浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

こういうものに怒りを持とう!

2014-01-03 17:35:50 | 政治
 『東京新聞』の記事。今年も「調査報道」をどしどしやっていってもらいたい。『東京』の「特報」欄は、いつも素晴らしい。ジャーナリズムの本道は、「調査報道」にあり、である。「調査報道」をしないメディアはいらない。

米兵ら起訴わずか5% 性犯罪すべて不起訴

2014年1月3日 朝刊

 在日米海軍横須賀、厚木基地があり、沖縄の次に米兵らの犯罪が多い神奈川県で、二〇〇八~一二年の五年間に一般刑法犯(自動車による過失致死傷を除く)として起訴された米軍人・軍属とその家族は、送検された百二十二人のうち、わずか七人(5・7%)だったことが法務省への情報公開請求でわかった。強姦(ごうかん)などの性犯罪では十六人全員が不起訴だった。(皆川剛)

 法務省から「合衆国軍隊構成員等犯罪事件人員調」の開示を受け集計した。なお、同じ基地県でも沖縄では、五年間に米兵ら三百十四人が送検され、起訴は六十七人(21・3%)。神奈川の低さが際立つ。

 横浜地検が起訴した七人のうち、日本で正式に裁判になったのは、〇八年に同県横須賀市で発生したタクシー運転手強盗殺人事件で無期懲役が確定した横須賀基地所属の元一等水兵と、〇九年の傷害事件の二人のみだった。

 性犯罪のほか、住居侵入、暴行、横領などは起訴率0%。地検は不起訴理由を明らかにしないが、開示文書によると、公務中を理由にされたり、公務外だが日本の法務省が「裁判権を行使しない」と判断した容疑者が計四十人いた。

 昨年十月の日米合同委員会で、日本で罪を犯した米兵らに対する軍事裁判や懲戒処分の結果が、今月から日本側に通知されることが決まった。だが外務省によると、日本の検察が不起訴にした場合は、懲戒処分は通知されないという。

 在日米軍司令部に、神奈川県内で不起訴となった米軍関係者の処分について尋ねたが、「対象者の十分な情報がない。米国は軍人らの違法行為に対するあらゆる申し立てを深刻に捉えている」などと回答したのみだった。

 九割以上の米兵容疑者らを不起訴にした検察も、その後の処分の有無を把握していない。

◆密約で決まった捜査期間制約

 在日米軍人ら、日米地位協定対象者の起訴率が低い背景には、捜査に費やせる期間の制約など、日米間で取り交わした「密約」で決まった、協定の構造上の不平等がある。

 日本の検察は、米兵らの事件事故について、起訴の判断をするまでの期間を「最大三十日」に制限されている。これは、一九七二年に全国の地検に配られ、二〇〇二年に改訂、半世紀近くたった今も使われている非公開マニュアルに書かれている。懲役六カ月未満の犯罪なら、米側に事件発生を伝えてから十~十五日、懲役六カ月以上なら二十~三十日以内に裁判権行使(起訴)の意思を伝えねばならない。期限を過ぎると、裁判権放棄とみなされる。この枠組みは、サンフランシスコ講和条約発効直後の一九五三年に日米間で合意された「日本側が実質的に重要と認める事件のみ裁判権を行使する」との密約に基づき、マニュアルに明記された。

 本紙取材では、米兵らに対する任意捜査でこの期限内に起訴に持ち込む難しさを指摘する検察関係者が複数いた。一方、横浜地検の大野宗検事正は広報官室を通じ「厳正公平、不偏不党を旨に処分している」と回答した。

<日米地位協定> 日米安全保障条約に基づき、在日米軍の法的地位や基地の管理運用を定めた協定。米軍人・軍属とその家族を対象に、公務中に事件事故を起こした場合、米側に裁判権があると規定している。公務外でも、米側が先に身柄を拘束した場合は、原則として起訴するまで日本側に引き渡されない。



米軍任せ 処分も不明 神奈川 米兵らの起訴

2014年1月3日 朝刊

 犯罪の容疑者がなぜ不起訴になったか、米軍が処分したかどうか、何も日本国民に知らされない。神奈川県内で米軍人ら日米地位協定対象の容疑者が5%(二〇〇八~一二年)しか起訴されていなかった問題は、これらの点でより深刻だ。先月閣議決定された新防衛大綱では「日米同盟強化」が掲げられた。政府や米軍、法務検察は、安全保障が国民生活を脅かすという負の部分にも目を向け、丁寧に説明すべきだ。 (皆川剛)

