『うたでつづる 明治の時代世相』(国書刊行会出版)の冒頭に
西條八十の詩『その夜のお侍』というのが載っているそうです。
発表されたのは 昭和2年。雑誌『少年倶楽部』。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宿貸せと 縁に刀を投げ出した
吹雪の夜の お侍。
眉間にすごい 太刀傷の
血さへ乾かぬお侍。
口数きかず 大鼾(いびき)
朝まで睡(ねむ)って行きました。
鳥羽の戦の 済んだころ
伏見街道の一軒家。
その夜炉辺で あそんでた
子供は ぼくのお祖父さん。
吹雪する夜は しみじみと
想いだしては 話します。
うまく逃げたか、斬られたか
縁に刀を投げ出した その夜の若いお侍。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
慶応4年正月3日、鳥羽伏見の戦争が起こり、
会津藩を主とする東軍は敗走した。吹雪の夜、
伏見街道の一軒屋に血まみれの侍がやってきて、
宿を貸せと、そして大鼾(いびき)で朝まで眠りこけた。
それを炉辺で見ていたのは「僕のお祖父」と。
はて、西條八十の祖父だろうか。西條八十は
1892年(明治25年)東京の生まれです。
鳥羽伏見の敗兵の生々しい話は、どのように
八十に伝わったのだろう。
和歌山県では、当時の庶民の聞き書きがまとめ
られていた。慶喜と藩主容保の逃亡によって
置き去りにされた会津藩兵たちは、御三家の
紀州(和歌山)に逃れた。
和歌山県御坊市の久保田久良さんが曾祖母から
聞かされた話には、涙がこぼれます。
「会津の落ち武者が ここへ来られ日は大変寒い日でした。
侍さんたちは家の前に積んであった材木によりかかって
休んでおられた。 怖いもの見たさに 戸の隙間から
のぞいてみました。偉い侍さんが眠ると、お付きの
人達が陣笠をさしかけて顔に雪がかからないように
していました。
翌日には家に入れてあげてもよいことになって・・・(中略)。
娘(久良さんの祖母)が琴を習っていましたので、
お侍さんから 琴を弾いてくれるように頼まれ、
中でも特に平家の「壇ノ浦」を何度も所望されました。
お侍さんは、その曲を何度も涙を流しながら聞入り、
弾き終わると、懐中からお金をつかみ出して、
それを与えてくれました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これまた「はて?」です。筝曲に「壇ノ浦」という
曲があったかしらん。琵琶なら解るのですが。
その娘さんは、お侍さんのために、即興で「壇ノ浦」を
歌ったのでしょうか。
学校給食に異物混入事件が相次いでいる。
【長崎】小・中学校給食に異物混入相次ぐ 諫早 (10月6日)
【社会】ネジ混入の給食センター「点検したが…」 (10月5日)
【社会】給食のマツタケご飯に虫…岐阜の小学校 (10月5日)
【ニュース】給食のすいとんにネジ混入…富山 (10月5日)
【富山】給食のすいとんにネジ混入 氷見の小学校 (10月5日)
岐阜県可児市の小中学校2校で、パン約100個にハエが
混入し、付着した部分を取り除いて食べるように指導して
いたことが報道され、その是非がテレビで論争された。
可児市で混入していたのは、体長約1ミリのクロバネキノコバエ。
「毒性がなく安全上問題がない」として、ハエが付着した部分を
取り除いて食べるように指導した。それが「けしからん」と
問題になった。
さて、私なら・・・1ミリ程度の「蝿」なら、取り除いて食べる。
ネジやガラス片は 怖い。慎重によく噛んで、確かめてから
飲み込むことにしよう。
中国や韓国では、犬の糞やネズミがはいっていたとか。それは
さすがいやだが、髪の毛や糸くずごときでは、騒ぎすぎるのでは
ないか。
かつて、レストランで出された料理に「蝿」が入っていたことが
あった。
あらかじめ持ち込んだ「蝿」の死骸を皿に入れて、店長を呼びつけ、
わめきたてて、料金を踏み倒すどころか、賠償金まで要求する
悪い輩もいるとのこと。そのように疑われては困る。騒ぎたてるのは損。
そっとウェイトレスを手招きして、周りの客に気付かれないように、
黙って「蝿」を見せた。ウェイトレスは、さっとお皿を引き上げ、
すぐに店長と料理長が謝りにきて「代わりのものをお持ちします」と
いう。「それには及びません」と辞退しても、すぐ代わりの料理が
用意され、帰りに「料金はいただきません」と。さらに、店で
売っている「菓子」まで土産にくれた。いやぁ、こんなことなら
「蝿」がはいっていた方が ラッキー!
