福沢諭吉の『学問のススメ』の冒頭「天ハ人ノ上ニ人ヲ
造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ」という一節はあまりにも
有名。だが、ここだけが一人歩きして「福沢諭吉は
「人の上下差別なく、四民平等を説いた」と言われている。
慶応の教授でもそう言っている人がいる。
だが、私は『学問のススメ』を 小学5年の時 読んで、
ずっと疑問を抱いてきた。これに続く文章は、
「・・・・・と云ヘリ。サレドモ 今広ク コノ人間世界ヲ見渡スニ、
賢き人アリ、愚かなる人アリ、貧シキモアリ、富メルモアリ、
貴人モアリ、下人モアリテ、ソノ有様 雲ト泥トノ相違アルニ
似タルハ何ゾヤ」
となっている。つまり、「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ
人ヲ造ラズ」というのは、『アメリカ合衆国の独立宣言』からの
引用で、福沢諭吉は「かの国では、そのように言われているが、
されども、今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人もいれば、
愚かな人もいる。貧乏な人もいれば、金持もいる。身分の高い
人もいれば、下人もいる」と、差があることを認めているのである。
そして、「その差は何か?。それは“学ぶと学ばざるとに
由ってできるものなのだ”」と。だから『学問のススメ』
なのだ。「出世したければ、金持ちになりたければ、ただ学問を
修めて、物事をよく見極める知恵と判断力を身につけよ。
無学なる者は貧人となり 下人となるのだ」と決め付けているのだ。
それなのに、どうして「福沢諭吉は四民平等を説いた」と
世論は固まっているのか。まさにこれは「常識の嘘」なのだ。
世はまさに「世間虚仮(こけ)=真実でないこと」。
「偽作、偽称、偽証、偽装、偽書、偽造、偽善」と
並べたててみて 気が付いた。「偽」の後にくる字は
なぜか「さしすせそ」の「サ行」が多い。
ま、日本では「偽作」は『古事記』『日本書紀』の昔から。
「記紀」よりも以前に「歴史書」があったとして、創られた
書に『先代旧事本紀』がある。そして、昭和初期に出てきた
『竹内文書』、さらに戦後出てきたのが『東日流(つがる)
外三郡誌』。いずれも、とても一人で創作したとは思えぬ、
膨大な量の書。
その『東日流外三郡誌』を偽作したとされる「和田喜八郎」なる
人物は、ものすごい知識欲で、何でもかんでも日本の古代史に
取り込んでしまう稀代の妄想家だった。彼が創作した4万点にも
およぶ史料?の中には、「福沢諭吉の書簡」というのもあった。
その中身は、『学問のすすめ』の冒頭の一説「天は人の上に
人を造らず、人の下に人を造らず」という万民平等の思想は、
日本の古代にあったもので、「和田家に伝えられた文書の中から
福沢諭吉が借用したもの」とする証文。
明治5、6 年の日付で、大阪から出された手紙だった。
その頃、福沢諭吉は東京在住であったこと、また漢字カタカナ
交じりの書簡文などは無いこと、その他署名に「士族」の
肩書きをつけ、わざわざ花押を添えるなど、まったく福沢諭吉
らしくないものだった。
こうしたことから、和田喜八郎なる人物の創作、偽作説が
徐々に明白にされていったのである。それにしても、よくも
まあ、空想をめぐらすものと驚嘆する。
そういえば、2000年には、旧石器の捏造事件があったっけ。
松下幸之助の「松下電器」でさえ、「まねした電器」などと
言われていた時代があった。今の中国を笑えぬ。
○○高校の入試で「福沢諭吉の出身地はどこか」という問題が
出たそうな。ちょっと知っていれば「九州、大分県、中津市」だ。
ちょっと待て。実は、父福沢百助は、大阪の中津藩の蔵屋敷に
勤めていたので、諭吉は、「天保5年(1835年)大坂・堂島浜
(現・大阪市福島区)にあった中津藩の蔵屋敷」で生まれている。
だから「生まれは大坂(現大阪)」。「出身」とは、生まれた
土地か?所属する藩なのか。なまじ知識があると、悩んでしまう。
だから「試験」は嫌いだ。
生まれたのは大阪だが、翌年父が亡くなり、1歳の時には
中津に帰っている。だから「育ち」は中津。そして19歳で、
中津を飛び出し、長崎、大阪、そして江戸へと移る。幕末に
アメリカやヨーロッパにまで行っている。
幕末最後の身分は「幕臣」。つまり中津藩士ではなく、
徳川の旗本でござった。だから、薩長閥の明治政府には
出仕しなかったのだ。「ニ君に仕えず」である。
その点が「勝海舟」と大違い。福沢諭吉は勝海舟を軽蔑していたそうな。
中津に行けば、今も「福沢諭吉の生家」が残されており、
中津の観光地となっている。
一昨年、虚無僧で中津へ行ってきた。日豊本線の
「中津」の駅構内も「福沢諭吉」の「独立自尊」ほか
扁額がかかげてあって、福沢諭吉一色。
「中津名物は福沢諭吉も食べた鳥のから揚げ」だそうだ。
知らなかった。今 チェーン店で全国展開している。
駅前は区画整理され、広い道に まばらなビル。こういう
町は虚無僧は苦手。歩けど歩けど人影がない。閑散として
