
『新世界秩序』なる動きをする人間達を描いている「ジウⅡ」。どうやら欲望の赴くままにある姿を表現しようとしているのか。
文学は空想の産物である、空想を言葉によって表現したものと言える。過去、エラスムスの「痴愚神礼賛」やダンテの「神曲」セバッシャンの「ドン・キ・ホーテ」もだが、その時代時代にとって理解されにくい文学であったかと思う。これらの作品は危険な文書として扱われた、「愚痴神礼賛」常識ある知識人にとっては手に取るだけでも身の破滅を招くような恐れを抱かせるものであった。「神曲」ですら宗教的空想を現実のなかに表現しようとしたもであったが、やはり反発を招くものであった。
この「ジウⅡ」で描くところの『新秩序世界』なるものへ共感することは難しい。それは過去の文学における常識への警鐘とはほど遠い内容をもっている。
いままで人間は現実のなかで生きていると同時に空想の世界にも存在を求めた。故に人類発生と同時といってよいだろう時期には天空への想いをもち、音の不思議に心を寄せ、やがて意志を伝える方法を得て、文字表現を持つに至った。それから数万年を経験した人類は現代において空想と現実の間にバーチャルな新たな世界をもつようになった。ここにあるのは現実感のある空想。その空間を体験した我々だからこそ生み出し、読むことができる小説がこの「ジウⅡ」ではないだろうか。
いままで人類がえていた空想と現実は対比の関係が強かったが、新たな空想世界は現実と空想が交じり合った、そして現実と空想の対比ではなく、融合した世界として涌き出てきたものとしてある。そこで、かりにバーチャルな世界の出現とその官能を感受する我々だとしたならばミヤジ・ジウ・竹内亮一など『新秩序世界』に対応した行動に終始するだけでなく『現実の世界』の側として位置する場面も想定されるはずである。
ここで描かれる「新秩序世界」は現実の秩序を破壊する対極として描かれている作品には物足りなさを覚える。この作品「ジウⅡ」はたしかにバーチャルな空間を手にした我々の文学である、あえて、断言しよう、中身は未完である、と。