最近は、衛生面で厳しく管理されているのか、そのようなことは
無くなった。いずれにせよ、マスコミの騒ぎすぎ。寛容さが
無くなったことが怖い。
【長崎】小・中学校給食に異物混入相次ぐ 諫早 (10月6日)
【社会】ネジ混入の給食センター「点検したが…」 (10月5日)
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【ニュース】給食のすいとんにネジ混入…富山 (10月5日)
【富山】給食のすいとんにネジ混入 氷見の小学校 (10月5日)
岐阜県可児市の小中学校2校で、パン約100個にハエが
混入し、付着した部分を取り除いて食べるように指導して
いたことが報道され、その是非がテレビで論争された。
可児市で混入していたのは、体長約1ミリのクロバネキノコバエ。
「毒性がなく安全上問題がない」として、ハエが付着した部分を
取り除いて食べるように指導した。それが「けしからん」と
問題になった。
さて、私なら・・・1ミリ程度の「蝿」なら、取り除いて食べる。
ネジやガラス片は 怖い。慎重によく噛んで、確かめてから
飲み込むことにしよう。
中国や韓国では、犬の糞やネズミがはいっていたとか。それは
さすがいやだが、髪の毛や糸くずごときでは、騒ぎすぎるのでは
ないか。
かつて、レストランで出された料理に「蝿」が入っていたことが
あった。
あらかじめ持ち込んだ「蝿」の死骸を皿に入れて、店長を呼びつけ、
わめきたてて、料金を踏み倒すどころか、賠償金まで要求する
悪い輩もいるとのこと。そのように疑われては困る。騒ぎたてるのは損。
そっとウェイトレスを手招きして、周りの客に気付かれないように、
黙って「蝿」を見せた。ウェイトレスは、さっとお皿を引き上げ、
すぐに店長と料理長が謝りにきて「代わりのものをお持ちします」と
いう。「それには及びません」と辞退しても、すぐ代わりの料理が
用意され、帰りに「料金はいただきません」と。さらに、店で
売っている「菓子」まで土産にくれた。いやぁ、こんなことなら
「蝿」がはいっていた方が ラッキー!
最近は、衛生面で厳しく管理されているのか、そのようなことは
無くなった。いずれにせよ、マスコミの騒ぎすぎ。寛容さが
無くなったことが怖い。
「池月 映」氏から、またまた貴重なご意見をいただきました。
『会津会会報』第114号(平成20年)所収、「小池明」氏の
「西郷頼母・きみと依田勉三」に、次の一文があります。
「西郷頼母と20年連れ添った「伊与田きみ」さんは、明治23年、
「頼母」と離別した。明治19年に横浜で二人並んで写真を
撮ってから4年後。「きみ」44歳。「頼母」が 霊山の神主に
なった年。ちょうど訪ねてきた養子の「四郎」が別れた理由を
問いただしたが、「頼母」は黙して語らなかったと。
それについて、「池月 映」氏は
「三留」という姓は藩士の中にはなく、四郎の故郷「津川町」の
電話帳に14軒ある。
これはあくまでも仮説ですが、四郎の実の母は「三留やす」では
なかったか。
(私注: 国家老だった「頼母」が 津川に赴いた時に関係したか、
あるいは、会津で側女だった「三留やす」が一子を産み、会津
戦争の時、「四郎」を連れて津川に疎開し、「四郎」を志田家に
預けた?)。
頼母が霊山の宮司になった時、頼母は「きみ」と離婚して「三留やす」を
迎える。それで、四郎が訪ねてきて、霊山で50日間滞在して、
実父母と暮らした。
「三留やす」が 四郎の実母であればつじつまがあう。
津川の「西郷四郎資料館」に「頼母」が一人で立っている写真がある。
これは東照宮の『大日光』という会報に「小森家から提供された」と
ある。どういうわけか この写真は「西郷頼母研究家」の間でも
知られていない。
頼母は日光で7年間、「晃山叢書」という歴史編纂事業をやって
学者の功績を残したことも明らかになった。頼母は学者であって、
武術の達人ではないでしょう。
『会津会会報』第114号(平成20年)所収、「小池明」氏の
「西郷頼母・きみと依田勉三」に、次の一文があります。
「西郷頼母と20年連れ添った「伊与田きみ」さんは、明治23年、
「頼母」と離別した。明治19年に横浜で二人並んで写真を
撮ってから4年後。「きみ」44歳。「頼母」が 霊山の神主に
なった年。ちょうど訪ねてきた養子の「四郎」が別れた理由を
問いただしたが、「頼母」は黙して語らなかったと。
