現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

酒井勝軍-異端の伝道者

2021-06-16 09:10:49 | わが家のこと

ヤフーショッピングでは、新刊本で『酒井勝軍-異端の伝道者』がありました。久米晶文著で、2012年8月に
学研パブリッシングから出版。4,000円
「酒井勝軍」の画像検索結果

早速注文しましたら即、翌日には送られてきました。
600ページに及ぶ分厚い本」を設立。

日露戦争では、留学の経験と語学力をかわれて、外国からの観戦将」の接待役に任ぜられた。その従軍体験と外国将校との折衝から、彼は「欧米崇拝」から転じて「日本(軍人)」の優位性に確信を持つようになる。

さて、アメリカから帰国して「東京唱歌学校」を設立した年に、「森かの(子)」と結婚したことも書かれており、妻子の写真も掲載されていました。私の祖父森治郎の姉です。

私の祖父は、森家から牧原家に養子として入り、私の父が4歳の時に亡くなっていますので、どこの誰だったのか、全く解りませんでした。その姉が「かの(子)」で病弱だったことなど、この書で初めて解ったのです。


酒井勝軍の孫 万沢安央(康夫)氏

2021-06-16 08:57:48 | わが家のこと

酒井勝軍の名は、高村光太郎の日記にも出てくる。

「光太郎の姉?が酒井勝軍の音楽教室に通っていたが音楽はサッパリだめで、絵や彫刻にはすごい才能を発揮した」と。

酒井勝軍の一人娘の智慧さんは、NHK専属ピアニストの万沢氏に嫁いだ。この万沢智慧さんが、私が幼少の頃、私の家にピアノを教えに来てくれていた。“父の従姉妹”になる。

その智慧さんに、二人の息子さんがいた。昭和30年当時、中古だがトヨタ・クラウンに乗っていた。当時120万。庶民には車など高値の花だった。

その万沢康夫氏の消息を探していたら、ネットで、バイクの雑誌の編集長をやめて、岩手県に住んでいることが判った。



慶応中等部の地は、会津藩下屋敷だった。

2021-06-14 05:35:39 | わが家のこと

今週の運勢に「自分のルーツを知る時」とあった。

「慶応中等部」のOB会報が来て、中等部の体育館を建て直すので、遺跡調査をしたら「会津藩下屋敷」の跡が出てきた との調査報告が載っていた。

そう、私が中等部に通っていた頃は全く気づいていなかったのだが、

三田綱町一帯は会津藩下屋敷だったのだ。

私の先祖、牧原只右衛門直源は、系図に「御田屋敷で生まれる」と書かれている。

名古屋に来てから。近くに「御田(みた) 中学」があるので、「御田」は「三田」と読むと気づいたのだ。

私が通った慶応中等部は、先祖の縁(ゆかり)の地だったのだ。

慶応に入れたのもご先祖様のご縁か。



保科正之の正室は藤木氏の娘「お万」。その子「正経」が二代藩主となったが、病弱で子供がなかった。そこで「正経」の後、三代目は、正之の側室が生んだ「正容」が継いだ。

私の先祖 牧原只右衛門は、13歳の時、保科正之の6男「正容」の小姓となった。その「正容公」が たまたま 藩主になったため、側用人として、500石取りにまで出世する。

サラリーマン社会も同じだ。自分の仕えていた上司が社長にまで出世すれば、取り立ててもらえるが、上司が失脚すれば一蓮托生。すべて運、不運。いや運を呼び込む能力も必要か。

実は、大学4年の就職活動で、求人案内を見て、たまたま家の近くなので寄ったのが千代田生命。その場で一次試験。二次試験と通り、役員面接の時びっくりしたことが。副社長が萱野章次郎氏だった。その萱野副社長から「僕君のこと知っているよ」とお声をかけていただき、びっくり仰天。萱野章次郎氏は、明治2年戊辰戦争の責を一身に追って死罪となった萱野権兵衛長修の子孫、戦後最高裁判所長官となった三淵忠彦の次男で萱野家を再興した方。会津人にとっては殿様の次に大切な方。これも奇遇。萱野氏のおかげで、私は千代田生命に入社できた。その後萱野氏は千代田生命の社長になられ、私は30代までは異例の出世。ところが、萱野氏が癌で亡くなられると、私は和歌山支社に飛ばされ、人生の転落が始まった。


