現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

日本三大陣屋の一、上総「飯野」

2013-01-06 12:13:33 | 会津藩のこと
『御槍拝借』で、城を持たぬ大名の「陣屋」を調べていたら、
なんと「日本三大陣屋」の一つが上総飯野藩の「飯野陣屋」
でした。千葉県の木更津の南「富津」です。

私は小学生の頃、毎年、夏休みは、富津の「臨海学校」に
行って、海で泳いでいました。ここが「会津」とゆかりの
「保科」の領地とは知りませんでした。縁ですな。


ここは、会津藩祖「保科正之」の兄弟「保科弾正忠正貞」を
祖とする「保科家」の所領でした。正貞は、信州高遠の
保科正直の三男で、 母親は徳川家康の異父同母妹であり、
本来なら「保科家」を継ぐ身でした。しかし、2代将軍
秀忠のご落胤「正之」を押し付けられたために、別家を
立てる羽目になったのでした。ですから、会津藩祖の
分家というより、本家筋なのです。

1万7千石で、城は造れず、「陣屋」でしたが、
敷地は4万坪。城郭なみの構えだったようです。

幕末に、会津藩が房総沿岸の警備を命ぜられた時、
飯野藩が名代となり、弘化4年(1847)より
嘉永6年(1853)迄、房総沿岸警備に協力して
います。

そして「松平容保」の義姉「照姫」の実家なのです。
ですが、「飯野藩主」も「照姫」も、ずっと江戸詰めで、
飯野に住むことはなかったようです。

さらに、明治2年、会津戦争の首謀者として「家老、
萱野権兵衛長修」が切腹を命ぜられた場所が、江戸の
飯野藩「保科邸」だったのです。





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