私のブログのコメント欄に「伊与田為成の末裔」という方から、
「本籍」についての質問をいただき、その観点から「西郷頼母と
四郎」の養子縁組について、三日三晩考察してみました。
その結果をブログ3回に分けて書いてみました。
参考資料は、
『会津史談』第71号 (平成9年)「西郷四郎の憂鬱」青木利秋
『会津会会報』第114号(平成20年) 「西郷頼母・きみと依田勉三」小池明
尚、「西郷頼母と四郎」についての参考文献は、ネットで検索して
みましたら、これだけありました。
広沢安宅『幕末会津志士伝 孤忠録』著者刊 P45-47
『会津会雑誌 第29号』会津会 P41-44 荘田三平「幸運の不覊漢 西郷頼母」
『会津会雑誌 第33号』会津会 P21-23 加藤寛六郎「西郷頼母翁の事」
『会津会雑誌 第35号』会津会 P36-41 堀江覚治「西郷頼母翁」
『北陽史談 第4年第1号』喜多方史談会 「西郷頼母近悳伝」
『会津史談会誌 第1号』会津史談会 P7-17 「栖雲記」
『続会津資料叢書 下巻』歴史図書社 P223-224 馬島瑞園「西郷近悳」
『奥羽史料 第2号1編』香雪精舎 「八握髭翁伝」
『史談会速記録 合本41』原書房 P409-413
『若松市史 下巻』若松市役所 P569-570
井深梶之助『井深梶之助とその時代 第1巻』明治学院 P39-41
相田泰三『維新前後の会津の人々』会津士魂会 P137-140
『福島県史 22 人物』福島県 P237-238
『会津会会報 第77号』会津会 「会津藩城代家老西郷頼母一族殉死の真相」
西郷頼母研究会編『西郷頼母近悳の生涯』牧野出版
そして「西郷頼母研究会」なるものがあるようです。
堀田節夫(ほったせつお)
昭和7年(1932)8月生まれ。愛知県立時習館高校卒,早稲田大学第二文学部社会学科中退。
昭和51年6月,西郷頼母研究会を結成,代表幹事となる。同会にて「西郷頼母研究」
「西郷頼母の生涯」を編纂刊行する。
昭和61年,読売新聞社刊『ザ・会津』に「会津の痛恨」を執筆。
平成5年9月『「栖雲記」私注』(東京書籍)
同年10月『幕末の会津藩家老 西郷頼母』(歴史春秋社)刊行。
平成16年『幕末・会津藩士銘々伝』(共著,新人物往来社)刊行。
『帰る雁が祢 私注―会津藩老・西郷頼母の晩年の日誌』2007年3月発行
会津藩筆頭家老の「西郷頼母」と薩摩の「西郷隆盛」は、遠祖を
同じくし、明治10年の西南戦争では、二人の間に手紙のやりとりが
あって、「頼母」も政府転覆謀議の疑いを掛けられた。ということは
知られているが、ネットで見つけました。衝撃の事実!?
★隆盛、頼母との連絡を策す
薩摩と会津は、元治元年(1864)の「禁門(蛤御門)の変」では
ともに長州を撃退した仲であり、「西郷隆盛」は 会津藩の「山本覚馬」等と
面識があった。
慶応4年(1868)正月「鳥羽・伏見の戦い」が起きた時、
京都にいて薩摩藩兵に捕えられた「山本覚馬」は、西郷隆盛に
よって救い出された。
その山本覚馬の意見によって、西郷隆盛は、「西郷頼母」が
非戦論者であることを知り、会津戦争の収束のために「頼母」との
接触を切に望んだ。
8月、「隆盛」は、北越から侵攻し、越後新発田藩士・窪田半兵衛をして、
会津藩の「山田陽次郎」(頼母の実弟)と「志田貞二郎(西郷四郎の父)」に
接触し、津川から若松城下へ急行せしめ、「西郷頼母」との連絡を求めた。
長州征伐、徳川家処分、江戸城明渡し、後の庄内藩処分の例などからも
わかるように、西郷隆盛は、会津戦争も道義的、平和裡に収束する道を
模索せんとしていた。
「西郷頼母」は8月26日、殿より密命を帯びて、一子「吉十郎」を
連れて、密かに鶴ケ城を出、越後口の萱野権兵衛長修のもとへ行っている。
「萱野権兵衛」に伝えたのは「城に戻らず、城外で戦え」というものだった。
しかし、それだけでは釈然としない。また、その後、「頼母」が米沢から
仙台まで、無事に辿りついているのも、不可解なことではあった。
会津から米沢へ通じる道は、米沢藩が 通行を阻止していたにも
かかわらずである。
