く見られる、上っ面で誤魔化しているのは、どちらも嫌いだ。どこまで行っても繋がることはないし智恵も出ない。

(朝日の今日の社説に見られる報道へのスタンス(態度)は嫌だ。あんな誤魔化しで人は繋がらない。

補足 
 昨日書いた日記がどうもしっくりしない。

朝日の社説の鈍感さへの反発した自分自身が,それににのっかたようだ。

感覚的に「ゆでだこ」と「狂気」の間にはかなり距離がある。

私が鈍感さを感じたのは、65年前、アメリカを相手に戦争を仕掛けてたことと、温暖化やいじめ・自殺を基本的に放置しているのと、その意味において同じではないかといいたいのだ。

国が戦争で壊れ滅びたとするなら、国が滅びるのは他国との戦争だけではない。もっと怖いのは自らの意思で終止符の打てない自壊自滅共倒作用れではないだろうか。歴史を見ても国の壊れ方や滅び方は時代や国によって異なっている。

温暖化は、国を超えて地球自身が人為によって壊わされていることを意味しているし、いじめや・自殺はただならぬ人心の荒廃を意味しているはず。これらが地球や日本の存立そのものと本質的に関わり、戦争どころでないこともありうる。島が海中に沈んだり、広大な土地の砂漠化、子どもの壊れの広がりと深化は行きつ戻りつではなく、一方的に進行するばかりではないか。このことが何を意味し、その結果の想像は難しくは無い。誰もが目をそらしたり、誤魔化してはならない。前向きの姿勢だけでも持ち続けたいものだ。(様子を良く見て人の話しをよく聞くこと。)を自ら忘れないようにしたい。

 

自壊現象が面前で展開し希望の持てない、不安社会・閉塞社会といいながら、社説の目は65年前を見てものを言っている。

これを「狂気」といっていいかどうかは分らないが、朝日自身が「狂気」と言う言葉を使い、今の現実を回避している。(言葉による誤魔化し)

自ら命を絶つ子供に、60年前の話が通じるかを考えたらいい。

「狂気」といわずとも「ボケ」ているとしかいわざるをえないし、朝日自身が「反省」と言いながら、65年前と同じ間違いを今もやっていることに気が付いていない。

自殺せざるをえなかった子どもの心と、日々変わり行く周囲の環境の異変をそばによってしっかり見てほしい。そして伝えてほしい。

65年前、日本は国民が一体になって(今考えると狂気ともいえるような判断で)滅んだ、という朝日の指摘は勉強になった。そして、今一人ひとりが自分なりの感覚を働かせ、自分の頭で判断することの大切さを、朝日を反面教師として学んだ。

追   また翌日考えた。朝日の「狂気」と言う表現が不適切なのだと考えた。表現がオーバーでどぎつい。それに私も情緒的に反応してしまったが、あれは誤魔化す時の1つのやり方だと思う。強烈な言葉で反応させ事実から目をそらさせる。

私は(後から知った言葉だが)「愚考」「愚行」ぐらいが無理なくいいのかなと思う。私もその傾向はあるが、オーバーな表現には気をつけたい。

 

 

 

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立場


 人の多くは立場で動いているように見える。
 国会論戦を思い浮かべても、もともと立場によって座席は指定され、まず始めに立場を枕にしてから話し始める。(飛躍するが)地球の温暖化、子どものいじめや自殺、これを前に
しもてどうして(立場)ものを言うか?いじめ問題で責任の問われない立場の人はいないだろう。
 「春になったら桜が咲き、植物は太陽と水が必要。」と同様、当たり前のことの前に(立場)は無く(立場)でものを言ってどうにかなるものではない。立場を死守し、一方、敵?を責めているように見える。政府や文科省が責任逃れをしたり、それを責めたからといって、政治のの責任から逃れられるわけではない野党。
 自殺した学校の校長や教育委員会の謝罪振りは、立場を守るための姿にしか見えない。子どもが自ら命を絶っているのに、立場にしがみつく大人の姿。
 
