現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

虚無僧の前身は「薦僧」?

2022-01-06 21:30:32 | 虚無僧って?

「虚無僧」は、いつ頃から使われるようになったのか。
室町時代、山口を支配していた「大内氏」の法令集『大内氏壁紙』が初見だという。

(パソコンやケータイの最初の画面を「壁紙」と云うが、室町時代「壁紙」とは、お定め書、掟書きのこと)

『大内氏壁書』の原本は、山口県下関市の「市立長府博物館」に在る。それを活字化した『岩崎俊彦著大内氏壁書を読む』(大内文化探訪会)が刊行された。

それには、「虚無僧(こむそう)」ではなく「薦僧(こもそう)」と書かれていた。

「文明18年(1486)4月20日付禁制」

  『第90条 薦僧(こもそう)放下、猿引の事』として
      一、薦僧、放下、猿引事、可払当所并近里事

薦僧(こもそう)は尺八を吹いて放浪していたから、曲芸師の放下僧(ほうげ)や猿回しと同様の旅芸人として扱われ、「当所(山口の城下)並びに近在の里でも払うべきこと」。つまり=追い払えと云っている。

文明18年(1486)とは、足利義政の世、銀閣寺が建てられた頃。
一休は文明13年(1481) 88歳で歿している。その5年後の事。

「薦僧」は西国山口まで往来し、不審者として追い払われる存在だった。「薦僧」が一般名詞になっていることは、全国的にもかなりの薦僧がいたと考えられる。

洛中洛外図屏風(歴博甲本)

室町時代の「薦僧」。腰に薦を負っているから「薦僧」と呼ばれた。

算置 - Wikiwand

「三十二番職人歌合」に描かれた「薦僧」。やはり後ろに薦(菰むしろ)が


「とはずがたり」に「梵論(ぼろん)」が

2022-01-06 21:30:11 | 虚無僧って?

『とはずがたり』は、鎌倉時代、後深草院の寵愛を受けた「二条」という女房が、自らの半生を赤裸々に告白した文芸作品です。

原本は宮内省の図書寮に永く眠っていて、公開されたのが、戦後の
昭和25年ですから、『源氏物語』や『更科日記』『蜻蛉日記』ほど、世間一般には知られていません。

それを元に、「瀬戸内寂聴」が『とわずものがたり』と題して
「婦人公論」に連載したのは、昭和45年(1970)でした。

『とはずがたり』とは「問われぬままに 一人語りする」という意味。
2歳で母に死なれ「後深草院」の元に預けられていた「二条」は、14歳の時、後深草院に犯され妊娠。 その後も皇族や貴族と次々と関係を結んでいくという内容ですから、戦前、戦中はとても公開できなかったのでしょう。

平安時代から、室町時代までは、フリーセックスは自然の姿だった
ようです。それを糺したのは、徳川二代将軍「秀忠」です。彼の妻は
「お江与」。恐妻家でしたから。


さて、この『とはずがたり』の巻四に「ぼろ」が出てくるのです。

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正応2年(1289)、二条は37歳。出家して尼となり、諸国遍歴の
旅に出ます。熱田宮、三島大社に詣で、鎌倉に行き、鎌倉幕府の
要人とも親しくなり、浅草、善光寺と旅をします。

そして「ある時は僧坊に留まり、ある時は男の中に交わる」と言いながら、その先

「修行者といひ、“梵論梵論(ぼろんぼろん)”など申す風情の者と
契りを結ぶ例(ためし)もはべるとかや聞けども、さるべき契りもなく、徒(いたずら)にひとり片敷きはべるなり」と独白しているのです。

つまり、旅に出れば、修行僧や「梵論梵論」などという風情の者とも
契りを結ぶというが、そんなことは無かったと言っているのです。
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さて、「暮露(ぼろ)」は「ボロ」の着物を聞いている乞食などと一般に思われてますが、違います。『七十一番職人歌合』に描かれている「暮露」は白い紙衣に黒の袴。清楚な衣装です。

また『徒然草』にも「梵論」「漢士」と記されていることから、私は次のように推測しました。

「梵論梵論(ぼろんぼろん)」とあることから、「ボロ」は、ぼろを着ていたからボロ」ではなく、「梵字」に関係することば。

それは「大日如来一字金輪の咒=のうまくさんまんだ、ぼたなんぼろん、ぼたなんぼろん」と唱えていた念仏者ではないかと推察されるのである。

梵論・暮露(ぼろ)とは - コトバンク


 

 

 

 

 

 


虚無僧の語源は「薦僧(こもそう)」

2022-01-06 21:29:51 | 虚無僧って?