文化8年から明治8年までの記録

2021-06-05 22:22:03 | わが家のこと

母方の曽々祖父が書き残した『私記』を、紐解いてみた。

曽々祖父は文化8年(1811)の生まれ。それから明治8年(1876)まで、65年の回想録。
会津藩は ロシアの侵略に備えて樺太警備につき、続いて、ペリー来航に備えて 房総・三浦の警備。そして京都守護職。あげくのはての戊辰戦争。その果て、下北半島へ移住して、辛酸を舐めた。

曽々祖父は11歳で父を失い、伯父に育てられる。妻にも先立たれ、二人の息子も戊辰戦争で失う。60歳で下北半島への移住だった。

これ以上の悲しみは無いと思うのだが、驚くのは「天災、地震、水害、火事の多さである。毎年のように災害に見舞われている。安政2年(1855)の大地震などは「煙草を一服吸う間くらい揺れが長かった。死者10万4千人」と書いている。(ネットで調べたら「1万4千人」。誇張か?)

会津藩は、江戸湾にお台場を築いていた。「建物が崩れ、助け出したくとも大砲が邪魔して助け出せず、やがて火が出て、中の者は多く焼け死んだ」とある。この年は、大きな地震だけで3回。余震は300回に及んだという。

戊辰戦争で家を焼かれ、廃墟の中から ようやく復興した明治21年、磐梯山の大爆発があった。天はどうして こうまでも無慈悲なのか。

今の東北地方の震災に思いを合わせる。東北人は苦労ばかりしてきた。東北はホントに貧しかった。藁葺き屋根に土間での農作業。会津人は、私も父も祖父も、冬でも、家では靴下を履かない。下北での苦労が4代の子孫まで染み付いているのだ。

それが、下北半島の六ヶ所村に行った時、ガイドさんが「ここは、日本一豊かな村です」と紹介してくれた。
原子力の施設のおかげで、各戸、水洗トイレに冷暖房完備だという。福島原発もそうだ。産業も無く、高度成長にとり残された寒村で生きていくには、原発は救いの神だった。
それが今回の惨事。幸福の高い代償だったか。


紅花の産地だった「長南町」

2021-02-14 20:02:27 | わが家のこと

長南(ちょうなん)町」のガイドブックに「紅花と言えば山形ですが、紅花の原産地はここ長南町で、室町時代に武田に攻められ、敗れた長南一族が山形に逃れて、紅花を山形に伝えた」とありました。

 

ネットで見ると「長南」姓は山形に多く、「全国長南会」という組織が「長南氏」の歴史について詳しく調べています。

1456 古河公方の命で武田信長、長南に侵入。長南修理介常春(23)降伏。
1459 長南氏義、千葉氏に抗す
1476 長南氏、出羽最上の清水氏に召し抱えらる

この時「紅花」を山形に持ち込んだのでしょうか。随分昔のことです。

しかし、山形での紅花の栽培が盛んになり、「国産品」として出荷されるようになるのは、江戸時代の後半のようです。


私の推測ですが、小田原北条氏滅亡後、信濃高遠の保科正光がこの地を支配しており、10年後、大阪の陣以後、高遠に戻り、後、保科正之の代に山形へ移封、さらに会津に転封となります。
紅花は会津でも栽培されるようになっており、長南の紅花は保科氏によって山形、会津に伝えられたのではないかと。

会津の蕎麦(ソバ)は、保科氏が信州から伝えたというのはよく知られた話です。高遠の人が言っていました。保科家の会津移住の際、蕎麦職人と蕎麦の種をみんな持っていってしまったため、高遠からは蕎麦屋が いなくなった」と。

紅花もそうではなかったかと思うのです。

『山室家譜伝記』によれば、山室氏を滅ぼした後の領主となった保科正道の娘が「長南御前」といい、化粧料として5千石の地を与えられていたとのこと。

「長南町」の由来については、地元の人に聞いても「知らない」というのですが、「長南御前」の御料地だったと知って驚きです。「長南町」には「御所館」という城跡もありました。

思えば、父の納骨の日、家族で「笠森観音」に詣でました。その時、父の遺骨は 車の中に置いていったのですが、後で写真を現像して驚きました。母の側に白いかげが付きまとっているのです。これぞ父の「心霊写真」かと今でも思っています。

