現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

寝る時パジャマに着替えない?

2014-10-30 18:47:03 | 虚無僧日記

先日見たテレビ番組。女子アナ、女性タレント30名ほどに

「寝る時パジャマに着替えるか」という質問で、「はい(着替える)」

というのは、わずか一人だけで、これにはびっくり。

というのは、私も着替えないから、世の中、皆 私と同じくなった

ことに驚いた次第。 

その昔、マリリン・モンローが「パジャマはシャネルの5番」

(つまり 裸)」 と言って話題を振りまいた。

 

「パジャマに着替えない」という女性タレントは、「裸」ではなかった。

「震災に遭った時、パジャマやネグリジェでは外に逃げられないでしょ」

と いうものだった。

 

Sさんも「震災で、寝ていて死んだ時、ネグリジェでは恥ずかしい」と。

これぞ、日本女性のたしなみか。

 

実は 私も 2、3年前からパジャマに着替えるのをやめた。

10年ほど前、韓国ドラマを見ていて、寝る時 パジャマに

着替えず、服のまま寝ているのを見て、“だらしない” と

思ったものだった。 まもなく、私も 「あれでいいのか」と、

パジャマを捨てた。

また、眠くなったら 即 寝る 習慣が身についているからでもある。

いちいちパジャマに着替えたりしたら、目が覚めてしまう。

着替える時間と 眠るまでの時間が無駄なのだ。

ついでに、布団を敷くのも やめた。いつでも外に飛び出せるよう

厚着をして、毛布一枚 掛けて 寝るだけ。

断シャリで布団を捨てたら、押入れが広くなった。

虚無僧ですから、家でも“野宿スタイル”です。

さて、皆さんはいかがですか?

 

悲しいのォ。 私(虚無僧)の居場所が急に 無くなってしまった。


「能楽堂」の感動を 

2014-10-30 16:40:20 | 虚無僧日記

10/26の「能楽堂公演」に50名も来ていただいた(某)団体様から

今日お呼びがかかって行ってきました。「すばらしかったので、当日

行かれなかった方たちを集めて、尺八を聞かせたい」との、

ありがたいお言葉。「千鳥の曲」を尺八のみで演奏。そして「一休」の

サワリを語って「瞳」を。

 

「一休さんは、英語を知っていたんです。サンキューってね、サン(三)

じゃ いやだから イッ(一)キューにしたんです」で、大うけ。

 

これは、先日「一休はキリスト教を知っていた。弥勒菩薩はキリスト教でいう

メシア。自身を弥勒に、森女を観音に例えて、仏(神)と三位一体と

なって衆生を救わんとする意図があった」と、ブログに書いたところ、

「キリストの弟 イスキューとイッキュー(一休)似てますね」との

コメントをいただいていた。それが ヒントで できたギャグでござる。

 

さて、キリストに「イスキュー」なんていう弟がいたの?

ネット調べてみましたが出てきません。これも ギャグですか?

近いのは「エウストキイ (552 – 564)」という エルサレムの

総司教でした。

 

 


「村野藤吾の椅子」にコメントをいただいた方へ

2014-10-30 14:54:47 | 村野藤吾

2012年2月11日の記事「村野藤吾の椅子」について

一ヶ月前、コメントが寄せられていました。私は一ヶ月

パソコンを封鎖していたので、気づきませんでした。

コメントを寄せられた方。下記へ連絡ください。

 goo3360_february@mail.goo.ne.jp.

該当ブログの再掲です。尚「村野藤吾」に関心のある方は

カテゴリーを立てていますので、まとめて一読ください。

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「建築をやるなら、まず椅子の設計をやりなさい」と
村野藤吾は云う。「住まいでも職場でも、人が長時間
留まるのは 椅子の上。快適さを感じるのは椅子の
良し悪しだ」と。

村野藤吾は、各役員室、応接室、会議室、大会議室、
食堂や喫茶室の椅子まで、全部自身でデザインされた。

大会議室の椅子など、肘掛や脚の部分がアールを描き、
実に繊細。今にも折れそうに か細い。すぐ壊れや
しないかと誰もが心配した。

村野藤吾はいう「繊細で華奢(きゃしゃ)なものこそ、
大切に扱われ、長持ちするのだ」と。

なるほど、小学校の椅子など頑丈に作られているが、
扱いも乱暴になり、すぐ壊される。すぐ壊れそうな
ものは、丁寧に大事に扱おうとする心が働くものだ。

大会議室の椅子は、平成5年まで30年使われていた。
私が名古屋に転勤になる直前、さすが、ニスも剥げ、
布の部分もほつれが目だってきたので、全部廃棄し
取り替えられることとなった。

新しい椅子は、村野の設計した会議室にはそぐわない 
がっしりした色気もないものだった。

村野藤吾のデザインした椅子が廃棄処分されると知って、
私は2脚もらい受けた。それが今2脚、私の部屋に
鎮座ましましている。村野藤吾の遺品だ。

村野藤吾の意匠が次々と壊され、無くなっていくのを
私は断腸の思いで見聞きし、千代田生命と決別したので
ある。


ブログ6000件突破

2014-10-30 08:18:08 | 虚無僧日記

ブログが 6,000件を突破。2007(H19.6.1)からスタートして、

7年で書きも書いたり。本にまとめたい。カテゴリーは二つ。

①虚無僧日記と虚無僧の歴史

②会津藩と当(牧原)家の系譜

 

当ブログの最初の記事を再掲します。

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H19.6.1 虚無僧尺八の全国大会が新宮の全龍寺であり参加した。

虚無僧の本山明暗寺は現在、京都東福寺内にある。秋の大会は

京都明暗寺で、春は全国各地の虚無僧ゆかりの寺で行っている。


新宮の全龍寺は、幕末最後の虚無僧「尾崎真龍」の菩提寺とのこと。

ところが行ってみて驚いた。ここは 紀州徳川家の御付家老として

浜松から赴任した水野家重仲の菩提寺でもあった。その家臣も

亡くなれば ここに葬られたとのこと。

 

実は我家(牧原)の先祖も水野家の家臣として、一時期新宮に来て

いたので、当家の先祖の菩提寺でもあることがわかったのだ。

虚無僧で旅をしていると不思議な因縁に導かれることが度々ある。

寛永20年(1643年)、保科正之が 会津23万石の太守となった時、

3,000人もの藩士の募集があり、当家は新宮から会津に移籍した。

新宮にいたのでは、紀州徳川家の御付家老の家臣、又家来であり、

うだつが上がらない。それで、わが先祖は 17歳で小姓として会津藩に

召抱えられ、奉行格、側用人 500石にまで出世した。

であるから、会津藩の興亡とともに、北海道から九州まで、全国

各地に先祖の足跡が残されている。私の虚無僧の旅は先祖の

足跡を訪ねての慰霊の旅なのです。