 若い頃、職員会議で議論すると殆どの先生(今振り返ると、自分も似たり寄ったりだと思うが。)が立場でものを言う。立場でものを言うから、話し合ってもかみ合わない。「立場」は自分を守る予防線で、人の業のように思ったことがある。立場に拘っては、話し合いの意味は無いと思う。

 私の住んでいる近くに、大きな川があり、昔は川を挟んで、お互いに仲が悪かったそうだ。片方の水田中心の村の子どもは対岸の村の子を「川向こう」と言ってバカにしたらしい。対岸の村は山に近く畑作中心で比較的貧しかったと言う。
 こんな話は日本中どこにもあるだろう。多分世界中がそうかもしれない。そして今も変わらない 
 そうやって争っていられる時代は田園的で、後から思い出しても懐かしくいいかもしれない。しかし今日の地球の温暖化や、いじめ自殺等の次々発生する焦眉な現象はそういうレベルではない。後になっても思い出したくもないことばかり。
 (また話は飛ぶが)勝ち組とか負け組み(格差)も同じで、争っていられる状況を既に超え、「共食い」「共倒れ」の域に来ているのではないだろうか。勝ち組に見える者の悲惨な姿はテレビで見なくてもあちこち身近に転がり、探すのに困らない。立場に拘っていられる時代ではない.。
 
 立場を強調するのは差異を以って、身を守ったり相手を責めるときの道具ではないだろうか。だから、立場や差異の中身はさほど問題にはしない。

こんな事を書いてると、テレビで東京都議会の各党の代表が「この1年を振り返って」を語っていた。

すると上で書いているイメージよりはるかに各党が党利党略的で殆ど立場でものを言ってる。各党とも(臍・中心の中身)の無い話ばかりだった。石原知事はオシャレに気を使うが、もう既に今の時代は把握できていない。いい悪いは別にして、その古さを感じている政党は無く、(敵か味方)だけだった。

 例えば、知事や各政党の議員はオリンピックの発想が基本的に45年前と同じ。

世界も日本も東京の経済も人心も変わっている現実を認識していない。イコールではないが、長野冬季オリンピックの思惑外れを少しも学習していない。
 強調したいのは、リーダーの石原知事も、知事を支持する自民党や、庶民の味方を標榜する公明党も批判する民主党や弱者の味方を標榜する共産党も基本的な認識は同じ。

各党は哲学を欠き、具体的な現実を知らない。浮遊の仕方の違いが目立つだけで、浮遊していることに違いは無かった。

 

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「格差社会の問題」の問題

今日の朝日新聞一面の大見出しは、「再分配 強化の時」だった。日本やアメリカは言うに及ばず、地球全体を100人とすると、一人が99パーセントの富を持ち、99人が1パーセントの富を持っていることになると言う、地球全体が格差社会になっている。

 日本の格差問題の議論を見ると、(大雑把で乱暴かもしれないが))政府や与党は、経済の成長路線(お金の入り)を野党は分配(お金の出)を立場にしているようだ。確かに入り口も出口も大事な切り口ではあるが、どこかおかしい。経済活動としては一体なはず。

 日本のGDP世界第2位は国の大きさからいって、その規模はとてつもなく大きくすごい。ただ社会の現状を見ると、水ぶくれの肥満体のようだ。体力は無くあちこちが病んでいる。

 拡大成長路線を主張する人たちも、格差是正で、こちらにお金を回せという人たちも、水ぶくれや体力,や病みを決して問題にはしない。
  個人でも社会でも見かけや大きさが幸福を保障するとは考えられない。体力が無ければ体力をつけ、病んでいたら治す。謂わば、個人も経済社会も健康体にすることが大事ではないか。

 格差問題を考えるとき、「より大きく」とか「もっとこちらに回せ」を目標にした議論や判断は基本的に間違っていると思う。「健康体にするにはどうするか」の政策論議や行政の施策でなければならないはず。
 当然、資本はもとより環境・資源・労働・社会保障などのバランスがあって始めて健康体を取り戻せる。議論する人たちは物事の調和やバランスには関心が無いようだ。