それについて、「池月 映」氏は
「三留」という姓は藩士の中にはなく、四郎の故郷「津川町」の
電話帳に14軒ある。
これはあくまでも仮説ですが、四郎の実の母は「三留やす」では
なかったか。
(私注: 国家老だった「頼母」が 津川に赴いた時に関係したか、
あるいは、会津で側女だった「三留やす」が一子を産み、会津
戦争の時、「四郎」を連れて津川に疎開し、「四郎」を志田家に
預けた?)。
頼母が霊山の宮司になった時、頼母は「きみ」と離婚して「三留やす」を
迎える。それで、四郎が訪ねてきて、霊山で50日間滞在して、
実父母と暮らした。
「三留やす」が 四郎の実母であればつじつまがあう。
津川の「西郷四郎資料館」に「頼母」が一人で立っている写真がある。
これは東照宮の『大日光』という会報に「小森家から提供された」と
ある。どういうわけか この写真は「西郷頼母研究家」の間でも
知られていない。
頼母は日光で7年間、「晃山叢書」という歴史編纂事業をやって
学者の功績を残したことも明らかになった。頼母は学者であって、
武術の達人ではないでしょう。
会津東山温泉の入り口手前に「武家屋敷」があります。
昭和50年に、観光目的で再建されたもので、会津観光の
スポットになっており、また、『八重の桜』をはじめ、
時代劇の撮影によく使われています。
ここは、1700石の家老「西郷頼母」邸を再現したはず
なのですが今回のツアーで、ガイドさんが「ちがいます」と、
言下に否定され、私はびっくり。
堀田節夫の『西郷頼母』にも書かれていました。
「会津武家屋敷」は、江戸時代の「西郷邸」のスケッチを
元に建築されたのですが、どうしてか「西郷頼母」の名は
表には出ていないようです。と
屋根瓦には「西郷家」の「九曜の紋」。藩主が西郷邸を訪ねた
“お成り”の場面、妻子眷属21人の自刃の様相を再現した
人形まで飾ってあるのに、「西郷頼母」の名を出すことを
はばかるとは。
それほど、会津では「西郷頼母」は 嫌われ者でした。
そんな「西郷頼母」に 近年 光が当てられてきているのです。
『白虎隊』では「里見浩太郎」、『八重の桜』では「西田敏行」が
好演して、人気を得ました。
昭和50年に、観光目的で再建されたもので、会津観光の
スポットになっており、また、『八重の桜』をはじめ、
時代劇の撮影によく使われています。
ここは、1700石の家老「西郷頼母」邸を再現したはず
なのですが今回のツアーで、ガイドさんが「ちがいます」と、
言下に否定され、私はびっくり。
堀田節夫の『西郷頼母』にも書かれていました。
「会津武家屋敷」は、江戸時代の「西郷邸」のスケッチを
元に建築されたのですが、どうしてか「西郷頼母」の名は
表には出ていないようです。と
屋根瓦には「西郷家」の「九曜の紋」。藩主が西郷邸を訪ねた
“お成り”の場面、妻子眷属21人の自刃の様相を再現した
人形まで飾ってあるのに、「西郷頼母」の名を出すことを
はばかるとは。
それほど、会津では「西郷頼母」は 嫌われ者でした。
そんな「西郷頼母」に 近年 光が当てられてきているのです。
『白虎隊』では「里見浩太郎」、『八重の桜』では「西田敏行」が
好演して、人気を得ました。
西郷頼母の妻「千重子」の辞世
「なよたけの 風にまかする身ながらも、
たわまぬ節のありとこそ聞け」
は、会津人なら誰でも知っている句ですが、
これについて、堀田節夫氏が『西郷頼母』の中で
詳細に解説しています。
「なよ竹」なる語は『万葉集』に出てくる枕詞。
柿本人麻呂が吉備津采女の死を悲しんで詠んだ歌。
現代語訳をカンタンに書きますと
「なよなよとした竹のような妹は、なにを思ってか
露のように儚(はかな)く、霧のように失せてしまった。
その知らせを聞いた自分でも悔しいのに、手枕かわし、
身に添えて寝たであろう夫たる人は、さびしく思って
寝ていることだろう、悔しく思って恋しがっている
ことであろう」
という内容。
「千重子」は、この『万葉集』の柿本人麻呂の歌を
知っていて、その「反歌」として上記の歌を詠んだ
のです。教養の高さに唖然とします。
「なよたけ」の句は、「なよなよと風に揺らぐ竹の
ような女の身ですが、竹にも たわまぬ節があるのです」と、
武士の妻の貞節を詠んだ歌とされます。
しかし「疾風に翻弄されるわが夫にも 武士(ふし)の
意地があろう」という意味も込められているのでは、