 


岩村田藩の山室氏

2021-02-13 21:01:26 | わが家のこと

母方の「山室」氏の出自は「千葉県の山室」と突き止めたところ、親戚から「佐久市の岩村田藩の重臣に山室がおり、一族ではないか」と手紙が届いた。

早速ネットで検索してみれば、「岩村田藩の重臣山室尚高の4女」で、明治時代にいち早くロシア正教会に入信し、石版画でイコンや人物画を描いて有名となった「山室政子(結婚して岡村)」がいた。

また 同じく岩村田の出身で、詩人で児童文学の「山室 静(しずか)(男性)。 1906年(明治39年)-2000年(平成12年)」がいる。

 

 

では「岩村田藩」とは?。ネットで調べてみると、江戸時代にできた小藩でした。

内藤氏の一族「正友」が、初め 500石から出発し、武蔵・上野・常陸・上総・下総など各地に分散して領地をもらい、1万5千石にまで出世した。はじめ、武蔵国赤沼藩主となり、さらに元禄16年(1703年)佐久郡の内27ヶ村で1万6000石を与えられ、岩村田陣屋を置いたことに始まる。城は無かった。

この岩村田藩の山室氏も、江戸時代になって移り住んで来たとすると、内藤氏が下総に知行地を持っていた時の仕官ではなかったかと想定される。そうすると、やはり 下総 山室の一族か。

尚、内藤氏の一族には、保科家の後の高遠藩を継いだ内藤清長がいる。「新宿」の地名の起こりとなった「内藤新宿」の領主だ。だが、江戸時代の高遠藩には「山室」姓はいない。


上杉の時にも山室氏が

2021-02-13 20:46:45 | わが家のこと

ネットで検索していたら、長野市松代にも「山室氏の城、霞城」があることがわかった。

こちらの山室氏は、「天正10年(1582)に織田方の森長可から知行を安堵され、その後、越後の上杉景勝に属した。そして、上杉景勝が会津移封となった時、山室氏も会津に移り、1,050石の知行を得た」という。

 

会津は、鎌倉時代は三浦一族の「芦名氏」が支配し、伊達正宗滅ぼされ、秀吉の命で蒲生氏郷がはいり、さらに上杉景勝

その上杉の家臣にも山室氏がいたことになります。しかも1050石とは大身。

その上杉は、関が原の時、家康に敵対し、改易、山形県の米沢に移封となります。

そして四国松山から加藤嘉明。そして保科と、次々と領主が変わります。

そして、私の母方の山室氏は千葉から高遠を経て会津に来た。

 

おっと、その前、鎌倉から室町にかけて会津を支配した最初の領主「芦名」氏の家臣にも「山室」姓の者がいたのです。

私が所持している『芦名時代の分限帖(家臣録)』の中に「山室」姓がいるのです。

 


母方「山室」家のルーツ ③

2021-02-13 20:17:11 | わが家のこと

私は、子供の頃、毎年夏休みには、母の実家、会津の山室重遠伯父の家に遊びに行き、伯父から尺八の手ほどきを受けました。

母の二番目の伯父「山室信朗」は、千葉大医学部を出て、千葉の国立療養所の医師を務めていました。その信朗伯父も尺八を吹いていましたので、私は、夏休み以外は土日に、千葉の伯父の家に行って、尺八を習ったのです。

その伯父が言っていました。「千葉県には山室姓が多い。どうやら、山室は千葉の出のようだ」と。しかし、千葉の山室が、どうやって長野県の高遠に移ったのかが、わからず長年の疑問でした。

会津藩祖・保科正之は、徳川2代将軍秀忠が、お女中に手をつけて生ませた子で、正室「お江」の嫉妬を怖れて、高遠の保科家に匿われて成長しました。「お江」が亡くなり、3代将軍・家光の代になってから、「兄弟」の対面をし、「弟ならば、東北の備えに」と会津藩主に大抜擢されたのです。
会津は、山形米沢の上杉、仙台の伊達に対抗するため、徳川親藩として築かれた新興の藩でした。

高遠の保科家は、わずか2万石の小藩でしたから 家臣はわずか 150人ほど。それがイッキに 会津23万石になったのですから、3,000人もの家臣団が募集されました。