たとえて言うなら肥満で糖尿病になっているのに、労・使して、甘いものを求めているようなもの。味が忘れられない。

 子供のころ親父がよく言っていた。「1度贅沢を覚えると元に戻すのは大変だよ。」家が貧乏だったこともあるが、その意味は子供心にもよく分った。
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国際競争力

経済活動で国際競争力は不可欠の条件であり、言葉上は私の考えも財界や政府と全く同じだ。本当に国際競争力をつけてほしいと願っている。ただ、じっさいの政策や方法になると、違ってくることが多い。国際競争力を高めるために、人材育成(教育)や規制緩和を始めとする改革路線といわれるもの、これらは私の目には、自らの体を食いちぎったりによって生き延びようとする先細りの手法に見える。結局は共倒れ路線だ。今の路線はことさら今に始まったことではなく、従来の延長であり、さらに顕著になっただけと言える。この基本的な路線を考えるとき、日本の現在の国際競争力と、これまでの変化、今後の見通しを見ると、路線のあり方は明らかになると考える。果たしてどうだろう?日本の競争力が人的資源に依拠することは私も全く同感。現実はどうか?少子高齢化の進行は経済競争する国の中でも最たる位置にある。それどころか自殺だの、ニートだの、若者のフリーターだの人的資源が困難に窮し、今後改善の見通しは無く、一般的にはさらに深刻化すると考えられている。だから日本の国際競争力は、低下してきており、さらに低下することになる。これは政府のみならず誰しも気付き、心配していることではないだろうか。反省も無く、政策の見直しや改善が図れない理由は以前書いた。私は本当に分らない。今のやり方で、得になる人がいるとは思えない。目先のことだけで言えば、確かに有利で得をする人たちがいるかもしれない。しかし政府も強調するように、国際競争力が落ちれば、勝者と敗者も、右も左も、企業も働く人も、与党も野党も 結局は同じ運命になる。それはいつか? それが一番問題だが、昔(?)と違い、時代のテンポは異常に早い。しかも国際的に見ても日本は世界1だと私は考えている。(自分はせっかちな結論を求める傾向のあることを承知しながら)恐らく、今の小学生は意外にも早く遭遇するだろうと思う。既に半分遭遇している。現在、経済・教育・社会の出来事は、意外なことばかり。意外なことが意外でなくなっている。出来事に反応できなくなっている大人の問題。国会もあーだこうだとやっている場合でない。やってもいいから、党利党略のレベルでなく、運命を共にすることを胆に据えて本気でやってほしい。メディアや国民も、親や大人の責任を果たすべく他人事ではないとを知るべきだ。子孫に残すのは世界一の国の借金だけではない。難に遭遇する子どもは何も言えず何もできないのだから。
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気になる安倍首相

一国の最高責任者かつ指導者である総理大臣の動きは、良きにつけ悪しきにつけ注目している。
 官房長官時代は紺のスーツにかなり派手な緋やオレンジ色のネクタイが多かった。髪の毛はほぼ中分け、長身で目が大きく端正な顔立ち。声もかすれたオッチャン声ではなく、どちらかといえば美声。きっと女性に持てるタイプかもしれない。

 最近テレビに出てくる表情を見てるとネクタイは地味になって落ち着いた感じにはなったが、(大丈夫かな?)と気になることが時々ある。多分激務で疲れたいるのかもしれない。
 復党組を「お帰りなさい」と迎え一緒に「美しい日本の国づくり」をしようと呼びかけるが、どこか覇気が無く、目がきっちり合わない。声も表情も、どこか硬い。
 ところで、彼は、(だめ教師)の排除のため現職教師の免許証の定期的な書換え・認証を義務付ける制度に変えるつもりらしい。私は40年間も現場教師をやってきたから、(どうかな?)と思われる先生のキャラクターや指導も沢山目にしてきた。(勿論私自身も他の人からはそう思われていたに違いない。)
 