頼母は、藩主より「隆盛と接触して、何らかの和平の道を見出すよう」
との密命を帯び、越後口へ向かった。「和平工作」を阻止しようとする
二人の刺客が「頼母」の後を追ったが見失ったとも。
8月27日、萱野権兵衛の隊は「只見川」の「船渡」で、西軍の攻撃を
食い止めていた。
9月にはいって、「頼母」は、薩摩の密偵の先導により、対岸に
待機していた西郷隆盛との接触を図ることに成功したのである。
『八重の桜』では「秋月梯次郎」が降伏の使者となるが、
「江戸城無血開城」も「勝海舟と西郷の会見」の前に、清水で
「山岡鉄舟」と「西郷」が会見し、ある程度の根回しができて
いたように、「西郷隆盛と頼母」との密かな工作があった。
この時、西郷隆盛は、頼母に自刃を断念させ、隆盛とともに、
「新しい国家建設のために力を合わせる旨」盟約するに至った。
しかし、西郷頼母は、会津藩の責任ある立場にある者であっただけに、
隆盛との接触を秘し、時局安定のときまで身を隠すべく、弟「山田
陽次郎」とともに、薩摩の密偵に守られて、米沢から仙台に行き、
大鳥圭介軍に投じて 幕艦開揚丸に乗って函館へ奔ったのである。
箱館戦争でも、「西郷頼母」は積極的に戦陣で戦ったわけでは
なかった。「頼母」は戦列を離れて、江差で 隠棲者のごとき
生活を送っていたのである。明治2年4月5日、政府軍が
江差北方の乙部村に上陸してきたため、旧幕軍は土場から
松前方面へ後退した。
その時、頼母は官軍に「自訴して降伏」したため、4月16日
江差に上陸して来た黒田清隆に伴われて、松前へ、さらに箱館へ
移って、官軍の特別の保護下に入れられた。
明治2年5月、戊辰戦争の首謀者として、会津藩末席家老の
「萱野権兵衛」が死罪となるが、筆頭家老の「西郷頼母」は
「行くへ不明」として、死罪を免れる。これも5月20日
箱館に上陸してきた「西郷隆盛」の計らいであった。
明治2年9月東京へ護送された「西郷頼母」は 館林藩に
幽閉されたが、3年2月11日、幽閉を解かれる。
明治4年春、「頼母」の子「吉十郎」が「隆盛」の尽力に
よって島津啓二郎(当時13歳)と共に米国に留学する。
秋九月、「頼母」は「隆盛」の斡旋によって、伊豆半島の江奈村
(現松崎町)に行く。この地は、かつて慶応3年5月、西郷隆盛の
依頼により、頼母が、会津藩士・大島篤忠を 鉄砲基地調査のため
送りこんだところ。
「頼母」は一旦帰京した後、翌5年春、再び、江奈村に入り、
大沢村の差配大家「依田佐二瓶平」が設立した「謹申学舎」の
塾長となる。その年の10月、「西郷隆盛」は、小田原、湯河原、
下田に至って「頼母」と共に 南伊豆の「鉄砲鍛冶旧跡」を視察
している。
西郷頼母の子「吉十郎」は「西郷隆盛」の尽力により、明治4年
米国のアナポリス海軍兵学校他へ留学し、9年4月に帰国。
鹿児島で西郷隆盛の弟「西郷小兵衛」方に起居。「私学校党」に
与して西南戦争に参加、肥後高瀬の戦において2月27日負傷
したため、西郷小兵衛の計らいで、長崎の洋医のもとへ送られた。
西郷小兵衛は、その半刻足らずの後、銃弾に当って戦死した。
「吉十郎」はその後、東京に移り、明治12年に病死している。
西郷隆盛と会津の西郷頼母がこれほど関わっていたとは、
全く知らなかった。事実か否か、出典史料は全く無い。
ネットで見つけた★季刊誌『暗河(くらごう)』1975年春号
「西南の役特集」■第二次革命を盟約した薩摩西郷と会津西郷
この内容は、実に衝撃的。これまでの「西郷頼母」の疑問点を
イッキに解消してくれる内容である。
「西郷頼母」の謎
①会津籠城戦が始まると、忽然と姿を消した理由
②敵の包囲網を潜り抜けて 米沢、仙台まで無事たどりついたこと
③箱館で実弟の「山田陽次郎」と落ち合い、行動を共にしていること
④何の目的で箱館まで行ったのか
⑤その後「館林藩」に幽閉されたが、なぜ一人だけ「館林藩」だったのか。
⑥明治5年には伊豆にいたが、何故伊豆に行ったのか。
⑦その時「伊与田きみ」を伴っているが、いつどこで「きみ」と一緒になったのか
⑧一子「吉十郎」の所在は?