「虚無僧」の語源は「薦僧(こもそう)」。「薦を負い、野宿する僧」、ようするに乞食僧のことだ。その初見は『大内氏壁書』。

大内氏は、室町・戦国時代、周防国(山口県)を本拠に中国地方を支配した大名。その「掟書」。
文明18年(1486)というから、一休が88歳で没した5年後。
「禁制」の中に「薦僧、放下、猿引は、当所ならびに近里より追い払うべし」とある。

 

大内氏の手鑑 山口県文化財指定 | 中国新聞デジタル

 

「薦僧」は「放下」や「猿回し」と同等にみられ、「見つけ次第追い払え」というのだが、「嫌われ者」というより、他国から流入してくる不審者として警戒されていたようだ。

翌 文明19年には、「異相の仁」、そして「笛、尺八、音曲」は「夜中路頭往来禁止」となっている。

一休と同時代の横川景三が編纂した国語辞典の『節用集』には、「薦僧(コモソウ)・普化(同)」とあって、「普化」と書いて「こもそう」と読ませている。一休の時代には、既に薦僧と普化とが同一視されていたのか。但し、この『節用集』は江戸時代まで、ずっと補筆、加筆されていたらしいので、「普化」は後世の加筆かも。

その50年後、1500年代前半に書かれた『三十二番職人歌合』の絵には「こも僧」、詞書きには「虚妄僧」。

江戸時代初期に書かれた『一休諸国物語』には「一休が普化僧となって」とあり、江戸初期では「虚妄想、普化僧」などと書かれていた。

では「虚無僧」と書いたのは、何時、誰なのか。調べているが不明。活字になったものは後世の人によって虚無僧」と変えている場合がある。「原本」を当たってみると「こもそう」だったり「変体かな」の「古毛そう」だったりするのだ。


『徒然草』に「ボロ」が

2022-01-06 21:29:38 | 虚無僧って?

「ぼろ」とは、鎌倉時代の末頃に現れた「梵論」や「暮露」あるいは「梵論字(ぼろんじ)」「梵論梵論(ぼろぼろ)」などと呼ばれる、半僧半俗の物乞いの一種。身なりがボロボロであることからの名称であるといわれている。

さらに、暮露が転じて薦僧→虚無僧になった。つまり「暮露」は虚無僧の前身というのだが、私はこの説に疑問を呈したい。ぼろの話は、鎌倉末期に吉田兼好(卜部兼好、兼好法師)によって書かれた『徒然草』の第百十五段に出てくる。

徒然草 第百十五段

【古文】
 宿河原(しゅくがわら)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉るば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわずらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。

 ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍(とうじょう)を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。

宿河原でのぼろのいさかい01、徒然草(元禄期の出版):提供 椿本陣当主 梶洸氏

宿河原でのぼろのいさかい02、徒然草(元禄期の出版):提供 椿本陣当主 梶洸氏
資料:徒然草(元禄期に出版された物内 第百十五段の挿絵) 提供:郡山宿本陣 梶洸氏

この挿絵は江戸時代の元禄期に書かれたもので、暮露が虚無僧の前身という誤解に基づき、尺八が描かれている。しかし鎌倉から室町までの暮れ露は尺八は吹かなかったと私は考える。

『徒然草』には「ぼろんじとか梵字、漢字などと名乗りだした者」とあり、ボロボロの衣を着ているから「ボロ」では、「梵字」「漢字」の説明がつかない。

私は、梵字、漢字というからには、何かの呪文を唱える人ではないかと考えた。そこで見つけたのが「大日如来の一字金輪の呪=のうまくさんまんだぼたなんぼろん」である。

この徒然草の登場してくる「ぼろんじ」は、九品の念仏を唱えていたというのだから、念仏衆である。宿川原しとは死体の捨て場、つまり墓地だから、死者の弔いをしていた。

弘法大師空海によってひらかれた高野山は真言密教の山であるが、なぜかここに「萱堂の聖」という念仏行者が巣食っていた。「高野聖」である。彼らは一遍によって開かれた念仏宗の行者であった。真言密教の本尊が大日如来である。彼ら高野聖は大日如来の一字金輪の呪「のうまくさんまんだぼたなんぼろん、ぼたなんぼろん、ぼろんぼろん」と唱える念仏集団だったのではないか、というのが私の説。

 


「広辞苑」の誤り 見っけ その2

2022-01-06 21:29:17 | 虚無僧って?

