服部英雄の『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版)は、
秀吉の出自について書かれた史料を網羅しています。
それには「後奈良天皇の御落胤」説は出てきません。
これによると「秀吉の出生地」は諸説あって「中中村
(現中村中町)」説も怪しいようです。「秀吉誕生地」と
される「常泉寺」は「上中村」にあります。
さて、本書によれば、どうやら「秀吉は清洲で生まれ、
母の再婚により中村に移り住むことになったが、養父と
折り合いが悪く、秀吉は家を飛び出し、ストリート・
チルドレン(乞食)になった」と。
当時、信長の城は清洲であって、秀吉の叔父や周辺の
者は、清洲の「乞食村(非人村)」に関係している者が
多いといいます。秀吉の出自は、乞食(薦=こも)で
あった。
現名古屋市の中村区は、当時は畑ばかりの土地でした
から、秀吉の育ちは「中村」で「農民の子」となります。
秀吉が小田原北条攻めに向かう途中、中村を通った時、
供をしていた小早川隆景に語ったという話に、「自分は
この中村で育ち、わやく(無茶・非道)なることをして
遠江に落行し・・・・」と。
「生まれ」ではなく「育った」と語っています。
秀吉は、矢作川の河原(橋?)で薦を被って寝ていた
ところを 盗賊の頭だった蜂須賀小六に拾われた話は
有名で、乞食同然の生活だったのは明らかです。
この「小早川隆景」に語った話は「中村の農民には
年貢を免除してやろう」。そしてまた「仁王という
わっぱがいて、いじめられた。あの遺恨は忘れられない。
まだ生きていたら、捕らえて斬り殺してやろう」と、
かなり具体的な内容になっており、信頼できます。
服部英雄の『河原ノ者・非人・秀吉』では、戦には
荷駄の輸送、馬、馬具、牛皮製品は必需で、散所民
(無戸籍)、非人、穢多の役割は重要だった。彼等の
協力なくしては戦はできなかった。秀吉の親類、縁者、
仲間にはそのような民が多いと結論づけています。