 とにかく長年教師をやってくると、子どもに好かれる教師のタイプと嫌われるタイプの違いはほぼ見当がつくようになった。それで、門外漢の総理がこともなげに、だめ教師云々する安倍総理自身を、経験を元に(仮に安倍首相が小学校の先生だったら?)と暇に任せシュミレーションしてみた。(東京下町の小学校3年生の学級担任だとする)まず、スタイルはどうか?上品で格好いいので担任発表され2日ぐらいは子どもも喜ぶだろう。母親は半年ぐらいは話題にもなりそそくさと学校に足を運びそう。ただそこからが大変だろう。
 
 子どもは、大人よりはるかに人を感覚的に見抜く。子どもは小さかろうとお勉強ができようができまいが、障害があろうとなかろうと関係なく殆ど本能的と思われるほど敏感に教師の本質を見抜く。(社会的に弱い存在だから、自分にとって、どうか?を見分るのは、生きるために必要な感覚なのだろうと私は解釈してきた)
 まず、子どもは自分を認めてくれるかどうかに敏感だ。それは自分が力が無くても自分と言う唯一無二の存在(心)を受け止めてくれるかどうかを見分ける。それは力が弱く、未完で、欠点だらけの自分を分ってもらえるかどうかである。
 
 安倍首相のように、頭のてっぺんから足元まできっちりできていると子どもは感覚的に人種の違い?を感じ取る。大体あのスーツ姿で授業に臨むだろうが、チャイムが鳴っても近寄り難い。よごれた手で、抱きついていけるだろうか?3年生は殆どの教科を担任が指導する。音楽の時間、例えば「どんぐりころころ」を歌って教えたとする。彼が歌うとどうなるか?「ハメハメハ大王」を歌いながら踊れる姿を想像するといい。 体育の時間跳び箱を指導する。彼はお手本にまず跳んでみせる。そこまではいいが、跳び終わって、子どもの方を見てにゃっと笑うような気がする。自分が主人公になってしまう。子どもは自分の座を奪われたようで深いところで自分を見失う。自ら拍手を期待する。子どもはそれを察知し、「すごい!」といいながら拍手する。安倍先生はそのことに気が付かずそのまま授業をを進める。
 音楽も体育も自我意識が強くて歌の世界や教師(ある意味でバカになったような演技が必要)になり切れないだろう。

 それよりもっと子どもがいやなのは、あの目である。目の奥が笑っていない。子どもは安心し信頼することができない。あの上品ないでたちが、子どもにはマイナスに働く。あの声も美声ではあるが、声の表面が硬く内向きになっている。あの声は子どもと思いを共有しようとする声ではなく子どもは入り込めない。あの形でしょっちゅう学力とか規範意識とか、愛国心を口にするから、子どもは頭と体がばらついてくる。
 始めのうちはものめずらしさで何とかなるが幾日もしないうちに子どもは、学校も勉強も嫌いになってくる.家に帰っても学校の話をしたがらなくなる。時に子どもは愚痴ったり、朝の登校を渋る。
 そこで始めて母親は、どうして?と気になりだす。親達の会話も空気が変わってくる。授業参観後、保護者会で、2・3尋ねると、立て板に水で答えられ、母親達は言い返せないでウヌウヌ。結局学校をでるとき、昇降口で井戸端会議になる。
3年後にはうわさが受け継がれ子どもや親の中で好まれない(外れ・だめ教師)の教師になる。しかし彼は一向に変わらない。何故なら、校長に気に入られ出世コースをひた走る。でも彼は4年目に他の学校に転勤し、そこで教頭になり、5年後に校長先生なる。実は彼は教室の評価とは全く違って、担任をしていたときも管理職や教育委員会の評価は抜群に良かった。それで抜擢され管理職になり、先生方を管理監督し指導法を指導する立場になる。10年後にもといた学校に学校長と戻ってくるが、今度は(外れ校長・だめ校長)とは誰もからも言われない。何故なら、彼は校長室と出張ばかりで、めったに子どもに関わらないので、直接の実害は無く、子どもも時どき、親しく冗談を言うので結構人気がある。