とみるのは うがった見方でしょうか。
頼母は、「なよたけ」の句に寄せて、次の歌を詠んでいました。
「疾(と)き風に たわまず折れし なよ竹の
この石ふみに よるよしもかな」
頼母にとっては、“妻は 風にたわまず 折れてしまった”
のでした。その妻の墓石に「寄るすべもない」と、頼母の
悲痛な嘆きが聞こえてくるのです。
「なよたけの 風にまかする身ながらも、
たわまぬ節のありとこそ聞け」
は、会津人なら誰でも知っている句ですが、
これについて、堀田節夫氏が『西郷頼母』の中で
詳細に解説しています。
「なよ竹」なる語は『万葉集』に出てくる枕詞。
柿本人麻呂が吉備津采女の死を悲しんで詠んだ歌。
現代語訳をカンタンに書きますと
「なよなよとした竹のような妹は、なにを思ってか
露のように儚(はかな)く、霧のように失せてしまった。
その知らせを聞いた自分でも悔しいのに、手枕かわし、
身に添えて寝たであろう夫たる人は、さびしく思って
寝ていることだろう、悔しく思って恋しがっている
ことであろう」
という内容。
「千重子」は、この『万葉集』の柿本人麻呂の歌を
知っていて、その「反歌」として上記の歌を詠んだ
のです。教養の高さに唖然とします。
「なよたけ」の句は、「なよなよと風に揺らぐ竹の
ような女の身ですが、竹にも たわまぬ節があるのです」と、
武士の妻の貞節を詠んだ歌とされます。
しかし「疾風に翻弄されるわが夫にも 武士(ふし)の
意地があろう」という意味も込められているのでは、
とみるのは うがった見方でしょうか。
頼母は、「なよたけ」の句に寄せて、次の歌を詠んでいました。
「疾(と)き風に たわまず折れし なよ竹の
この石ふみに よるよしもかな」
頼母にとっては、“妻は 風にたわまず 折れてしまった”
のでした。その妻の墓石に「寄るすべもない」と、頼母の
悲痛な嘆きが聞こえてくるのです。
会津若松の東南、青木村の山腹に竜宮城のような門が見えます。
会津戦争にも焼かれず残った「善龍寺」の山門。その寺の
境内に「奈與竹(なよたけ)の碑」があります。3mほどの
堂々とした石碑で、揮毫は「飯沼貞雄」。自刃した白虎隊士
のうち、ただ一人蘇生し、生き残った人。西郷頼母の妻
「千重子」の甥にあたります。
この石碑は、昭和3年に建てられたもの。西郷邸で自刃して
果てた21人の骨を埋葬した墓は、少し離れた所にあります。
小さな墓石に、ただ「二十一人墓」と彫られているのみでした。
善龍寺は「保科(西郷)家」の菩提寺で、西郷頼母の墓も
あります。「頼母」の墓には、「保科八握髯(やっかひげ)
翁墓」と並んで「室飯沼千恵子位」と彫られています。
妻の姓を「飯沼」と旧姓で書いているのも珍しいことです。
長い間、「奈與竹」の碑の前では8月23日、盛大に墓前祭が
行われてきましたが、「頼母」の墓は、苔むしてお参りする
人も稀でした。「妻子は立派に命を全うしたのに、夫たる
頼母は、逃げまわって生き恥をさらした」というのが長年の
評価でした。
「奈與竹の碑」とは、西郷頼母の妻「千重子」の辞世
「なよたけの 風にまかする身ながらも、たわまぬ節の
ありとこそ聞け」に由来するものです。
会津戦争にも焼かれず残った「善龍寺」の山門。その寺の
境内に「奈與竹(なよたけ)の碑」があります。3mほどの
堂々とした石碑で、揮毫は「飯沼貞雄」。自刃した白虎隊士
のうち、ただ一人蘇生し、生き残った人。西郷頼母の妻
「千重子」の甥にあたります。
この石碑は、昭和3年に建てられたもの。西郷邸で自刃して
果てた21人の骨を埋葬した墓は、少し離れた所にあります。
小さな墓石に、ただ「二十一人墓」と彫られているのみでした。
善龍寺は「保科(西郷)家」の菩提寺で、西郷頼母の墓も
あります。「頼母」の墓には、「保科八握髯(やっかひげ)
翁墓」と並んで「室飯沼千恵子位」と彫られています。
妻の姓を「飯沼」と旧姓で書いているのも珍しいことです。
長い間、「奈與竹」の碑の前では8月23日、盛大に墓前祭が
行われてきましたが、「頼母」の墓は、苔むしてお参りする
人も稀でした。「妻子は立派に命を全うしたのに、夫たる
頼母は、逃げまわって生き恥をさらした」というのが長年の
評価でした。
「奈與竹の碑」とは、西郷頼母の妻「千重子」の辞世
「なよたけの 風にまかする身ながらも、たわまぬ節の
ありとこそ聞け」に由来するものです。
先日の会津旅行で「堀田節夫著『西郷頼母』歴史春秋社」を