「広辞苑」最新の第7班で「虚無僧」を引くと

「室町時代の普化宗の僧朗庵が宗祖普化の風を学んで、薦の上に座して尺八を吹いたから、薦僧と呼んだという」と

 

???です。どこからこんな説が出てきたのか、まったく編纂者の勝手な推測です。

まず「普化宗の僧」など 室町時代には存在しません。

「朗庵が薦むしろに座して尺八を吹いたから“薦僧”と呼ばれた」と

虚無僧の元祖は朗庵ということになります。

「薦僧」というのは、朗庵の時代にすでにいたようです。そのことは

「大内氏壁書」で明らかです。当時山口県にまで薦僧はやってきたようで「薦僧の入国禁止」のお触れが出ています。

「薦僧」は自然発生的に生まれた地方巡業の旅芸人で、「朗庵」が

元祖ではありません。

 


「広辞苑」の誤り見っけ その1

2022-01-06 21:28:55 | 虚無僧って?

ネットで「普化宗は、東福寺の僧覚心が伝えた」とありますが、

その出所は「広辞苑」でした。

法燈国師覚心は「高野山の僧」で「東福寺の僧」ではありません。

覚心は、東大寺で得度授戒し、高野山で退耕行勇に禅を学び、東福寺の開山聖一国師円爾から渡宋の話を聞いて、宋に行く決心をします。

ですから東福寺の円爾に一時師事したこともあったのでしょうが、

覚心を東福寺の僧とするのは疑問です。

現在、明暗教会が東福寺の塔頭善慧院に置かれていることからの早とちりでしょう。明暗寺が東福寺と関係をもつのは明治になってからです。

 

 


「明暗」ってどういう意味?

2022-01-06 21:28:10 | 虚無僧って?

「教えて」のサイトで「虚無僧」を検索したら

【質問】虚無僧の胸の前に下げている袋に書かれている文字
    「明暗」について、なぜ「明暗」なのか

【回答】明暗寺(京都)系の僧侶を意味しています

他にも同様のものがありました。

よく時代劇で用いられる「明暗」と書かれた箱は、仏教用語のように見えるが、特に意味はなく、「明暗寺の虚無僧」と、所属している寺を示すものである。

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ウ~ム。半分は正しいが、「特に意味がなく」というのは、ひっかかります。「明暗」は悟りを示す仏教用語です。


たしかに、歴史的には、江戸時代の浮世絵には、「明暗」と書いた
頭陀袋や「偈箱(げばこ)」はありません。

明治4年、「普化宗」は廃止され、虚無僧姿で尺八を吹いて門付することも禁止されました。京都「明暗寺」の最後の看主は、寺の本尊である「開祖・虚竹禅師の像」や什物を、知り合いの東福寺の塔頭
善慧院(ぜんねいん)」に預けて出奔します。

明治23年、名古屋西園流の樋口対山他、尺八愛好家によって、善慧院」を寄会所として「明暗教会」が発足しました。当時、
キリスト教も公認となったので、“それなら虚無僧も”との思いで教会」としました。時に、東福寺の本堂が全焼するという事件があり、
その再建費用を集める団体として、東福寺の了解をとりつけたようです。

善慧院・明暗寺の見所と解説|京都のITベンチャーで働く女の写真日記

 

それで、昭和初期、“最後の虚無僧”と言われた「谷狂竹」は偈箱に 「京都東福寺内、明暗教会」と書いてました。それでも法律上は、虚無僧は禁止ですから、「谷狂竹」は 二度も警察に捕まって、留置所に入れられ、略式裁判で罰金を払わされています。虚無僧受難の時代でした。

