現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

自力と他力

2009-03-12 21:42:13 | 五木寛之
浄土宗、浄土真宗系なら「南無阿弥陀仏」
日蓮宗は「南無妙法蓮華経」
真如苑は「南無大般涅槃経」

同じ仏教で、お題目が違うとは、なんか変だ。
インチキ臭い。無学文盲の一般大衆は騙せても、
情報過多の現代人には、理解が得られないのでは
ないか。と思いきや、日蓮宗系の学会、それに
敵対する顕正会、浄土真宗でも「親鸞会」という
団体が東本願寺から離脱して、多くの学生信徒を
集めている。

先日の中日新聞に「念仏を唱えるのはカンタンだが、
光明が見えるまで唱えるのは大変な修行を要す」と。
そこまで24時間100万遍お題目を唱えた先に、本当に
光は見えるのか。その時間、自助努力をした方が
いいのではと、私は思ってしまう。

五木寛之『親鸞』は面白いが、「念仏を唱えれば救わ
れる」という他力本願は、私としては、いまひとつ
得心できない。吉川英治は『親鸞』を書きながら、
奥付で今日の浄土真宗のあり方をあからさまに批判
している。五木氏の『親鸞』が、終末期の浄土真宗
に起死再生の広告塔になるのか、今後の展開が
楽しみである。

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2/27 親鸞

2009-02-27 06:48:52 | 五木寛之
2/27 親鸞
 
弥七は言う。
「あの女はな、おまえの身代わりとなって死んだのだ。
當麻御前はなみの女やない。女巫(めかんなぎ)いうてな。
神仏の霊力が身についとるんや。それでいち早く危険を
察して、おまえをかばうたんや」

なるほど、こうきたか。たまたま災難に遭った女がかわいそう。
哀れと思っていたが、當麻御前は、愛する人のために命を
捨てたのだ。日頃「お浄土に行きたい」と願っていた。當麻
御前は、神仏の霊力を得て、最も望む方法で死を得たのだ。
最も幸せな死に方をしたのだ。

愛する人のために自分は命を投げ出せるだろうか。霊力で
最良の死に際を得ることができるだろうか。五木・親鸞も
私と同じ問いを持ち、お山(比叡山)を下りる決心をする。

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笑いと涙

2009-02-17 06:55:50 | 五木寛之
さてさて、「笑い」が健康にいいことは解った。
しかし、人生笑ってばかりはいられない。笑えない
どん底にまで突き落とされた人に「笑え」と言っても
無理。その問題に五木寛之の『大河の一滴』が答えて
くれた。

「人工照明の中で暮らす人には“明かり”の有り難さは
解らない。絶望の闇があって、一条の明かりの有り難さ
を感じるのだ」と。

まさに「暗あっての明」。明暗だ。光があれば影がある。
プラスがあればマイナスもある。生があれば死がある。
人は両極の中に生きている。笑いと同じように、号泣する
ことも、ストレス解消になるという。なるほど。

そして「どん底に落ちて立ち上がれないでいる人に
“頑張れ”と言っても励ましにはならない。共に“心底”
から泣いてあげることが究極の癒しになる。親鸞も蓮如も
そういう人だった」と。

そうだ良寛も、村人の話を、ただじっと聞いてあげ、黙って
涙するだけだった。それだけで村人は救われたという。

虚無僧の吹く尺八の音は、そういう迷える人の心に届く
ものだ。しかしまぁ、名古屋はまだまだ元気。ミニスカート
やミニパンで太ももまで寒風にさらし、颯爽と、笑顔を振り
まいて闊歩していくギャル達に、尺八の音が響かないのは
仕方ないか。

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2/15 親鸞 糞掃衣

2009-02-15 05:43:48 | 五木寛之
2/15 中日新聞 五木寛之『親鸞』。ますます核心を突いてきた。

「食は行乞(ぎょうこつ)による。衣は糞掃衣(ふんぞうえ)による」
打ち捨てられ垢にまみれたボロ布をまとえということじゃ。
河原房が鴨の河原で死者の衣を脱がせ丁寧に洗って売って
いたがあれこそ糞掃衣じゃ」

そうだった。五木・『親鸞』の冒頭で、出家する前の子供の頃、
鴨の河原で、死者の衣をはぐ人の姿を見て、おぞましい、これぞ
地獄と思ったのだった。ところが、ここでは、それこそ糞掃衣、
出家者が着るべき衣という。五木・『親鸞』は続けて