いる。福沢諭吉の生家がある周辺が旧武家屋敷の面影を
残す。そこで一軒一軒「門付け」をしてみた。
福沢諭吉の「独立自尊」が染み渡っている町だ。物乞い
などは、人にあるまじき行為か。冷ややかに蔑(さげす)む目。
でもでも・・・・。 諭吉のおっかさんは、乞食の娘も家に招き入れ、
風呂にいれてやったり、虱をとってやったりしたではないか。
「あわれな虚無僧におめぐみを」。
いや、実はちっとも哀れでない。慶応出て、好きで虚無僧
やっとるんじゃ。悪いか!と、心に気合をいれたら、
やっと一軒、けげんな顔をしながら、ご喜捨いただいた。
ちょっと恥ずかしかったです。
以前、料亭の「大森」で食事をした時のこと。
数年ぶりだったが、女将さんは、私のことを覚えていて
くれ、特別な部屋に案内してくれた。その部屋には、なんと
『独立自尊』と書かれた「福沢諭吉先生」の額が飾られて
いた。私が慶応卒と知っての 女将さんのはからいに感動。
私が「福沢諭吉」の「三十一谷人」の落款を確認していると、
女将さんが言うには、「これは『老子』の言葉から
とったそうですね」と。「??」それは知らなかった。
『福澤全集緒言』には「 三十一を一字にすれば『世』の
字にして、谷人の人を人偏にして左右に並ぶれば『俗』の
字と為るが故に、則ち『世俗』の意を寓したるもの」と
あるのは知っていた。
「老子」を紐解いてみれば、「三十輻(ふく)一轂(こく)を
共にす」というのがあった。車輪は、中心の「轂(こく、
こしき)」と、輪との間をつなぐ三十本の「輻(や)」から
成る。「輻(や)」はすべて、中心の「轂(こく)」に集まって、
車輪を支える。どれも「用ある物」で「無用のものは何も
無い」という比喩だそうだ。
ふーむ、言われてみれば、「福沢諭吉」は語らなかった
けれど、「無用の用」と いうような含みをもって
「世俗」と掛けたのかとも思えてきた。
女将さんの才知、博学には脱帽。しばらく女将さんと
談笑しながらの料理の味もまた格別でした。
「福沢諭吉」は、みずから「無信心」を公言して憚らなかったが、
宗教を否定したわけではなかった。
『時事新報』(1897年9月4日)の社説「宗教は茶の如し」において、
「宗教は社会の安寧維持のために必要であり、仏教と耶蘇教の相違は、
経世上の眼から見れば緑茶と紅茶の違いぐらいである」と述べ、
「その味を解せしむるを経世上の必要と認めて大に望みを属する
ものなり」としている。
意外にも、明治4年、まだキリシタン禁制の頃、イギリスから
宣教師たちを迎え、子供たちの家庭教師にしたりして、彼らの
庇護者となっていた。それも宣教師たちを通じて西洋の文化を
知る手立てであったとも思える。
仏教についても、宗教の意義は認めるが、現実の仏教界の有り様に
ついては疑いをもっていた。
浄土真宗の信徒として、法事などはきちんと行っており、
戒名は「大観院独立自尊居士」と受けてはいたが、
墓石には「福沢諭吉墓、妻阿錦の墓」と本名を刻んでいる。
墓石について次のように遺言している。
「墓石を大きくするといふことはつまらぬことである。
人間の家といふもの は、栄枯盛衰ちっとも当てにならぬもので、
子孫が貧乏したり、跡絶えになったりすれば、墓荒らしになり、
墓石はひっくり返り、見るも哀れであるが、 さうなると、
大きな墓石ほど見苦しくも哀れにもなる。母の墓石は此の通り
小さいが、何も費用を吝むのではない。以上の理由からわざと
斯うしてゐる。私の墓石も母に準ずるやうに」と。
「福沢諭吉」先生のお墓は、今は、麻布の「善福寺」にあります。
「善福寺」は、都内では浅草寺に次ぐ古刹で、幕末にはアメリカ公使館が
置かれ、ハリスが滞在したという由緒ある寺です。
福沢諭吉は、明治34年(1901)2月3日、66歳で亡くなりました。
葬儀はここ「善福寺」で盛大に行われました。「三田から善福寺まで
2キロの道を、全塾生をはじめ1万5千人の会葬者が徒歩で棺に従った」
そうです。
ところが、当時「東京市内」では土葬は禁じられていた」ため、
「善福寺」には埋葬できず、遺体は当時まだ市外だった上大崎の
「常光寺」に埋葬されたのです。「常光寺」は 福沢諭吉自身が
散歩の折に気にいられて、そこに埋葬するよう決めていたそうです。
私の在学中は、こちらでしたので、毎年2月3日には、目黒駅から
歩いて、墓参りに詣でていました。
しかし、福沢家は「浄土真宗(西本願寺派)」なのに、「常光寺」は
「浄土宗」。宗旨が違うために、昭和52年、福沢家の意向で、
善福寺に改葬されたのです。その時、福沢諭吉の遺体はミイラ化
していたので、荼毘にふして埋葬されたとのことです。
宗教には無頓着な福沢諭吉でしたので、「真宗」であろうが
なかろうが、勝手に菩提寺を決めたのも福沢先生らしいことです。
さて、墓石については、さほど大きいものではないですが、
妻の「錦」さんの話が伝えられています。「先代(諭吉)は、
墓は大きくするなと遺言されていたのに、塾の方たちで、勝手に
大きなものを作り、大変困った。先代の言うことには一度も
さからったことがないのに、これでは申し訳ない」と。