⑨明治10年、西南戦争が始まると、西郷隆盛と通じていたということで
「都都古分神社」の神職を解任されているが、本当に「隆盛」と親交が
あったのか
⑩志田四郎を養子にした理由と入籍の時期
まず、城を抜け出して出奔したのは、藩主「容保」から 極秘に
「和平工作の道」を託され、「西郷隆盛」と会うためだった。
「頼母」は越後口で「隆盛」に会って、会津開城への道筋を
協議した。
米沢への道は、米沢藩によって閉鎖されていたにもかかわらず、
米沢を経て仙台まで行けたのは、「隆盛」の手助けがあった。
箱館にまで行ったのは、西郷隆盛と通じていたことを隠すため。
箱館からは特別待遇で東京に護送されており、「館林藩」へは
西郷隆盛の指令で、「生田万」の事跡と書き残した文書を調べる
ためだった。
明治3年には、幽閉が解かれ、斗南藩へお預けとなる。それで
「頼母」は青森県上北郡伝法寺村に移住していた「伊与田きみ」を
招きよせ、結婚した。
そして明治5年の伊豆行きも、西郷の指令で、鉄砲製造基地の
調査のためだった。
一子「吉十郎」は、西郷隆盛の援助でアメリカに留学しており
西南戦争では西郷軍として参加していた。
西郷頼母が支援物資を送ろうとしていたのは、一子「吉十郎」へ
届けるためだった。
頼母が隆盛の支援を受けていたとなると、これまでの疑問点は
イッキに解決する。だが、薩摩憎しの会津藩遺臣の手前、
それは ひた隠しにしておかなければならない秘密だったのだ。
でも「吉十郎」が アメリカに留学したという事実があったのだ
ろうか。なぜ今まで誰も知らなかったのだろう。
『会津会会報』第114号(平成20年)所収、「小池明」氏の
「西郷頼母・きみと依田勉三」の最期に、興味深いことが
書いてあります。
西郷頼母と20年連れ添った「きみ」さんは、明治23年、
「頼母」と離別した。明治19年に横浜で二人並んで
写真を撮ってから4年後。「きみ」44歳。「頼母」が
霊山の神主になった年。ちょうど訪ねてきた養子の「四郎」が
別れた理由を問いただしたが、「頼母」は黙して語らなかった。
その3年後の明治26年、「きみ」は 47歳で 南会津郡
伊南村の神官「大宅正則」に嫁した。名前も「照(てる)」と
改名している。
そして、大正14年12月28日、その村で亡くなっている。
墓は「伊南村白沢」にある。
「きみ」の晩年に数年間仕えたという婦人の娘が、
「母から聞いた話」というのが面白い。
①「きみ」さんの誇りは最後まで「会津藩家老の妻」だったということ。
②「きみ」さんが「頼母」と別れたのは、「頼母」に
「三富(みとみ)安(やす)」という女性ができたから。
(「えっぇぇ~」でござるよ。この女性については不明。
頼母の最期をみとったのは「斉藤なか」)。
③「きみ」の最初の夫「遠山主殿」との間に生まれた実子の
「横田つや」が、10年ぶりに 伊南村まで会いにきた。
④「西郷頼母」は、城を抜け出して、箱館なんかには行ってない。
「頼母」は、藩主の命令で日光東照宮に隠れていたんです。
(チョッと、これは誤報)
⑤「きみ」さんは会津戦争後、「伊与田」家の家族として
「上北郡四和村伝法寺」に移住し、「頼母」とはそこで
結婚したのです。
⑤が いい加減な情報だけに、⑥も信じてよいかは判らない。
しかし「頼母」の本籍が「伝法寺村」であったことから、
「頼母」は明治3年、館林を出て、一時「斗南藩」まで
行ったのだろうか。かつての筆頭家老が、斗南に現れたと
なると、それなりの扱いと記録があろうはずだが・・・。
他の藩士に顔向けできず、密かにだったのだろうか。
『会津会会報』第114号(平成20年)所収、「小池明」氏の
「西郷頼母・きみと依田勉三」に「頼母」と「きみ」の
写真が2葉掲載された。これによって、「頼母」の
今までのイメージが一変した。
「西郷頼母」といえば、「戊辰戦争で“非戦論者”であった
ため、卑怯者、臆病者との謗りを受け、一家全員が自刃、
長男吉十郎も若死にして、一人生き残り、晩年は、東照宮の
神官を勤めたりしながら、寂しく生涯を終えた」という
イメージだったが、どうしてどうして・・・・・。