。彼は校長先生として他の先生とは別に、一目おかれ尊敬の眼差しで子どもや保護者、地域の有力者に見られる。本人も表向き幸せ気分。退職後、教育長になる話や、市議会議員になる話が有ったとか無かったとか。そうシュミレーションをした。

こんなのは、学校ではよくある一般的な話である。首相は普通の管理職には成れるが小中学校の教師は向いていない。(大学や大学院の教授ならやれるだろう。あれは一方的にやれるから。)

教師に向いていないだめ教師がどうして(だめ教師)云々言うのか? ある程度の自覚にもとずく節度がほしい。

(私は単に総理はだめ教師なのにどうのこうのだけをが言いたいのではない。)もちろんその人のためにも教師をやめたほうがいい人もいるのは事実だが、教師も弱点を持った普通の人間であることも事実である。教師同士で助け合い補い合って、始めて子どもにとって先生達と言う集団的な指導体制ができる、その中で、欠点を持った先生もかけがえの無い先生になる。殆どがそういう先生だし本来そういうものだ。子どもはいろいろなタイプがいるのでそれに対応するには

バラェティにとんだ「欠点を持った先生たち」が必要。だが安倍先ワンパターンの子ども教師を求めている。(それはありえないしそれは少しも教育的ではない。だから、直接子どもと関わる担任は務まらない。)

安倍首相は担任教師ができないだけでなく、教育が分っていない。私が国会で彼のように立て板に水とは喋れないのと同じだろう。

彼も私もスケートで舞う(フュギアー)はできない。

「餅屋は餅屋」なのに権力はそこを錯覚させるようだ。

権力があっても餅屋はスーパーマンにはなれないのに、それをやろうとするからおかし((変に)なる。

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今、人類に求められている2つのこと

  色々な言い方があるとは思うが、次の2つに絞ってみた。
1、自然愛
2、自然科学   
 1、は単に、ペットや草花を愛で、野山を散策することだけを意味しない。   愛でるが、平気で捨て荒らせる人たちも少なくない。  自然を守る積極的な強さと目の前だけでなく自然全体の調和をも大事にするような自然愛。 自然に対し細やかで、ダイナミックな愛が人々に求められているのではないか。  
 2、は社会の壊れ方ががここまで来てしまった以上、1で言う自然愛だけでは解決しないだろう。科学しかも人文科学の土台(私の勝手な位置づけだが)である自然科学の知識が、他に先んじて求められていると思う。
 とりわけ経済や教育でそう思う。人文科学分野の経済では、競って天然資源を掘り起こし、使い、捨てているが、自然科学的には資源は有限で、壊れたものは再生できない。教育も、その対象である子どもは、紛れも無い生物である。生物の成長発達の原理や法則を離れた教育は有り得ない。教育基本法の議論で不当な支配云々が言われるが、政治的中立や法律以前にヒトの発達の自然法が守られなければならない。(今は人以前のヒトとしてすら自然の法は守られず、不当に支配されっぱなし。)

 世の中は全体的に自然科学者の出番が少ない。国会やテレビは人文系一色。社会のバランスが崩れた原因かもしれない。 核兵器の開発も自然科学が人文科学に支配された結果ではないだろうか。(土台と上物が逆転した発想。)
 国会議員や教育再生会議の委員の中に、人類が求めている自然愛や、自然科学の雰囲気の持った人が見当たらない感じがする。
 大げさに格好つけて自然愛だの自然科学だのと書いたが、何のことは無い。
 誰でもが持っている常識とか知恵といわれるもので十分。 

だから結論的には、それを地から図にしようとする意識や努力が求められているだけ。 しかし、そこが難しい。

これは思想や立場をまた日本国内にとどまらない人類共通の課題ではないかと考えている。

  

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