買い求めてきました。堀田氏は「西郷頼母研究会」の代表
ですので、「西郷頼母」の真実を正しくとらえている方
でしょう。
西郷頼母の「保科姓」を継いだ「保科近一」や、甥の
「和田晋」。霊山神社で頼母に仕えた「堀江覚治」ら、
頼母を直接知る人たちの証言が綴られていて、頼母の
実像が明らかにされています。
そして この書では、「西郷頼母と大東流合気術の関係」を
示すものや、「西郷四郎が実子ではないか」というような
もろもろの“噂”には、全く触れていません。
会津藩家老の「西郷頼母」と 薩摩の「西郷隆盛」。
共に、室町時代の菊池氏を遠祖とする。「たのも」に
「たかもり」。名前まで似ている。但し「隆盛」は
実は父親の名前と取り違えられたもので、本名は
「吉之助」。そして「頼母」の長男の名は「吉十郎」。
これも似ています。そこで、二人は親交があったのでは
ないかと噂されています。
「西郷頼母」が鶴ヶ城を逐われたのも、実は、越後口に
いた「西郷隆盛」と会って、密かに会津戦争の終結を
図っていたからなどという話まで創られていますが、
その確証はありません。
堀田節夫の『西郷頼母』では、「西郷吉之助(隆盛)」と
親交があったとされる史料を3点挙げています。
①明治3年2月、西郷頼母は館林藩での幽閉を解かれる。
共に函館で捕えられ古河藩に幽閉されていた弟の「山田陽次郎」も
解放されるが、弟「陽次郎」は、その年の12月「雲井龍雄事件」に
関連して捕えられる。「雲井龍雄」は米沢藩の人。薩長閥の
新政府に抗議して、蜂起しようとして捕えられ 斬罪となった。
弟の逮捕で、西郷頼母も雲井龍雄との関係を疑われる。その時、
西郷隆盛に救済を依頼したらしく、「西郷隆盛」からの返書が
昭和53年公開された。「申し遣わされた件(ご依頼の件)
ご安心ください。しかし 首謀者の処分は天命と あきらめるより
仕方ありません」という内容。以前 NHKで「会津戦争の首謀者
として切腹させられた萱野権兵衛長修の助命嘆願か」と解説
されていたが、萱野権兵衛の切腹は、明治2年で すでに
過ぎており、全くの誤報。この手紙は、明治3年のことなので、
「雲井龍雄」の事件に関わった弟「陽次郎」と自身の助命を
「西郷隆盛」に依頼したのではないかと推察される。しかし、
弟「陽次郎」は 獄舎で拷問に遭ったか、病死する。
②明治3~4年頃、「西郷吉之助」から「西郷頼母」宛て
20両が贈られたことを示す 熨斗紙が 存在している。
これは私の推測だが、「頼母」一家が伊豆に移住する資金
として送られたのではないだろうか。
③そして 明治10年、西南戦争。「西郷頼母」は「都々古別
神社」の神官を務めていたが、「西郷隆盛に組した疑いで解任
された」と、頼母自身『栖雲記』に書き記している。
買い求めてきました。堀田氏は「西郷頼母研究会」の代表
ですので、「西郷頼母」の真実を正しくとらえている方
でしょう。
西郷頼母の「保科姓」を継いだ「保科近一」や、甥の
「和田晋」。霊山神社で頼母に仕えた「堀江覚治」ら、
頼母を直接知る人たちの証言が綴られていて、頼母の
実像が明らかにされています。
そして この書では、「西郷頼母と大東流合気術の関係」を
示すものや、「西郷四郎が実子ではないか」というような
もろもろの“噂”には、全く触れていません。
会津藩家老の「西郷頼母」と 薩摩の「西郷隆盛」。
共に、室町時代の菊池氏を遠祖とする。「たのも」に
「たかもり」。名前まで似ている。但し「隆盛」は
実は父親の名前と取り違えられたもので、本名は
「吉之助」。そして「頼母」の長男の名は「吉十郎」。
これも似ています。そこで、二人は親交があったのでは
ないかと噂されています。
「西郷頼母」が鶴ヶ城を逐われたのも、実は、越後口に
いた「西郷隆盛」と会って、密かに会津戦争の終結を
図っていたからなどという話まで創られていますが、
その確証はありません。
堀田節夫の『西郷頼母』では、「西郷吉之助(隆盛)」と
親交があったとされる史料を3点挙げています。
①明治3年2月、西郷頼母は館林藩での幽閉を解かれる。
共に函館で捕えられ古河藩に幽閉されていた弟の「山田陽次郎」も
解放されるが、弟「陽次郎」は、その年の12月「雲井龍雄事件」に
関連して捕えられる。「雲井龍雄」は米沢藩の人。薩長閥の
新政府に抗議して、蜂起しようとして捕えられ 斬罪となった。