「ところがどうじゃ、お山(比叡山)の高僧、学僧たちは、与えられ
た食事を食べ、キンキラキンの袈裟を付け、衣の絹の斤量を競い
合っておる。それだけで釈尊の「四依の教え」を破っておるのじゃ。
末法の世の今こそ、仏法二千年の垢を落とし、釈迦の教えの
原点に戻るべきじゃ。心と体が痛む者を助けなければならぬ」

今年、東本願寺御影堂の{平成の大修復」が完成をみた。絢爛
豪華。信徒の浄財だ。ありがたやありがたや。

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四依

2009-02-14 07:56:20 | 五木寛之
2/14 中日新聞 五木寛之『親鸞』

「僧たるものの守るべき心得。
 食は行乞に依れ、衣は糞掃衣(ふんぞうえ)に依れ、
 座は樹下に依れ、病は陳棄薬(ちんきやく)に依れ」

『律蔵大品(りつぞうだいぼん)』に定められた四つの
依りどころ=四依(しえ)だそうだ。
「陳棄薬」とは、牛の大小便を腐られて作った薬とか。

ようするに「出家者は世間の最も貧しき場所に生きよ」
と釈迦は教えているのだ。五木・親鸞も「1日一食」と
答えている。

これが本来の出家の姿だ。しかるに平安からこのかた、
寺の僧侶の生活はあまりにもかけ離れている。虚無僧
の生き様こそ、出家の姿だ。

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天台と親鸞

2009-02-10 07:44:47 | 五木寛之
2/9(月)新聞休みで、五木寛之の『親鸞』が読めない。
代わりに吉川英治の『親鸞』をイッキに読む。

全編、人から中傷誹謗され、悪党に襲われ、迫害を
受ける話が、これでもかこれでもかと続く。いささか
うんざりである。私は中学の時、これを読んで仏教
嫌いになった。清浄な聖であるはずの叡山の横暴、
権勢欲、傲慢さ、天台宗には忌避感しか抱かない。
自論にそぐわない法敵は殺してもよいという叡山の
論理はオウム真理教の麻原と同じだ。天台宗を是と
するならば、麻原も無罪だ。

念仏にも懐疑的だ。いかなる迫害にも念仏を唱える
だけで救われる。極悪非道の悪党が念仏さえ唱えれば、
極楽浄土へ成仏できる。なんか腑に落ちない。悪事を
奨励しているようなものではないか。

吉川英治の『親鸞』でも「五戒文は人の定めたもの。
それにしばられることはない」とある。難行苦行も
戒律も釈迦が決めたものではない。後世の教団が、
それぞれに定めたものだ。吉川英治は、他で「今日の
浄土真宗の“はっきり言って大谷派”の有り方には
幻滅する」と書いている。

さてさて五木寛之の『親鸞』は、私の悩みを解いて
くれるだろうか。楽しみ。仏教は面白い。私は仏を
信ずる仏徒の虚無僧である。

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吉川英治の『親鸞』

2009-02-08 09:11:01 | 五木寛之
東京に行った折、吉川英治の『親鸞』をとってきた。
私が中学の時読んだものだ。すっかり変色している。

新幹線の中でパラパラと読んでみて驚いた。「尺八
を吹く菰僧」が出てくるではないか。中学の時は気づ
かなかった。
「菰(こも)」は「薦」と同じ、「薦僧、菰僧」は「虚無僧」の
古い表記である。親鸞の生きた平安から鎌倉時代には、
「こもそう」はまだ居なかったのだが、『鳴門秘帖』の
吉川英治だから、よほど「虚無僧」が好きとみえる。

さてさて、吉川英治の『親鸞』は、貴族の世間知らずの
無垢な若者が、いわれの無い恨みや嫉妬を受けていじめ
られ、迫害を受けたり、野盗にたぶらかされたり、さま
ざまな苦難に遭うという流れ。『宮本武蔵』などと同じ
パターンだ。
これが書かれた昭和24年という時代は、まだ戦後の混乱期。
今より仏教に対する信仰心は薄く、凶暴な悪人も横行する
時代だった。悪玉善玉の勧善懲悪の観念が根強い。

