空海が持ち帰った真言密教の経典『理趣経』は、人間の営みが本来は清浄なものであると述べている。
「十七清浄句」といわれる17の句偈
- 妙適淸淨句是菩薩位 - 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
- 慾箭淸淨句是菩薩位 - 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地 である
- 觸淸淨句是菩薩位 - 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
- 愛縛淸淨句是菩薩位 - 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である
- 一切自在主淸淨句是菩薩位 - 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である
- 見淸淨句是菩薩位 - 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である
- 適悅淸淨句是菩薩位 - 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である
- 愛淸淨句是菩薩位 - 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である
- 慢淸淨句是菩薩位 - 自慢する心も、清浄なる菩薩の境地である
- 莊嚴淸淨句是菩薩位 - ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である
- 意滋澤淸淨句是菩薩位 - 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である
- 光明淸淨句是菩薩位 - 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である
- 身樂淸淨句是菩薩位 - 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である
- 色淸淨句是菩薩位 - 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である
- 聲淸淨句是菩薩位 - 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である
- 香淸淨句是菩薩位 - この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である
- 味淸淨句是菩薩位 - 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である
このように、十七清浄句では男女の性行為や人間の行為を大胆に肯定している。
仏教において顕教では、男女の性行為はどちらかといえば否定される向きがある。これに対し『理趣経』では欲望を完全否定していないことから、色眼鏡的な見方でみられ、男女性交=即身成仏であると誤解され、男女の性行を儀式とするいかがわしい教団が派生した。
『理趣経』の最後の十七段目は「百字の偈」と呼ばれ、「人間の行動や考えや営み自体は本来は不浄なものではない。しかし、人たるものそれらの欲望を誤った方向に向けたり、自我にとらわれる場合が問題なのだ、そういう小欲ではなく世の為人の為という慈悲の大欲を持って 衆生の為に生死を尽くすまで生きることが大切である」と説く。「清浄な気持ちで汚泥に染まらず、大欲を持って衆生の利益を願うのが人の務めである」と説かれていることが その肝要である。