弟の逮捕で、西郷頼母も雲井龍雄との関係を疑われる。その時、
西郷隆盛に救済を依頼したらしく、「西郷隆盛」からの返書が
昭和53年公開された。「申し遣わされた件(ご依頼の件)
ご安心ください。しかし 首謀者の処分は天命と あきらめるより
仕方ありません」という内容。以前 NHKで「会津戦争の首謀者
として切腹させられた萱野権兵衛長修の助命嘆願か」と解説
されていたが、萱野権兵衛の切腹は、明治2年で すでに
過ぎており、全くの誤報。この手紙は、明治3年のことなので、
「雲井龍雄」の事件に関わった弟「陽次郎」と自身の助命を
「西郷隆盛」に依頼したのではないかと推察される。しかし、
弟「陽次郎」は 獄舎で拷問に遭ったか、病死する。
②明治3~4年頃、「西郷吉之助」から「西郷頼母」宛て
20両が贈られたことを示す 熨斗紙が 存在している。
これは私の推測だが、「頼母」一家が伊豆に移住する資金
として送られたのではないだろうか。
③そして 明治10年、西南戦争。「西郷頼母」は「都々古別
神社」の神官を務めていたが、「西郷隆盛に組した疑いで解任
された」と、頼母自身『栖雲記』に書き記している。
西郷頼母の長子「吉十郎」は、「函館戦争後、西郷隆盛に預けられ、
アメリカに留学し、西南戦争にも加わっていた。頼母は、吉十郎を
支援するための物資を送ったが、荷物は政府軍に差し押さえられ、
「西郷隆盛に通じている」という嫌疑をかけられた など、
尾ひれがついて書かれているが、これについては 確証は無い。
「吉十郎」は、箱(函)館の「沢辺家」に預けられた。
堀田節夫著『西郷頼母』によれば、
「吉十郎」は箱館で、ギリシャ正教の神父となっていた「沢辺琢磨」に
預けられたという。「沢辺琢磨」は、なんと「坂本龍馬」の従弟の
「山本数馬」。NHK大河ドラマ『坂本龍馬』でも登場していた。
拾った時計を質屋に売ったことがバレて、江戸払いとなった人物。
その後、箱館に逃れて、「神明宮宮司・沢辺梯之助」の婿養子
となり「沢辺琢磨」と改名していた。新島七五三太(新島襄)が
米国へ密航する時手助けをした人物としても知られる。
「吉十郎」はその沢辺家に預けられていたという。明治4年には
西郷頼母とともに伊豆に移り住んだようなので、西南戦争に
従軍していたかは疑わしい。
坂本龍馬の従弟「山本数馬」。『八重の桜』の山本八重の兄は
「山本覚馬」。ついでに福沢諭吉が長崎で師事した砲術家は
「山本物次郎」。「覚馬」同様、盲目だった。ややこしかぁ。
アメリカに留学し、西南戦争にも加わっていた。頼母は、吉十郎を
支援するための物資を送ったが、荷物は政府軍に差し押さえられ、
「西郷隆盛に通じている」という嫌疑をかけられた など、
尾ひれがついて書かれているが、これについては 確証は無い。
「吉十郎」は、箱(函)館の「沢辺家」に預けられた。
堀田節夫著『西郷頼母』によれば、
「吉十郎」は箱館で、ギリシャ正教の神父となっていた「沢辺琢磨」に
預けられたという。「沢辺琢磨」は、なんと「坂本龍馬」の従弟の
「山本数馬」。NHK大河ドラマ『坂本龍馬』でも登場していた。
拾った時計を質屋に売ったことがバレて、江戸払いとなった人物。
その後、箱館に逃れて、「神明宮宮司・沢辺梯之助」の婿養子
となり「沢辺琢磨」と改名していた。新島七五三太(新島襄)が
米国へ密航する時手助けをした人物としても知られる。
「吉十郎」はその沢辺家に預けられていたという。明治4年には
西郷頼母とともに伊豆に移り住んだようなので、西南戦争に
従軍していたかは疑わしい。
坂本龍馬の従弟「山本数馬」。『八重の桜』の山本八重の兄は
「山本覚馬」。ついでに福沢諭吉が長崎で師事した砲術家は
「山本物次郎」。「覚馬」同様、盲目だった。ややこしかぁ。
6日、7日の京都に続いて、8日、9日と会津に
行き、鶴ヶ城やホテルで 尺八を吹いて参りました。
こちらは、詩吟同好の士22名の「八重の桜を
尋ねて」会津へのバスツアーに参加したものです。
行きのバスの中では、しっかりと「八重の桜」の
時代背景についての学習と、詩吟の練習。そして
鶴ヶ城で「荒城の月」を歌い、飯盛山では特別に
許可を得て「白虎隊」を吟じてきました。
そして、8日(日)は東山温泉の「御宿東鳳」、
9日(月)は芦の牧温泉「大川荘」に泊。どちらも
私にとっては思い出深いホテルで、それぞれの
ロビーで尺八を吹かせてもらいました。