虚無僧が晴れて政府公認となるのは、昭和25年のことです。
新憲法で「信教の自由」が保証されたために「普化正宗・明暗教会」として宗教法人登記がされます。所在地は「善慧院内
です。「善慧院」は臨済宗の寺であり、その住職は臨済宗の僧呂あって虚無僧ではありません。「善慧院」に虚無僧が常駐しているわけでなく、年何回か、お寺をお借りして、尺八愛好家が尺八の奉納吹奏をさせていただくという関係です。虚無僧愛好家は、年5千円以上の志納金を納めれば「明暗教会会員証」をいただけます。

ただし、「これは托鉢を認めるものではありません」との一札が書かれています。

「門付」は「もの乞い」と同様とみなされると、現行法でも「軽犯罪違反」になるのですが、「警察は黙認」という慣行になっています。

そして、偈箱の「明暗」ですが、これは、戦前、戦後の映画から始まったものです。「虚無僧系図」で「何もないのはさびしいので、何か良い案はないか」という監督の要望に、尺八指導と演奏を担当していた「菊水湖風(柴田聖山)」と「堀井小二朗」が、「『明暗』がいい」と提案して採用されたとか。

そんなわけで、「明暗寺」という所属を示すものとして「明暗」になったのは ある意味正しい。高岡の国泰寺派や、紀州由良の興国寺派では「明暗」は使いません。

さて、では「なぜ『明暗』なのか」です。「仏教的な深い意味は無い」といわれるのは残念です。深い意味があります。これは「普化禅師」の偈(げ)「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」に由来しています。

その意味は
・「明にも暗にもこだわらない心」。
・「明にあっては明、暗にあっては暗の流れに任せる自在な生方」。
・「暗にあっても明なる生き方」
・「暗を明に転ずる生き方」

などなど、仏教的に深い意味があるのです。



ついでながら、京都の明暗寺は、江戸時代の初期「妙安寺」と書かれていました。当て字は江戸時代よくあることですが、「妙法院」の一画を借りて建てられたので「妙安寺」と付けたと考えています。つまり、江戸時代初期の虚無僧たちは「普化禅師の偈『明頭来明頭打・・・』を知らなかった。虚無僧の宗祖を普化禅師とするのは江戸時代の後半からで、普化の「明頭来・・・」とゴロが同じなので「明暗」と変えたと私は考えます。


辞典を信じちゃいけないよ

2022-01-06 21:27:43 | 虚無僧って?

「日本国語大辞典」小学館 を見ると、ビックリポン!

「普化宗」の解説文

禅宗の一派。唐の普化禅師を開祖とするもの。日本では入宋僧覚心が

建長6年(1254)に帰国して、西方寺を禅寺に改めて興国寺と称し、

宗義を広めたのに始まる。

武士以外の入宗を許さず、江戸時代には、罪を犯した武士がこの宗にはいれば罪をのがれることができた

 

ととと、とんでもない。

まず普化には法を継ぐものはおりませんでしたので、中国には普化宗などありませんでした。「覚心が宋に渡って、普化宗を学び、帰国後その宗義を広めた」なんてとんでもない。そのような事実は ありません。

「西方寺を禅寺に改めて興国寺と称し」というのも大嘘。

西方寺が興国寺となるのは、北朝の後村上天皇の興国年間、孤峰覚明の時です。

 

罪を犯した武士がこの宗にはいれば罪をのがれることができた」というのもそのような掟や法はありません。

虚無僧が自作した『掟書き』にも、「咎人一切隠し置き申すまじく候。その罪 後日に表れ候共、早速縄を懸け、時を移さず(役所へ)言上申すべき事」とあります。

ただ、人を殺めて、隠れ蓑として虚無僧に紛れ込んだ者が、討ち手も仇を探すために虚無僧になっていて、鉢合わせし、果し合いの末討たれたという話はありました。

ですから、罪が許されるということはありません。虚無僧になって仇を探したという例は数件あります。

 

ああ、辞典を信じちゃいけないよ、ああバカになる、ああバカになる 

どうでもいいけどさ

 


偈箱の明暗について

2022-01-06 21:27:23 | 虚無僧って?