まず一枚の写真は「明治5年、西伊豆江奈村」で「きみ」と
伊豆の名家の倅「依田勉三」の三人で撮ったもの。
「頼母」43歳、「きみ」26歳。
依田家の子孫が保存していた。この年、伊豆の名主「佐藤源吉」や
豪農の「依田佐二平」によって「謹申学舎」が建てられ、
西郷頼母がその塾長として迎えられた。一緒に写っている
「依田勉三」は「「依田佐二平」の弟で、塾生の一人。
後に上京して慶応義塾にも学び、北海道帯広の開拓に勤めた。
もう一枚の写真は「明治19年、頼母57歳」。
「きみ」は40歳、でも20代の時と変わらぬ美貌。
そして「頼母」より背丈は大きい。
横浜で撮影されたもので、横浜市の「石山」家が所蔵。
明治19年なら「頼母」は「日光東照宮の禰宜」だった
はずである。
旧主「松平容保」が「東照宮の宮司」となり、その補佐役
として指名され、日光の山奥で、二人で静かに晩年を
過ごしていたと思いきや、「松平容保は 日光には行かな
かった」という説もある。名ばかりの宮司だったようだ。
そして「頼母」もこうして、夫婦で横浜に出てくることが
可能だったのだ。今でこそ、日光東照宮は観光名所だが
徳川が滅びた直後では、参拝する人も“稀れ”だったのかも。
では、この時、なぜ「横浜」に?
撮影者は、2葉とも「鈴木真一」という写真家。
実は「頼母」の妹「美遠子」の嫁ぎ先で、当時著名な写真家の
一人で、横浜に「写真館」を開いていた。
伊豆の「依田勉三」は鈴木真一の甥であるという。いやはや驚き。
会津戦争で「頼母」の妹「眉寿子(25歳)」と由布子(22歳)の
二人が自刃して果てたが、その他に「頼母」には 妹5人、
弟は3人もいた。「頼母」も2男、5女の7人を設けている。
親子そろって子だくさんである。
そしてさらに、養子「四郎」が「伊与田きみ」との実子ではないか
と噂されているのである。
いやはや、驚きました。「事実は小説よりも奇なり」です。
「西郷頼母」について、これだけ 新事実が明らかになって
くると、“虚・実”織り交ぜて小説が書けそうです。
会津戦争で亡くなった 3,000人の“無念”を思えば、
薩摩の「西郷隆盛」から、いろいろ援助を受けていたなど、
口が裂けても言えなかったでしょう。
これで「西郷隆盛」についての心象も大きく変わりました。
『八重の桜』でも、「吉川晃司」さんが、実にうまく
「西郷隆盛」役を演じてくれています。あの「西郷」なら、
「西田・頼母」と通じていたとしても不思議はないですね。
急遽、シナリオに入れてくれませんかね。
私は中学時代「柔道部」でしたので、「姿三四郎」の
モデルで「講道館四天王」の一人「西郷四郎」のことは
知っていましたし、会津人であったことを 誇りに
思っていました。
しかし「頼母」と「四郎」の関係は、ほとんど判らずに
50年過ぎ、今こうして明らかになることに感動です。
「100年経たないと、歴史は明らかにならない」と
いわれますが、正にその通り。私の中でも「歴史」は
慶応4年の戊辰戦争で止まっていました。
あと残された人生、「明治、大正まで調べたい」と、
新たな目標ができました。
戊辰戦争当時、会津藩には13人もの家老がおりました。
平時は7人前後でしたが、戊辰戦争で「山川大蔵(24歳)」や
「佐川官兵衛(38)」他「諏訪(39)、一瀬(37)、原田(?)、
海老名(26)」が特別昇格です。
『八重の桜』では、西郷頼母(西田敏行)、田中土佐(佐藤B作)、
神保内蔵助(53歳)、梶原平馬(27歳)、山川大蔵(24歳)、
佐川官兵衛(中村獅童)、そして萱野権兵衛(柳沢慎吾)の
7人が登場してきますが、そのほかの6人の家老はどうして
いたのでしょうかね。
上田学大輔(未詳)、内藤介右衛門(30歳)、諏訪伊助(39歳)
一瀬要人(37歳)、 海老名郡治(26歳)、 原田対馬(8月就任)
「田中土佐」と「神保内蔵助」は 8月23日 自刃。
「一瀬要人」は、越後口の総督として長岡戦争の指揮をとるが、
敗北し「惰弱」との謗りを受ける。その後9月の一ノ堰の戦いで
負傷し、開城の翌日 息を引き取った。家老でただ一人戦死。