「東鳳」は、先代のK社長が、私の叔父「山室重遠」から
尺八を習っており、私とは同門。先代の葬儀の時には、
私が『手向け』を献笛させていただいたのでした。
そんな万感の思いで、尺八を吹きました。私の尺八の音に
涙ぐむ方もおられ、私も感激。
芦の牧の「大川荘」は 50年前、父の兄「源一郎」
叔父に連れていってもらった所です。一階と地階が
吹き抜けになっていて、その中間に、特設の舞台があり、
そこでの演奏。風呂帰りの宿泊客が足を止めて
聞き入ってくださり、たくさんの拍手をいただきました。
これも虚無僧の体験を積み重ねた成果。満悦至極。
行き、鶴ヶ城やホテルで 尺八を吹いて参りました。
こちらは、詩吟同好の士22名の「八重の桜を
尋ねて」会津へのバスツアーに参加したものです。
行きのバスの中では、しっかりと「八重の桜」の
時代背景についての学習と、詩吟の練習。そして
鶴ヶ城で「荒城の月」を歌い、飯盛山では特別に
許可を得て「白虎隊」を吟じてきました。
そして、8日(日)は東山温泉の「御宿東鳳」、
9日(月)は芦の牧温泉「大川荘」に泊。どちらも
私にとっては思い出深いホテルで、それぞれの
ロビーで尺八を吹かせてもらいました。
「東鳳」は、先代のK社長が、私の叔父「山室重遠」から
尺八を習っており、私とは同門。先代の葬儀の時には、
私が『手向け』を献笛させていただいたのでした。
そんな万感の思いで、尺八を吹きました。私の尺八の音に
涙ぐむ方もおられ、私も感激。
芦の牧の「大川荘」は 50年前、父の兄「源一郎」
叔父に連れていってもらった所です。一階と地階が
吹き抜けになっていて、その中間に、特設の舞台があり、
そこでの演奏。風呂帰りの宿泊客が足を止めて
聞き入ってくださり、たくさんの拍手をいただきました。
これも虚無僧の体験を積み重ねた成果。満悦至極。
「山本覚馬」が 薩摩藩邸に捕えられていた時、新しい世の
仕組みづくりについて口述筆記させた『管見』が、
『八重の桜』で初めて、世に知られるようになり、
注目されている。
その「原物」は存在しないとされていたのが、ネットに
全文公開されていました。かなりの長文で、覚馬が
どうやって、西欧の議会制度や軍制など知りえたのか、
疑問でしたが、その下地は、福沢諭吉の『西洋事情』
とのこと。福沢諭吉は、幕末に欧米を視察して、その
政治経済の仕組みや文化を紹介はしましたが、明治に
なって政治には積極的に参加しようとはしなかった。
山本覚馬は、福沢諭吉の『西洋事情』を幕末に読んで
いて、「こうあるべき」と、意見書として、薩摩に
提出した。当時もう失明していたのに、全文をほぼ
記憶していたことには驚かされます。
薩摩は戦争には強かったが、政治には弱かったので、
山本覚馬の知識と知恵を利用した。
「管見」は「政権」「議事院」「学校」 「変制」
「撰吏」「国体」「建国術」「製鉄法」「貨幣」
「衣食」「女学」「平均法」「醸造法」 「条約」
「軍艦国律」「港制」「救民」「髪制」「変仏法」
「商律」「時法」「暦法」「官医」と23項目に
およんでいます。
その中で「女子にも学問を」というのは 福沢諭吉も
誰も説かなかったことです。
また「変佛法」というのが びっくりです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
我日本ハ 六拾余州の小國にて 寺院四十五万軒あり。
其の大なる者は、住僧 数百人、小なる者も二三人を
下らず。
法を弁(わきま)へ、戒を守る者 千人の内一人、
悪行せざる者 百人に一人。わずか有るのみ。
余は皆肉食をなし、婦女を蓄へ、物欲は俗人よりも肆。
又は甚(はなはだしき)ものは寡妻を奪ふにいたる。
古の僧は愚民を教諭し、善に導きしが、今は徒(いたずら)に
仏像を擁して墳墓を守るのみにて、世に益なきは推(おし)て
知るべし。寺に多分入禄を与ふるあって、衣食足る故に
業を守らさるに至る。之を廃する方 可なるべし。
或は貨幣の融通をなし、俗に云ふ金貸の如し、法に戻る事甚し。
故に自今以後、分限を正し、行末業の成否を察し、官許を受けて後
僧となすべし。依て従来の僧は、悪弊を除き、まず語学算術
手跡等を始めとして、惣て実学をなさしめ、寺を小学校に當て、
市町村里の商人には英仏の語、算術。農人には農業等又は
人に益ある事を教へしむべし。且法戒を巖にし、僧に堪兼るもの、
