実を言うと、彼のドキュメンタリー作品は見たことがない。おそらくドキュメンタリーこそが彼の主要な仕事なのだろうが、ボクは見たことはない。ボクは、彼の発言ばかり読んでいる。
彼の発言はクリアだ。そして本質をずばりと衝いている。この本も、遊びはない。おそらく直球ばかりだ。だからこそ、小気味が良い。
読んでいて、学ぶところがある。同感するところが多い。彼もボクも、今の社会を憂えているからだ。
さてこの本、たくさんのテーマを扱っている。どのテーマについても、ボクが見るところ、まっとうな視点からの記述となっている。
まず彼は水俣を訪れている。ボクも未だ訪れたことがない。7月に九州に行くことになっているから、そのときには必ず寄るつもりだ。彼は石牟礼道子さんに会っている。そして『苦海浄土』に言及し、これだけを引用している。良い文だから、ボクも引用する。
昔の言葉は織物のように生地目があって、触れば指先で感じることができたのに、今の言葉は包装紙のようにガサガサとうるさくて生地目がないの。
これは知らなかったのだが、1980年代以降、確定死刑囚の再審に裁判所は耳を傾けなくなっている、という事実。彼の指摘ではじめて気づいた。免田事件や島田事件で、えん罪が明らかにされたことから、「組織防衛」のために、再審を認めなくなっているというのだ。そういわれてみれば、名張葡萄酒事件や袴田事件も、最終的に裁判所は常に再審を却下している。司法機関の国家意思を感じる。となると、袴田事件も・・・日本の国家は反省をしない。反省しなくても、国民が抗議しないから、それが可能となる。
また彼が教える学生たちは、笑うときに必ず顔の前で手をたたく、という。ボクはそういう場面をテレビで見たことはあるが、それ以外では知らない。彼は、学生たちのそうした所業は、メディアから「感染」したという。バラエティ番組からの「感染」という事態をもとに、日本人の集団への同調性を指摘する。そうかもしれない。多数派への同調性は、とても強い、そういう国民だ。
「在特会」について、「(そこに)集まる若者たちに特定の政治性やイデオロギーはほとんどない」(104頁)と指摘する。その通りだと思う。この文の題は、「悪意や憎悪が正義や善意の鎧をまとう」。彼らに何らかの憎悪があるのだろうとは感じる。その憎悪を彼らは排出する。排出するものをみると、そこには何もない。きちんとした理性的な検証もなにもない。あるのは、ネットで知った根拠ない事実である。その事実をもとに悪罵を書き付ける。
今浜松で起きている小学生たちがノロウィルスに感染する事態が起きている。ボクもこれについてはメディアなどに報じられていない事実をつかんでいるが、公表するのはやめた。なぜか。この事件に関する2チャンネルを読んだら、「ノロウイルスは韓国起源」など、根拠なき悪罵がいっぱい記されている。きっと当該会社には、攻撃的な電話がたくさんかかったいるのだろうと思う。通常の会話ではでてこないようなことばが記され、そこには「悪意」しかない。まさに「悪意」が「正義」の弊衣を身にまとっているとしかいいようがない。ネットは、人々の奥深い「悪意」や「憎悪」をおもてに出すツールとなっている。
このほか、個々で紹介したい論点は無数にあるが、長くなるので一つだけ。以前ノルウェイで、島にきていた若者77人を殺害するという事件が起きた。その事件にノルウェイの人々がどう対処したのか(「なぜノルウェーは77人殺害犯許せたのか」)を読んだとき、彼我の人間理解に関する「差」を感じた。ノルウェイの高官が語ったことをここに記しておく。
ほとんどの犯罪には三つの欠落が関係しています。まずは幼年期の愛情の欠落、次に成長期の教育の欠落、そして現在の貧困。つまり金銭的余裕の欠落。このうちどれか、場合によっては複数が、犯罪の背景にはほぼ必ず存在しています。ならば犯罪者に対して社会が行うべきは苦しみを与えることではなく、その欠落を補うことなのです。だってこれまで彼らは十分に苦しんできたのですから、苦しみを与えることに意味はないのです。
この本、是非読んで欲しい。参考になるところが、ほんとうに多い。