妻は「西郷頼母」の妹。
「原田対馬」は年齢も判っていないほど。
戦後、新政府より 「首謀者の首を差し出せ」と厳命があった時、
「原田対馬」は「拙者は、この先、新しい世が来ても、無力
短才でお役に立てないから、ぜひ私を」と名乗り出たのですが、
8月に家老に就任したばかりで、それ以前の動向には関わって
いなかったのですから、退けられ、「萱野権兵衛」に決まって
しまいました。願い出ただけでも立派な覚悟。
他にも1,000石以上の高禄取りが数名いたはずですが、
目立たぬ生き方も処世術の一つですか。
『八重の桜』でよく登場する「梶原平馬」は、戦後 斗南にも
いかず、消息不明になるとか。
昨日の某TV番組で 出たクイズ。
K子さんは 親に 冬もののコートを買ってもらうため、
父さん母さんとともに 衣料品店に行きました。
気に入ったコートがあったので、試着室で着てみて、
出てきたところで、父母娘三人が同じ言葉を発しました。
しかしその意味するところは違ってました。
さて、同時に発した言葉とは何でしょう。
正解は「あったかい」
K子さんは「ア~暖(あった)か~い」
母さんは 値札を見て「あぁ 高い!」
父さんは「(いいのが) あったかい?」
もうひとつダジャレ
「普化(ふけ)は 老(ふ)けて、尺八を吹けなくなった。
それで、風穴(ふけつ)禅師より、「尺八を吹け」と言われたが、
こそこそトンずらしてしまった。それで“逃げる”ことを
「ふけたな」というようになったとか。
「しまったしまった 島倉千代子」
「困った困った こまどり姉妹」
これは吉本の「島木譲二」のギャグとか。
「ゆかいゆかい湯川秀樹」は私の新作。ついでに
「秀樹かんげき」
「あ、異常児(アイジョージ)に 最上(さいじょう=西条)秀樹」
「アッと驚く為五郎」これはハナ肇でした。
ところで「為五郎」って誰?「森の石松」に出てくる悪党だそうです。
「遅かりし由良之助」は、私の父母がよく使ってました。私も
使いますが、もう誰も通じません。
「仮名手本忠臣蔵」四段目。塩冶判官(浅野内匠頭)が切腹する際、
「大星由良之助(大石内蔵助)はまだか」と、時間をかせぐが、
「もはやこれまで」と、腹を切ったところへ、「由良之助」登場。
舞台では「遅かりし由良之助」というセリフはありません。
どうやら客席から掛ける言葉のようですが、You-tubeを見ても
かかりませんな。今の人も、掛けるのをご存知ないのか、
「とんだ所へ北村大膳」は「北村大善が来た」と掛けている。
これも歌舞伎を知らないとダメ。
「とんだ目に太田道灌」
「元の木阿弥」という言葉も調べてみました。
戦国時代、大和郡山の城主「筒井順昭」が亡くなった時、
喪を秘すために「木阿弥」という盲目の老人が影武者に
仕立てられました。「木阿弥」は、突然の環境の変化に
浮かれてしまって、溺れるような暮らしを送っていました。
ところが、順昭の息子(順応)が成長し、もはや順昭の死を
隠す必要がなくなったため、木阿弥は再び 身ひとつで
放り出されたのだそうです。
黒澤明監督の『影武者』と同じですな。
「夫に持つと大変…」1位は東大卒(R25) - goo ニュース
こんな調査結果がありました。
○「結婚したら苦労しそう」な男性の出身大学
1位 東京大学(98票)
2位 慶應義塾大学(68票)
3位 早稲田大学(40票)
4位 青山学院大学(33票)
5位 東洋大学(30票)
不名誉なナンバーワンに選ばれたのは「東京大学」。
理由は、「プライドが高そうだから」が圧倒的。
2位の慶應・3位の早稲田もこの点は同様。だが、
注目すべきは、東大は「ちょっと変わってそうだから」。
慶應は「浮気しそうだから」という理由も。
(笑えました。同感です)。
高学歴の夫を持つ女性に聞いてみたところ、
「自信家でプライドが高く、常に自分が正しいと
思い込んでいる」「自分が否定されるのは大嫌い
だけど、他人のことはすぐ否定する」「何事にも
こだわりが強すぎて、人と合わせようとしない」
といった意見が少なからず聞かれた。
(はい、その通りでした。今、この年になって
反省しています)。