 事件発生から数日後。被害者のもとに米軍の法務部から電話がかかってくる。謝罪と示談の申し出があり、容疑者の上司を伴って訪問を受ける-。こんな例が多いと、米兵らによる事件を多く担当してきた中村晋輔(しんすけ)弁護士は言う。

 「通常は容疑者の意向をもとに弁護人が示談交渉にあたるが、米軍はシステマチック(機械的)に示談を成立させていく。世論の沈静化を図っている印象を受ける」と中村弁護士。日米「密約」で決まった捜査制約に加え、示談成立の割合が高いことが、起訴を少なくしているとみる。当事者の被害は回復される半面、事件の真相は明らかにならず、米軍駐留に関する社会的議論は深まらない。

 5%という起訴率には、さまざまな見方がある。

 横浜地検は取材に、米兵ら地位協定対象者と、それ以外の容疑者で「捜査方針に区別がない」とした上で、「微罪処分」を起訴率が低い理由に挙げた。窃盗や暴行などのうち軽微な犯罪なら送検しなくてよいとする、犯罪捜査規範で定められた制度だ。

 微罪処分が適用されない米兵らは、ちょっとした犯罪でも、すべて送検される。だから起訴率の分母が増える、という理屈だ。

 確かに神奈川県内では二〇一二年、窃盗と暴行の微罪処分は、総事件数の半分超だった。だが、米兵らが絡む事件に多い性犯罪や傷害などは、微罪処分がないのに、起訴率に差があり、反論は当てはまらない。

 同じ基地県でも、神奈川と沖縄との違いがある。二〇〇八~一二年の県ごとの起訴率を比べると、沖縄が神奈川より三~五倍高い。「世論の関心の高まりが、検察官の心理に影響を与えている」と読み解くのは、沖縄国際大大学院教授の前泊博盛(まえどまりひろもり)さんだ。

 沖縄では、一九九五年の少女暴行事件など、地位協定が捜査の障害になる重大事件が多い。そうした時、沖縄県民が声を上げ、議会も追及する。県民の怒りは捜査の追い風にもなる。

 「沖縄では、権利は奪い取るものという意識が強い」。前泊さんは神奈川との違いをそう話す。

 処分を米軍に任せる検察官の姿勢も一因と指摘するのは、米海軍佐世保基地を抱える長崎地検で次席検事を務めた弁護士の郷原信郎(のぶお)さんだ。

 一般に、裁判にするほど重くないが不起訴はためらわれる事件を略式起訴することが多い。傷害や暴行、住居侵入では年間の起訴の半数を超えることもある。「略式起訴は、ある意味、日本的な妥協になじむ解決。地位協定対象事件では、後に米軍内の処分が想定されるため、略式起訴しない例が多く、起訴率を下げている」と分析する。

 「平和新聞」編集長でジャーナリストの布施祐仁(ゆうじん)さんは、「起訴をせず、処分を米国に任せ、国民に情報を伝えない。主権国家としての刑事政策はないに等しく、米国に依存している」と検察の姿勢を批判する。

<神奈川県内の米軍基地> 東アジアを管轄する米海軍第7艦隊の司令部がある横須賀基地をはじめ、厚木基地など計14施設があり、総面積は約20平方キロメートル。33の米軍施設がある沖縄県に次ぎ、神奈川は「第二の基地県」と呼ばれる。

<起訴率> 検察が処分を終えた全ての事件のうち、起訴と略式起訴の合計件数の割合。犯罪白書では、自動車による過失致死傷罪は事件数が桁違いに多く、犯罪の意思を持たない人も多く当事者になるため、一般刑法犯に含めない。
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元旦の社説

2014-01-03 17:33:19 | メディア
 残念ながら『毎日』の社説は読まなかった。下記のブログを読むと、なかなかよかったようだ。『東京新聞』(『中日新聞』)がよかった、というのは、ボクと同様。

 読んで下さい、下記のブログ。


http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-2635.html
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年賀状の枚数

2014-01-03 15:53:28 | 日記
 年賀状の枚数が減っていく。身内の者が亡くなったから新年の挨拶を遠慮するというはがきが多くなってきた。今年も数えてはいないが15枚程度になった。そういうはがきが来ると当然だが出さない。それを契機にして年賀状のやりとりがなくなっていく。そういう方は、どちらかというと形式的にやりとりしていた方だ。やりとりをしなくてもいいや、という感じ。もちろんそれだけではなく、やりとりしていたその本人が亡くなってしまうということもある。

 年賀状をやりとりする方の中には、長年お会いしていない人がいる。しかしたとえそうであっても、その動向が気になる。生死はいうまでもなく、どういう生き方をしているのか、どういう活動をしているのか・・・等々。

