7日㈮、今朝も寒いが雪は積もらなかった。しかし、今夜未明から明日は夜まで降雪の予報。さすがに明日は積もると思う。
先日、金沢で購入した七尾市の和ろうそくを使ってみた。細いろうそくなので、数日、仏壇で使うとなくなってしまうが、炎は大きいように思う。
午前中は綾部市木材同業組合の上原久明組合長らと国交省福知山河川国道事務所へ。本田太郎事務所の西地秘書の手配で副所長らと面会し、組合としての要望を伝えるのに同席した。
午後は事務所に本田太郎事務所の小谷秘書が来られて近況の意見交換。
その後は綾部市教委の大槻伸一教育部長らが来られて意見交換。
夜は久しぶりにNEXT(今川信吾代表)の例会に出席する。
現在の「げんたろう新聞」は、最初の府議選で落選した後、2007年6月13日に発行を始めて、最初は月刊、今は3ヵ月に1度の発行で最新の2025年2月3日付で第162号となっているが、実はその前身の「源太郎新聞」というものがあった。それは2004年2月4日に第1号を発行し、月刊で2006年12月4日付の第45号まで、主に知り合いへのメール添付という形で発行していた。
その第44号(2006年11月2日付)は「今日、人類が初めて、綾部に降りたよ」というタイトルで発行している。今から約18年前、32才の時に書いた文章です。
◆国の成り立ち
最近、『誰も知らなかった皇帝たちの中国』(岡田英弘著、ワック発行)という本を送っていただいた。中国は漢民族の国だと思っていたが、秦の始皇帝から清の宣統帝溥儀までの2132年間のうち、漢人の治世は秦、前漢、後漢、三国、晋、北宋、南宋、明など、4分の1ほどしかないそうだ。
「国家」「国民」「国土」という概念もそんなに古くからあるものではない。西洋でもナポレオン以後のものらしい。それまでは皇帝の私領が「国」と呼ばれていた。
「国」の旧字は「國」である。口の中に「或」という字がある。「或」は土偏をつけると「域」という字になる。國は城壁の中の範囲という意味で、城郭都市のことを指した。
国は独立した存在だったが、皇帝が誕生してそれが変わる。皇帝制度の下では、国は「県」となった。県は本来、「縣」である。縣の下に心をつけると「懸」となる。鉄棒の「懸垂」はぶらさがることだが、県という漢字には「ぶらさがる、つらなる」という意味があり、皇帝の下に「ぶらさがる都市」が「県」であった。
皇帝はいくつかの「県」をまとめる「郡」を置いた。これは「軍」であり軍管区のことである。皇帝が派遣した太守(軍管区長官)が軍事力でその地域を押さえた。秦の始皇帝は天下に36の郡を置いた。この「郡」が日本語の「くに」の語源となっている。
◆聖徳太子以前の「創史」
秦の始皇帝が即位したのは、紀元前231年。その頃、日本はどうなっていたのか、いまだによく分かっていない。邪馬台国の卑弥呼が、魏の皇帝に使いを送ったのが紀元後239年。始皇帝即位から500年ほど後のことだ。
最初の天皇である神武天皇の即位は紀元前660年、76年の在位とある。6代孝安天皇は紀元前392年から291年まで102年在位している。102年というのは、疑問が残る。16代仁徳天皇も87年在位、110歳まで生きた。この時代の歴史はまだまだ分からないことが多い。
『皇帝たちの中国』では、有名な「日出ずる国の天子から、日没する国の天子へ」という国書を送り隋の煬帝を激怒させたのは、聖徳太子ではないとする。『隋書』の「倭人伝」には、国書を送ったのは「阿毎・多利思比狐・阿輩鶏彌」(天足彦大王)という男王で、鶏彌(きみ)という妻と利歌彌多弗利という息子がいたとある。
聖徳太子が国書を送ったというのは、『日本書紀』の記述であるが、「日本書紀が使った史料は唐の時代になってからでっちあげた信用のならない史料ではないか」と書かれている。
日本の歴史書はどこをひっくり返しても、国書を送った608年の天皇は女帝・推古天皇だ。聖徳太子以前の歴史は、書き換えられたという生易しいものではなく、「創史」に近いのではないだろうか。
◆人類は綾部に降り立った
僕は綾部には二度、「都」があった時があると考えている。
一度目は最初に人類が地球に降り立った時、二度目はその人類が日本を発し、ギリシア・ローマを経て、ブーメランのように日本に戻ってきた時。日本の古代神話とギリシア神話の共通点が多いのは、それが同じ出来事だからだ。
ブーメランは還ってきて、二度目の都を滅ぼし、その歴史を封印した。
聖徳太子や蘇我氏と争って敗れた物部氏の祖先といわれる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨伝承が、『先代旧事本紀』という書物に描かれている。
ー 日神、月神、星神、その他大勢の神々を従えて、五部および二十五部の天津物部の兵を従え、呪能のある十種の天津瑞宝を携え、天磐船に乗って威風堂々と河内の「イカルガノ峰」に天下った ー。
この『先代旧事本紀』という書物は、長い間『日本書紀』と並んで日本最古の歴史書として重要視されてきたが、近世になって、作成年代は平安時代ではないかとされ、信憑性が疑われている。この際、「河内」という地名も後に書き換えられたものだとしよう。
綾部に住む者として、まず、信じることから始めたい。(了)