「虚無僧は幕府の隠密」などとよく言われるが、
そのような事実は無い。わずかに越後村上藩で、
“岡引き”や“目明し”のように、役人に情報を
売ることがあった程度。
「虚無僧が幕府の隠密」ということが知れ渡って
いたのでは、あの目立つ格好で他藩に侵入したら
すぐ捕らえられてしまう。幕府の隠密どころか、
幕末、京都明暗寺は、勤皇派だったのである。
京都明暗寺の役僧「素行」は膳所藩士の子で、脱藩
して虚無僧となっていた。勤皇の志篤く、文久3年
(1863)大和の天誅組の義挙に呼応して、兵庫県生野で
農民を扇動し決起している。生野には銀山があり、
幕府の代官所があった。この「生野騒動」には、長州
の奇兵隊も加わっていたが、不発に終わり、素行は
捕らえられ、京都の六角獄に送られて、翌元治元年
(1864)禁門の変が起きると、平野国臣らとともに斬首
された。
この禁門の変の時の、京都明暗寺の33世看主「玄堂
観妙」は、元長州藩士だった。であるから、禁門の
変で敗れた長州の敗残兵を匿い、その咎で捕縛され、
六角の獄に入れられた。その直前には素行が投獄され
ていて、斬首されたのである。
玄堂は、後 許されて出獄しているが、慶応3年(1867)
明治になる直前、大阪で歿している。
明暗寺の最後の看主は「明暗昨非」である。この明暗
昨非は、明治4年の「太政官布・普化宗廃止令」に
よって、明暗寺の本尊「虚竹禅師像」他 什物を、懇意
にしていた東福寺善慧院に預けて出奔し、日蓮宗系の
本門佛立宗に改宗した。東福寺善慧院内に虚無僧本山の
明暗寺が置かれているのはこのためである。