現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

山口県と虚無僧 その3

2016-06-11 03:34:51 | 山口県と虚無僧

「虚無僧は幕府の隠密」などとよく言われるが、
そのような事実は無い。わずかに越後村上藩で、
“岡引き”や“目明し”のように、役人に情報を
売ることがあった程度。

「虚無僧が幕府の隠密」ということが知れ渡って
いたのでは、あの目立つ格好で他藩に侵入したら
すぐ捕らえられてしまう。幕府の隠密どころか、
幕末、京都明暗寺は、勤皇派だったのである。

京都明暗寺の役僧「素行」は膳所藩士の子で、脱藩
して虚無僧となっていた。勤皇の志篤く、文久3年
(1863)大和の天誅組の義挙に呼応して、兵庫県生野で
農民を扇動し決起している。生野には銀山があり、
幕府の代官所があった。この「生野騒動」には、長州
の奇兵隊も加わっていたが、不発に終わり、素行は
捕らえられ、京都の六角獄に送られて、翌元治元年
(1864)禁門の変が起きると、平野国臣らとともに斬首
された。

この禁門の変の時の、京都明暗寺の33世看主「玄堂
観妙」は、元長州藩士だった。であるから、禁門の
変で敗れた長州の敗残兵を匿い、その咎で捕縛され、
六角の獄に入れられた。その直前には素行が投獄され
ていて、斬首されたのである。

玄堂は、後 許されて出獄しているが、慶応3年(1867)
明治になる直前、大阪で歿している。

明暗寺の最後の看主は「明暗昨非」である。この明暗
昨非は、明治4年の「太政官布・普化宗廃止令」に
よって、明暗寺の本尊「虚竹禅師像」他 什物を、懇意
にしていた東福寺善慧院に預けて出奔し、日蓮宗系の
本門佛立宗に改宗した。東福寺善慧院内に虚無僧本山の
明暗寺が置かれているのはこのためである。