虚無僧が胸に下げている箱を「偈箱」という。「偈」とは「仏の功徳、仏力を讃える語」と辞書にはある。そこに私は「明暗」と書いている。
「明暗」は、京都の明暗教会の会員であることを示すものでもある。「京都、明暗寺」または「明暗教会」と書く例もある。昭和5年の谷狂竹の写真は「大本山東福寺明暗教会」となっているが、現在、明暗寺に属さない谷派の青木虚波夢氏は「不生不滅」と書いている。慶応の先輩の藤由越山氏は、高橋空山派で、皇室の裏紋「五三の桐」を描いている。

  Komuso stories highlights, photos and videos hashtag on Instagram ... 藤由越山 – WSF2018

   谷 狂竹        藤由越山

だが、意外なことに、江戸時代には、偈箱は存在しなかった。
明治の荒木古童(竹翁)の虚無僧姿の写真でも偈箱は付けていない。どうやら「明暗」と記した偈箱は戦後のことらしい。

藤由越山氏のブログに「柴田聖山(菊水湖風)が、映画に出演した時、初めて偈箱に“明暗”と書いたと言っていた」とあった。私の師堀井小二朗も「私が映画に出た時・・」と同じことを言っていた。アレアレ?である。

『邦楽ジャーナル』(2001/7月号)の神田可遊氏の記事「映画の中の虚無僧」にヒントがあった。

昭和30年『虚無僧系図』が映画化された時、当時の明暗寺奉賛会から85人もの“虚無僧”が動員され、菊水湖風の編曲になる『虚空』が大合奏された、という。これで分かった。
菊水湖風も堀井小二朗も当時は上田流に所属し、戦後の京都明暗教会の復興に尽力していて、仲が良かった。二人ともこの映画に出演協力していたのだ。「明暗」と書くことを提案したのは、どちらが先かは分からないが、二人の合同意見だったのだろう。

ところが、その「市川歌右衛門主演『虚無僧系図』」のスチール写真には、偈箱が無い。堀井小二朗氏は「何も下げてないと絵にならないので、なんか無いか?」と監督から相談を受けたので「明暗と書いた偈箱はどうですか」と提案した、と語っていた。とすると、スチール写真を撮った後に“明暗箱”ができたのだろうか。

撮影年代不明だが、堀井小二朗氏の虚無僧姿の写真では、偈箱に「明暗教会」とある。
その後の昭和36年、鶴田浩二主演の『鳴門秘帖』のポスターでは、はっきり「明暗」と書かれた偈箱が写っている。

ここまで書いて、「“明暗”と記す偈箱は昭和30年代以降」と結論付けようとしたが、待てよ『邦楽ジャーナル』(2004/9月号)の神田可遊氏の記事に、「昭和25年封切りの嵐寛寿郎主演『虚無僧屋敷』」でも、昭和36年の鶴田浩二と全く同じ「明暗」と記した偈箱を下げているではないか。先例は、堀井、菊水両氏が提案する以前、5年前にあったのである。

この写真、左右逆版です。替え尺八を右に差し、襟も左前。「明暗」の字も左右反対。


虚無僧免許証

2022-01-06 21:26:41 | 虚無僧って?

京都明暗寺に会費を納めると「明暗教会会員証」と行化(ぎょうげ)」を発行していただける。

ところが「行化証」は「托鉢免許証」ではないという
“尺八をもって仏の教えを広める者”という資格証なのだ。つまり、生活の糧としての虚無僧托鉢は禁じられていることになる。

仏教国タイで、「ただ食を得るために托鉢している偽僧侶が大量に逮捕された」という報道があった。

日本でも、数年前そうした偽托鉢僧が横行して問題になった。では、“食を得るため”か、“仏法教化のための托鉢かは、どうやって見分けるのだろう。

“食を得るため”ではないと思われるような虚無僧になることが、修行なのだと最近ようやく思えるようになってきた。

名古屋駅前で尺八を吹いていて、ひとりのご老人が寄ってこられ「ありがとうございます。仏の教えを広めてくださいよ」と、手を合わせ頭を下げられた。
喜捨をいただいたことに心痛むようでは偽虚無僧だ。ご老人の心に添える虚無僧にならなければと誓った。