ボクは丸山真男の「「現実」主義の陥穽」(『現代政治の思想と行動』所収)を読み終えた。さすが丸山真男である。この本を読み続けて、さすが!と何度も叫び出したくなった。現実的課題とその言説がきちんとかみ合い、読む者に意欲と知力を与えてくれる。
さてこの論文を紹介しよう。この論文は、1952年に書かれた。しかしこの論説の主張は、現在においてもまったく色あせていない。ということは、1952年の政治状況と現在とが同じ、つまり進歩していないことの証左ということになる。
まず丸山は「現実」の三つの特徴をあげる。一つは、現実の所与性。「現実とは本来一面において与えられたものであると同時に他面で日々造られていくものですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが全面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。」(172頁)
この諦観が、ファシズムへの抵抗力を内側から崩していったと、丸山は指摘する。
もう一つは、「現実の一元性」。「現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的地盤に立て」とかいって叱咤する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一面だけが強調される」、1930年代「ファッショ化に沿う方向だけが「現実的」とみられ、苟もそれに逆らう方向は非現実的と考えられたわけです」。
三つ目。「その時々の支配権力が選択する方向がすぐれて、「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだ」ということ(175頁)。
だから丸山は、こう主張するのだ。
私達の言論界に横行している「現実」観も、一寸吟味してみればこのようにきわめて特殊の意味と色彩をもったものであることが分かります。こうした現実感の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契機としてしか作用しないでしょう。・・・私達は観念論という非難にたじろがず、なによりもこうした特殊の「現実」観に真っ向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」がたとえ一つ一つはどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現実をヨリ推進し、ヨリ有力にするのです。これを信じない者は人間の歴史を信じない者です。
現実を一面的に見るのではなく、多面的に見ることにより、支配権力の主張する「現実」とは異なる現実を見出し、その現実を真に現実たらしめるために、力を添えていくことが、今も求められている。60年も前の丸山の主張は、今を生きるボクたちを鼓舞する。果たしてそれは良いことなのかどうか、いやそんなことを考えずに、とにかく支配権力の「現実」に挑戦していくことが必要だと思った。
さてこの論文を紹介しよう。この論文は、1952年に書かれた。しかしこの論説の主張は、現在においてもまったく色あせていない。ということは、1952年の政治状況と現在とが同じ、つまり進歩していないことの証左ということになる。
まず丸山は「現実」の三つの特徴をあげる。一つは、現実の所与性。「現実とは本来一面において与えられたものであると同時に他面で日々造られていくものですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが全面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。」(172頁)
この諦観が、ファシズムへの抵抗力を内側から崩していったと、丸山は指摘する。
もう一つは、「現実の一元性」。「現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的地盤に立て」とかいって叱咤する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一面だけが強調される」、1930年代「ファッショ化に沿う方向だけが「現実的」とみられ、苟もそれに逆らう方向は非現実的と考えられたわけです」。
三つ目。「その時々の支配権力が選択する方向がすぐれて、「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだ」ということ(175頁)。
だから丸山は、こう主張するのだ。
私達の言論界に横行している「現実」観も、一寸吟味してみればこのようにきわめて特殊の意味と色彩をもったものであることが分かります。こうした現実感の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契機としてしか作用しないでしょう。・・・私達は観念論という非難にたじろがず、なによりもこうした特殊の「現実」観に真っ向から挑戦しようではありませんか。そうして既成事実へのこれ以上の屈服を拒絶しようではありませんか。そうした「拒絶」がたとえ一つ一つはどんなにささやかでも、それだけ私達の選択する現実をヨリ推進し、ヨリ有力にするのです。これを信じない者は人間の歴史を信じない者です。
現実を一面的に見るのではなく、多面的に見ることにより、支配権力の主張する「現実」とは異なる現実を見出し、その現実を真に現実たらしめるために、力を添えていくことが、今も求められている。60年も前の丸山の主張は、今を生きるボクたちを鼓舞する。果たしてそれは良いことなのかどうか、いやそんなことを考えずに、とにかく支配権力の「現実」に挑戦していくことが必要だと思った。