私の父方の「牧原」は 紀州徳川家から、小姓として入り、500石取りの側用人にまで出世しました。

ところが、母方の「山室」は「信州高遠以来の家臣」と伝えられながら、なぜか「外様」扱いで、屋敷は「郭外(外堀の外)」。禄高は100石に抑えられてきました。その地名は「新横丁」でした。

それが、長年の疑問だったのですが、千葉の下総、成田飛行場の南東に「飯櫃(いびつ)城」があり、山室氏の居城だったことがわかりました。しかも、なんと、小田原北条氏が滅びて、家康が関東に入封してきた時、家康の命で、保科正光がこの城を攻め、山室氏を追い出して、しばらくは、保科氏が領有していたのです。

保科氏は関が原の後、また信州高遠の旧領に復帰します。

つまり、山室氏は千葉の豪族で、保科氏に攻められて 敗れたが、その一族の一人が保科家に仕えて、高遠に移り、さらに会津へと移り住んだものと考えられますしかし山室氏は、保科氏に滅ぼされた敵方であるため、「外様」の扱いを受けていたのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「横浜在住の山室」さんから、こんなメールをいただきました。

「曽祖父の代まで、千葉県の松戸市の旧水戸街道沿いに屋敷を構えており、江戸時代は、名主帯刀を許された家柄であったと聞いています。
千葉県、特に松戸市の山室家の歴史情報をお持ちでしたら教えてください」と。

千葉に住む姪からも、「以前務めていた病院に 山室という同姓の人がいました。千葉には山室姓が多いようです」と。


母方「山室」家のルーツ ②

2021-02-13 20:03:36 | わが家のこと

「母方の山室家は、信州高遠の出、高遠には山室川という川もある」と、子供の頃から聞かされていました。

一昨年、高遠から山室川の上流まで、虚無僧で行ってきました。途中に 町営の山室温(鉱)泉というのもありました。

 



「山室」という地名は、町村合併で消えてしまったようです。高遠には「山室」姓の家は一軒もなく、「山室川」の由来についても訪ね歩きましたが、知っている人はいませんでした。

会津藩家老の「北原」家は、高遠の出で、「北原」姓は高遠にも多くいるとのこと。「北原」家は、会津藩の家老として重用されたのに、山室はなぜ、100石止まりだったのか。しかも山室は、郭外の「新横町」に住まわされていました。

なぜ「横丁」と「新」がつくのか疑問に思っていました。高遠にも「横町」という町名が有ったのです。このことは、会津との関連を感じさせます。

さて、こんな疑問が解けたのは、父の墓参りがきっかけでした。


父の墓は、千葉県・房総半島の「長南町」にありました。今は墓じまいして成田の方に移しました。


長南町の町営墓地なので「安いから」と、母が買い求めたのですが、なんと「長南町」は、保科正光の正室「長南御前のご料(領)所」だったというのです。なぜここに、「高遠の保科氏の正室が?」と意外な事実にびっくり。

そして調べるうちに、成田空港の南に「山室城」があり、戦国時代まで この地を支配していたのは山室氏で、保科によって攻め滅ぼされたことが判ったのです。

それは、小田原北条氏が秀吉によって滅ぼされ、徳川家康が関東に入封した時。高遠の保科氏も随行し、千葉下総の「山室城」攻めを命じられたのです。

そして、保科氏は、山室氏を滅ぼした後、10年、この辺りを支配していたのでした。

そして関が原の後、保科氏は旧領の高遠に帰ることとなります。徳川家康は、武田や北条、佐竹を攻め滅ぼしながらも、その遺臣たちを懐柔して雇用しています。

ですから、山室氏も保科の家臣となり、高遠に移り住んだと考えられます。

保科の家臣となっても、元は「敵」だから、山室氏が高遠で厚遇されるはずはななかったのでしょう。しかし、山室氏は築城や開墾の技術に長けており、城からさらに上流の一帯を治水開墾したのではなかろうか。それで、新田開墾した地区が「山室」と呼ばれたと、推理してみました。

下総の山室には、円墳としては千葉県最大の「山室姫塚古墳」があります。付近一帯は、17基の円墳、横穴石室などたくさんの古墳があり、「山室」とはこれら古墳に由来した姓と思われます。

 