又は法に背くものあるとも是を罪せす。職人となし業を授くべし。
さすれば凡百万人と見ても、一人拾金の職をなせは千万金の益を得べし。
且帰俗のものあらは、其空寺を学校とし農商に学術を授けて
両全経國の一助となるべし。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明治4年の「廃仏毀釈」は、まさに「山本覚馬」のこの進言に
よるものだった!?。仏教徒がいかに悪行の極みと見られて
いたか。それは、信長・豊臣の時代にルイス・フロイスも
言っています。「この国で最も悪いのは仏教の僧侶」だと。
さて、「戒を守る者千人に一人、悪行せざる者 百人に一人」。
まさに虚無僧の実態は「悪人」で、それで「普化宗」は廃止
されたのでした。
そして、寺を学校にし、僧侶は官許(国家資格)とし、
英語、フランス語、算術などを教える教師として雇えばいいと、
慶応4年に言っていることに驚かされます。
仕組みづくりについて口述筆記させた『管見』が、
『八重の桜』で初めて、世に知られるようになり、
注目されている。
その「原物」は存在しないとされていたのが、ネットに
全文公開されていました。かなりの長文で、覚馬が
どうやって、西欧の議会制度や軍制など知りえたのか、
疑問でしたが、その下地は、福沢諭吉の『西洋事情』
とのこと。福沢諭吉は、幕末に欧米を視察して、その
政治経済の仕組みや文化を紹介はしましたが、明治に
なって政治には積極的に参加しようとはしなかった。
山本覚馬は、福沢諭吉の『西洋事情』を幕末に読んで
いて、「こうあるべき」と、意見書として、薩摩に
提出した。当時もう失明していたのに、全文をほぼ
記憶していたことには驚かされます。
薩摩は戦争には強かったが、政治には弱かったので、
山本覚馬の知識と知恵を利用した。
「管見」は「政権」「議事院」「学校」 「変制」
「撰吏」「国体」「建国術」「製鉄法」「貨幣」
「衣食」「女学」「平均法」「醸造法」 「条約」
「軍艦国律」「港制」「救民」「髪制」「変仏法」
「商律」「時法」「暦法」「官医」と23項目に
およんでいます。
その中で「女子にも学問を」というのは 福沢諭吉も
誰も説かなかったことです。
また「変佛法」というのが びっくりです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
我日本ハ 六拾余州の小國にて 寺院四十五万軒あり。
其の大なる者は、住僧 数百人、小なる者も二三人を
下らず。
法を弁(わきま)へ、戒を守る者 千人の内一人、
悪行せざる者 百人に一人。わずか有るのみ。
余は皆肉食をなし、婦女を蓄へ、物欲は俗人よりも肆。
又は甚(はなはだしき)ものは寡妻を奪ふにいたる。
古の僧は愚民を教諭し、善に導きしが、今は徒(いたずら)に
仏像を擁して墳墓を守るのみにて、世に益なきは推(おし)て
知るべし。寺に多分入禄を与ふるあって、衣食足る故に
業を守らさるに至る。之を廃する方 可なるべし。
或は貨幣の融通をなし、俗に云ふ金貸の如し、法に戻る事甚し。
故に自今以後、分限を正し、行末業の成否を察し、官許を受けて後
僧となすべし。依て従来の僧は、悪弊を除き、まず語学算術
手跡等を始めとして、惣て実学をなさしめ、寺を小学校に當て、
市町村里の商人には英仏の語、算術。農人には農業等又は
人に益ある事を教へしむべし。且法戒を巖にし、僧に堪兼るもの、
又は法に背くものあるとも是を罪せす。職人となし業を授くべし。
さすれば凡百万人と見ても、一人拾金の職をなせは千万金の益を得べし。
且帰俗のものあらは、其空寺を学校とし農商に学術を授けて
両全経國の一助となるべし。
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明治4年の「廃仏毀釈」は、まさに「山本覚馬」のこの進言に
よるものだった!?。仏教徒がいかに悪行の極みと見られて
いたか。それは、信長・豊臣の時代にルイス・フロイスも
言っています。「この国で最も悪いのは仏教の僧侶」だと。
さて、「戒を守る者千人に一人、悪行せざる者 百人に一人」。
まさに虚無僧の実態は「悪人」で、それで「普化宗」は廃止
されたのでした。
そして、寺を学校にし、僧侶は官許(国家資格)とし、
英語、フランス語、算術などを教える教師として雇えばいいと、
慶応4年に言っていることに驚かされます。