 こういう方は、実際につながりがあった時期、よい思い出をもった人たちである。つまりよい人間関係にあった人たち、もちろん年賀状をやりとりしていない方でも、よい人間関係にあった人々がいる。そういう方々のことも、実は気になる。

 ボクが、「よい人間関係」という場合、特にいろいろなことをご教示いただいた方々である。もちろんそれは一方的ではなく、ボク自身も与えることが出来る情報をできるだけお知らせする、つまりギブアンドテイクがうまくいった方々であるといえよう。
 あるいは一方的に情報をいただいたり、あるいはボク自身のためにその人自身の時間をつかっていただくこともある。そういう際には、最低でも感謝のことばを送ること、そうすればまた何らかの情報が必要なときには、お願いできるというものだ。この点で便利なものはメールである。

 年賀状の効能の中に、新年のご挨拶と同時に、お世話になったお礼を伝えることができるということがある。それもいわば「合法的」に。「合法的」ということは、あまり構えることなく、ということである。

 ボクのようにすでに退役した者は、そういう必要性は減っているが、これから社会に出る、あるいは社会に出たばかりという人は、年賀状を活用しよう。
 但しボク自身は、職場の上司に自分から出したことはない。基本的に同じ職場の人にはださないという考え方を持っているからでもある。

 
 
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【本】エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』(ちくま学芸文庫)

2014-01-03 09:11:35 | 読書
 本書の趣旨については、すでに記した。そこでいくつかの論点について考えてみたい。

 まずボエシの文。

 信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由をあまりにも突然に、あまりにもはなはだしく忘却してしまうので、もはやふたたび目ざめてそれを取りもどすことなどできなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。
 たしかに、人はまず最初に、力によって強制されたり、うち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そういうわけで、軛のもとに生まれ、隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだしたもの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えず、生まれた状態を自分にとって自然なものと考えるのである。 (34~35)


 人間は生まれてから、所与の環境や親をはじめとした周囲の人間の存在状態を学びながら成長していく。そこで成立している秩序は、その人間にとって先天的なものとして映り、そこに適応することが生きていくための条件となる。したがって、その秩序には疑問をもたない。
 このようなことを、人間は何度も繰り返していく。たとえば学校に入学したときには、その学校の秩序はみずからが適応すべきところとして映り、会社に入ればそこでの秩序は当然の前提として存在している。新しい小社会に入り込むとき、人間はそこでの秩序を所与のものとして生きていく。

 人々が当該(小)社会の価値観を疑わずに、きわめて素直に内化して生きているのは、以上のことによる。

 ではそのような秩序は改変できないのか。もちろんそれは可能であり、改変は志向されなければならない。どうしたらできるのかといえば、当該(小)社会の秩序観を相対視できる異質な価値観との接触が必要であるし、また自分自身が生きる当該社会は歴史的につくりだされてきたものだという、これもまた歴史的に相対化できる視座をもつことが必要だということだ。

 それだけでなく、人間社会の原理原則に対する理解も必要となる。というのも、たとえば学生が卒業して「ブラック企業」に入る。学生はその「ブラック企業」の秩序が適応すべき小社会だと認識して行動する。ではそれが「ブラック企業」であると認識できるためにはどうすべきか。学生に、憲法の人権規定や労働基準法などの労働者保護法に対する知識があればその秩序が「おかしい」ものであると認識できるだろう。

 つまり、当該(小)社会の秩序を相対化できるような知識を学ぶことこそが、社会を改変するための条件なのである。まさに「知は力なり」であって、社会を改変していくためには「知」は必須なのである。

 支配者は、被支配層に「知」を与えないように、「遊戯」(52頁)、「饗応」(54頁)、「称号」(56頁)、「自己演出」(58頁)、「宗教心の利用」(59頁)などで、被支配者の懐柔を図るのである。現在に引き寄せて事例をあげれば、テレビではバカ番組で庶民を愚民化し、支配層の近くで酒食のもてなしをし、被支配層に勲章を与え、あたかも支配層がアプリオリに権威を備えた存在であるかのように「演出」し、そして保守的な宗教で人々の心を支配する。

 本書には、シモーヌ・ヴェイユの「服従と自由についての省察」も収載されているが、彼女が指摘するように「社会秩序というものは、どんなものでも、いかに必要であっても、本質的に悪である」(188)というように、いかなる社会秩序であろうと、それを疑うべきものとして視ていくことが重要なのだということだ。

 本書は、読むべきである。しかし1200円。本の厚さから考えると少し高い。
 
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