『御槍拝借』で、城を持たぬ大名の「陣屋」を調べていたら、
なんと「日本三大陣屋」の一つが上総飯野藩の「飯野陣屋」
でした。千葉県の木更津の南「富津」です。
私は小学生の頃、毎年、夏休みは、富津の「臨海学校」に
行って、海で泳いでいました。ここが「会津」とゆかりの
「保科」の領地とは知りませんでした。縁ですな。
ここは、会津藩祖「保科正之」の兄弟「保科弾正忠正貞」を
祖とする「保科家」の所領でした。正貞は、信州高遠の
保科正直の三男で、 母親は徳川家康の異父同母妹であり、
本来なら「保科家」を継ぐ身でした。しかし、2代将軍
秀忠のご落胤「正之」を押し付けられたために、別家を
立てる羽目になったのでした。ですから、会津藩祖の
分家というより、本家筋なのです。
1万7千石で、城は造れず、「陣屋」でしたが、
敷地は4万坪。城郭なみの構えだったようです。
幕末に、会津藩が房総沿岸の警備を命ぜられた時、
飯野藩が名代となり、弘化4年(1847)より
嘉永6年(1853)迄、房総沿岸警備に協力して
います。
そして「松平容保」の義姉「照姫」の実家なのです。
ですが、「飯野藩主」も「照姫」も、ずっと江戸詰めで、
飯野に住むことはなかったようです。
さらに、明治2年、会津戦争の首謀者として「家老、
萱野権兵衛長修」が切腹を命ぜられた場所が、江戸の
飯野藩「保科邸」だったのです。
なんと「日本三大陣屋」の一つが上総飯野藩の「飯野陣屋」
でした。千葉県の木更津の南「富津」です。
私は小学生の頃、毎年、夏休みは、富津の「臨海学校」に
行って、海で泳いでいました。ここが「会津」とゆかりの
「保科」の領地とは知りませんでした。縁ですな。
ここは、会津藩祖「保科正之」の兄弟「保科弾正忠正貞」を
祖とする「保科家」の所領でした。正貞は、信州高遠の
保科正直の三男で、 母親は徳川家康の異父同母妹であり、
本来なら「保科家」を継ぐ身でした。しかし、2代将軍
秀忠のご落胤「正之」を押し付けられたために、別家を
立てる羽目になったのでした。ですから、会津藩祖の
分家というより、本家筋なのです。
1万7千石で、城は造れず、「陣屋」でしたが、
敷地は4万坪。城郭なみの構えだったようです。
幕末に、会津藩が房総沿岸の警備を命ぜられた時、
飯野藩が名代となり、弘化4年(1847)より
嘉永6年(1853)迄、房総沿岸警備に協力して
います。
そして「松平容保」の義姉「照姫」の実家なのです。
ですが、「飯野藩主」も「照姫」も、ずっと江戸詰めで、
飯野に住むことはなかったようです。
さらに、明治2年、会津戦争の首謀者として「家老、
萱野権兵衛長修」が切腹を命ぜられた場所が、江戸の
飯野藩「保科邸」だったのです。