しかし、信州高遠の山室には、それをイメージするものは見られませんでした。つまり、高遠の山室一帯は千葉の「山室」氏が治水開墾した土地ではないか、と勝手に想像しています。一応、山室城跡というのがありましたが、城というよりは館跡のようです。山室神社もありましたが、その由来は不明でした。

山室城跡 城主、経歴不明

山室神社 


母方「山室」家のルーツ①

2021-02-11 23:08:24 | わが家のこと

私の父方も母方も、先祖は会津藩士でした。父方の「牧原」は、家光の弟の「保科正之」が、信州高遠から山形を経て、会津藩主となって以降、紀州徳川家の支藩「新宮」から、会津藩に召抱えられ、「側用人 500石」 まで 出世しました。

一方、母方の「山室」は、「信州高遠以来の家臣」でありながら、なぜか「外様」扱いで、住居は郭外(外堀の外)、100石止まりでした。

 

ずっと不思議に思っていたのですが、偶然にも、その謎が解けたのです。

 

父の墓は、千葉県の房総半島の真ん中「長南町」の町営墓地笠森霊園にありました。(今は墓じまいをして、成田の方に移しました)

近くにある「笠森観音堂」は 高い櫓(やぐら)を組んだ独特の建物で、江戸時代の浮世絵にも描かれており 有名です。


棟木の墨書銘により、「文禄年間(1592年-1595年)の再建。天正18年(1590)に 山室氏が滅び、慶長5年(1600)まで 保科氏が領有していた時代に建てられたもの」と、知ってびっくりしました。

江戸時代の浮世絵に描かれた「笠森観音」


山室」姓。そしてなぜ、ここに「保科氏」が?
このことから、調べていくうちに、母方の「山室」氏は、千葉県の豪族で、徳川家康の関東入封の時、信州高遠の「保科氏」によって攻められ、降伏した後、保科家に召抱えられ、高遠に移ったということが判ったのです。

「長南町」の墓地は、母がテレビ広告を見て「45万円で 安かったから」と決めたのですが、東京から片道3時間半もかかります。

父の墓参りに行くたび、「なんで こんな所に」と思っていたのですが、近くに、「山室城」があると知って、墓参りの後、立ち寄ってみました。

山室氏の居城跡というのは、二つありました。

千葉県の成田空港の南西、松尾町に「山室城址」があります。

 

また、山武郡芝山町飯櫃(いびつ)にある飯櫃城も 山室氏の居城でした。双方とも小さな丘で、碑が立っていました。



飯櫃(いびつ)城」は、天文元年(1532)山室氏が 山室城から移り、天正18年(1590)保科正光によって攻め落されるまで3代にわたる居城でした。

「飯櫃(いびつ)城」のある芝山町の役場に行きますと、親切にも『総州山室譜伝記』を 貸してくださいました。

 


江戸時代の宝暦年間(1751年~1763年)に書かれたものですが、 80ページにも及ぶ相当な内容です。


天正18年とうのは、秀吉が小田原の北条氏を滅ぼした年です。
映画『のぼうの城』もそうですが、関東一円は「北条方」で、前田利家や徳川家康によって、次々と攻められ 降伏します。

ここ「山室城」も、家康配下の高遠の保科氏に攻められ、その後10年間、保科氏が支配していました。

『総州山室譜伝記』によれば

飯櫃城籠城時の山室一族として、当主の山室常陸守光勝はじめ、長男 山室宮内卿光慶、二男右馬頭光重、三男大内蔵丞重昌、一門の山室弾正左衛門、同太郎通勝、教勝、忠勝、山室伊勢守忠隆、山室肥前守長隆、と10人も列記されています。

そして、合戦の様子を こと細かに記した後、当主の光勝自害したが、一族は逃げ延びたこと。長男 光慶と 妻お藤の方、その子梅千代丸勝延、落城後に生まれた清兵衛蔵人、光勝の二男光重、三男重昌は 民家に下り(武士を捨て)、菱田村殿部田に居を構えて住んだとありました。


私の母方の過去帳に、初代は「山室筑後守」とあります。『総州山室譜伝記』には「筑後守」の名はありませんでしたが、「常陸守、伊勢守、肥前守」と国名を冠している人が多いこと、「重」の字を代々通字として使用していることからも、「山室筑後守」は、このうちの一人ではなかったかと思われます。

飯櫃城の山室一族は滅びても、「山室」という地名や 城跡が残っていることには 感動でした。