五木寛之の『親鸞』が現代に改めて書かれた背景は、ひと
昔前よりも現代人は仏教に真理を求めようとする思いが強く、
また、昔ほどの凶悪非道な悪人もいなくなった平和な時代
を反映しているようだ。世間の底辺にうごめく人たちとの
交流を通じて、親鸞の内面をより深くえぐっている。

ところで、吉川英治も『親鸞』を書きながら、形骸化した
今日の浄土真宗の有り方を非難しているそうな。

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2/3 親鸞

2009-02-02 08:56:49 | 五木寛之
2/3 中日新聞連載中の五木寛之『親鸞』。
さて、子供の治療の結末は、範宴(後の親鸞)が、
背中の腫れ物の芯を吸い出して、快方に向かう。

私も「医学書」でザクロのように口の開いた腫れ物を
見た記憶がある。五木寛之の『親鸞』では、人々は
「黒面法師の祟りじゃ」と怖れおののくが、法螺房は
「肉の中の芯を吸い出せば治る」と、範宴にやらせる。
医学的に正しい処方かは判らぬが、「臍下丹田に力を
込めて吸うのだ。龍が滝の水を吸い上げるように、
できものの芯をわが腹中に収めるように、精神集中して、
口先でなく全身で吸え」と。

この件(くだり)に感銘した。私は「吸江流尺八一路」
を名乗っている。門下生に「尺八は吹くものに非ず、
吸うものだ」と教えている。吹くことに気をとられている
うちは素人。「吸うことを体得して一人前」と教えている。
ライブでもコンサートでも、楽譜通りにただ尺八を吹く
だけでは素人。会場の空気を吸い尽くして、聴衆が
望む音を導き出して、心からの拍手が得られる。

範宴の所作もまさに、大勢の聴衆が見守る中での
パホーマンス。美しい女将の見つめる目、「吸うのよ」
という言葉を場面に添えているところも憎い。そして
「汚れたわが身を懺悔し、仏の甘露と信じて吸え」の
法螺房の叱咤も効いている。

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2/2 親鸞

2009-02-02 06:53:14 | 五木寛之
2/2 中日新聞掲載の五木寛之『親鸞』。
六角堂に集まる貴賎上下の老若男女。
背中に奇妙な腫れ物ができた男の子を
治療する法螺房。その子の膿を口で吸
い出す。そして親鸞に「やってみるか」と。

「ここに集まっておるあわれな衆生は、
みな仏のみ光を求めておるのじゃ。
救世観音に祈るより、この子の腫れ物を
吸いだすことのほうが、よほど仏の心に
かのうておる」と。

経典を読み、厳しい修行に独り取り組ん
だからといって、衆生の苦しみを解くこと
ができない。それを如実に突きつけられた
親鸞の苦悩だ。

それは一休も同じだった。衣食住になに
ひとつ不自由しない良家の子弟ばかりの
五山の僧侶たち。金と権力で階級を上る
ことしか頭にない。相次ぐ戦乱と飢饉に
飢え苦しむ衆生を助ける気などさらさら
無い官寺に、一休もあいそをつかした。
親鸞は一休より400年前、天台の聖地
比叡山に幻滅する。

その親鸞を宗祖とする浄土真宗も、今は
金まみれ。五木寛之は、仏教の原点を、
鋭く仏教界に突きつけている。

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漆黒の闇

2009-02-01 07:02:54 | 五木寛之
中日新聞連載中の五木寛之『親鸞』は、100日間、
京都の中心にある六角堂まで往復する修行に入った。
夕刻に出、明け方に帰るのだ。

さて、私も山で野宿をしたことが何回かある。
満月の時は、月は煌々と山道を照らし、木々の影が
明暗を分ける。「月影」とは月の光でできる影なの
だと初めて気づいた。「星明かり」で「星影」もできる。

ところが、空が曇っていると、山は漆黒の闇だ。一寸
先も見えない。足元も見えないから、一歩も歩けない。
「ガサガサ」と音がした時には、熊でも出たかと恐怖に
おののく。「無明の闇」に嵌った恐怖だ。

今年の正月は伊勢の朝熊山の麓で夜を明かした。
山道を登ろうと思ったが真っ暗。懐中電灯で照らす
と、鹿やら兎やら、猪までもが現われてビックリした。

という経験からして、月明かりのない日は、漆黒の
闇の中を、跳ぶが如く走り抜けることはできないと
思うのだが。さてはて、親鸞はどうやって山を降り
たのだろうか。

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