今朝、用事を済ませて仕事先へ到着すると、電話連絡が入りました。
島の北端に近い野田浜(ぬたのはま)に、ウミガメの上陸跡があるという情報です。
「この浜にも、以前ウミガメの上陸跡があった」と近くにお住まいの方から教えて頂きましたが、私たちが調べ始めてからの20年程は上陸跡が確認されていませんでした。
この足跡はアカウミガメと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/9d/95a443cb167cd7eb4bd91f707117e34e.jpg)
上陸痕跡を見つけたら、上陸して海へ戻った「道順」を確認します。この足跡は途中でクロスしているので、どなたにも分かりやすいですね。スコップの側から上陸して、繁みの方まで行き、左手の方へと帰海しています。
突然ですが、ウミガメを召し上がったことがありますか?
海外旅行でウミガメのスープなどを味わった方もいらっしゃると思います。小笠原でウミガメ料理を食べた、小笠原の土産にウミガメ肉の缶詰をもらった・・・などなど。ウミガメ食の経験者は少なくないかもしれません。
普段、私は爬虫類を食べません。でも、ヘビやウミヘビなどを伝統的に食べる地方もありますし、大島でもマムシ(毒蛇)を焼酎漬にしたり、肉をあぶって食べる方もいます。これは、食事にというより、滋養強壮のためのようです。
ウミガメ漁やウミガメの食習慣がある地域も世界各地にあって、特別珍しいことではないようです。日本でも昔は、産卵のために上陸して来たカメを捕まえて食料にしていた地域もありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/a0/055350c2a42753f1caeb27d4b3b25648.jpg)
足跡の幅は、80~90センチ程で、中型です。
元町の南側に地曳浜(じびきはま)があり、この浜の南端の下高洞(しもたかぼら)という地域に縄文時代早期の遺跡があります。8000年程前の住居址などからウミガメの骨が出土していて、町教育委員会の調査報告書によると、上腕骨、頭頂骨、背甲骨板などが発見されていますが、アオウミガメの小さな個体のもののみだったそうです。興味深いことです。
アオウミガメは、大島の沿岸に年間を通じて生息していて、潜水漁やダイビングの方々によく目撃されています。陸上からも、海面に呼吸のために顔を出すカメが、よく見られるポイントがありす。縄文時代の大島の海はどんな様子だったのでしょう???
アオウミガメの小さな個体は、産卵に上陸することはありませんから、縄文人は海に潜ってウミガメを捕らえていたのではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/88/8e404c90e9ab63506616146124660620.jpg)
足跡は植栽の際まで達していました。やわらかな砂の層が20~25センチしかなく、その下は硬い赤土でしたので、産卵巣が掘れずに帰海したと判断しました。普通、50センチ程の穴が掘れないと卵を産まずに戻ってしまいます。
東京湾内の縄文遺跡からもウミガメの骨が出土され、広くウミガメ漁と食習慣があったことがわかっています。大島で古老から伺った話では、素潜り漁でロープの付いた銛(もり)を使って、カメの首や前肢付け根のやわらかい部分を突いて獲ったそうです。
沖縄や小笠原だけでなく伊豆諸島にも、ウミガメ漁(食)の文化が残っています。八丈島で頭数を限って許可を受けた漁をしています。食習慣と野生生物の保護の問題は微妙ですね。
さてさて、『南方海島志』という書物に「伊豆国大島の下人は、皆亀トの占を為るなり、堀河院の時の島の下人三人を上洛召て占せらる」とあります。
ここにいう「下人」とは、一般住人のことでしょうか? 亀ト(きぼく)の占いを皆がしていたのは、「堀河院」藤原基経(836~891)の時代。3人の島人が都に招かれて亀トの占いをした・・・という記述に読めます。
伊豆諸島でのウミガメ漁は、食文化だけではなかったようです。
この続きは、またの機会に。
請うご期待!
(なるせ)
島の北端に近い野田浜(ぬたのはま)に、ウミガメの上陸跡があるという情報です。
「この浜にも、以前ウミガメの上陸跡があった」と近くにお住まいの方から教えて頂きましたが、私たちが調べ始めてからの20年程は上陸跡が確認されていませんでした。
この足跡はアカウミガメと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/9d/95a443cb167cd7eb4bd91f707117e34e.jpg)
上陸痕跡を見つけたら、上陸して海へ戻った「道順」を確認します。この足跡は途中でクロスしているので、どなたにも分かりやすいですね。スコップの側から上陸して、繁みの方まで行き、左手の方へと帰海しています。
突然ですが、ウミガメを召し上がったことがありますか?
海外旅行でウミガメのスープなどを味わった方もいらっしゃると思います。小笠原でウミガメ料理を食べた、小笠原の土産にウミガメ肉の缶詰をもらった・・・などなど。ウミガメ食の経験者は少なくないかもしれません。
普段、私は爬虫類を食べません。でも、ヘビやウミヘビなどを伝統的に食べる地方もありますし、大島でもマムシ(毒蛇)を焼酎漬にしたり、肉をあぶって食べる方もいます。これは、食事にというより、滋養強壮のためのようです。
ウミガメ漁やウミガメの食習慣がある地域も世界各地にあって、特別珍しいことではないようです。日本でも昔は、産卵のために上陸して来たカメを捕まえて食料にしていた地域もありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/a0/055350c2a42753f1caeb27d4b3b25648.jpg)
足跡の幅は、80~90センチ程で、中型です。
元町の南側に地曳浜(じびきはま)があり、この浜の南端の下高洞(しもたかぼら)という地域に縄文時代早期の遺跡があります。8000年程前の住居址などからウミガメの骨が出土していて、町教育委員会の調査報告書によると、上腕骨、頭頂骨、背甲骨板などが発見されていますが、アオウミガメの小さな個体のもののみだったそうです。興味深いことです。
アオウミガメは、大島の沿岸に年間を通じて生息していて、潜水漁やダイビングの方々によく目撃されています。陸上からも、海面に呼吸のために顔を出すカメが、よく見られるポイントがありす。縄文時代の大島の海はどんな様子だったのでしょう???
アオウミガメの小さな個体は、産卵に上陸することはありませんから、縄文人は海に潜ってウミガメを捕らえていたのではないでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/88/8e404c90e9ab63506616146124660620.jpg)
足跡は植栽の際まで達していました。やわらかな砂の層が20~25センチしかなく、その下は硬い赤土でしたので、産卵巣が掘れずに帰海したと判断しました。普通、50センチ程の穴が掘れないと卵を産まずに戻ってしまいます。
東京湾内の縄文遺跡からもウミガメの骨が出土され、広くウミガメ漁と食習慣があったことがわかっています。大島で古老から伺った話では、素潜り漁でロープの付いた銛(もり)を使って、カメの首や前肢付け根のやわらかい部分を突いて獲ったそうです。
沖縄や小笠原だけでなく伊豆諸島にも、ウミガメ漁(食)の文化が残っています。八丈島で頭数を限って許可を受けた漁をしています。食習慣と野生生物の保護の問題は微妙ですね。
さてさて、『南方海島志』という書物に「伊豆国大島の下人は、皆亀トの占を為るなり、堀河院の時の島の下人三人を上洛召て占せらる」とあります。
ここにいう「下人」とは、一般住人のことでしょうか? 亀ト(きぼく)の占いを皆がしていたのは、「堀河院」藤原基経(836~891)の時代。3人の島人が都に招かれて亀トの占いをした・・・という記述に読めます。
伊豆諸島でのウミガメ漁は、食文化だけではなかったようです。
この続きは、またの機会に。
請うご期待!
(なるせ)