東京大学の憲法学者、長谷部恭男について、先日言及した。
彼は、朝日新聞が発行している『Journalism』2014年1月号に寄稿している。「憲法96条と集団的自衛権 軽はずみな考えで変えてはならない」という、長い題の文である。内容は、日本国憲法を簡単に変えてはならない、という題通りのもので、その立論は明確であり、その論理も概ね首肯できるものだ。
「現時点での有権者団の判断は、永続する団体としての国民の利益に関する正しい結論と一致するとは限らない」という指摘は、その通りであって、だからこそ簡単に変えられないような仕組みを憲法は持っているのである。
また、集団的自衛権についても、その「否定は、日本にとって賢明な外交上の保険として機能してきた」と正当な評価を下す。
これらの論点については、別段問題にする気はしない。
だが最後に、秘密保護法に関してメディアに難癖をつけているのだ。『朝日新聞』をはじめとしていくつかのメディアが反対の姿勢を維持していたことを批判しているのである。
その結論部分が、「適正水準の専門知識を通じて濾過する」であって、つまり秘密保護法を批判するなら、「適正水準の専門知識を通じて濾過して」報道せよ、というのである。
その具体的な反論部分がこれだ。
特定秘密として何が指定されているのかがわからない、という前提で批判を進めておきながら、たまたま秘密に触れた一般市民が重罰を科される危険がなぜあるのか、(特定秘密であることをそもそも知らないはずなのに、故意の立証が可能なのか)、最高裁の判例の趣旨を敷衍しただけの文言である「著しく不当な[取材]方法に関して、それが曖昧だという批判がどれほどの意味を持つのか、(それとも、正当な取材方法が何かを法律の条文でいちいち規定してもらわないといけないほど、ジャーナリストは子どもなのか、同様の制度を備えたアメリカ合衆国で、例えば9・11テロについて、どこで誰がどのような情報を得てテロを阻止しようとしていたかを克明に記したノンフィクションが多数出版されていることを、どう説明するのか、(日本のジャーナリストにそれほどの実力はないということか)と首を傾げざるを得ない批判論が、毎日繰り返されていた。
ボクは、長谷部のこの反論を読んでいて、まずおめでたい人だなあと思った。大日本帝国憲法下、治安維持法を含めて治安立法がたくさんあったが、その運用は法律の条文通りになされていたと思っているのだろうか。そこに拡大解釈はなかったか、法律に基づかない弾圧や抑圧はなされなかったか、そういう事例は無数にある。たとえば政治学者・丸山真男は逮捕されて豚箱に囚われの身となったが、それは適正であったのか。
長谷部には、そういう歴史の知識がないようだ。
「著しく不当な取材方法」であるかどうかをまず判断するのは、警察権力であろう。それが裁判になって無罪となったとしても、取材者は莫大な損失をこうむる、そういう想像力はないのだろうか。
長谷部の憲法学は、国家に対する無原則な信頼が基盤になっているようだ。19世紀の政治家であり思想家であったアクトンは、「権力は腐敗する、専制的権力は徹底的に腐敗する」という重要な格言を残しているが、長谷部は国家権力を信じて疑わないようだ。
長谷部には、この同じ号に掲載されている、保阪正康や藤田博司の文、そして昨年12月号の特集「国家・報道・自由」に関わる諸論考を読んで欲しいと思う。
なお、長谷部は、9・11に関するわけのわからないことを記しているが、9・11は、起きてしまっているのだ。紹介されているノンフィクションは、たった一冊。それも英文の本だ。「俺は読んだぞ」とでも言いたげな紹介の仕方。
しかしボクは、長谷部にこそ、「適正水準の専門知識を通じて濾過する」ことが必要だと思う。
彼は、朝日新聞が発行している『Journalism』2014年1月号に寄稿している。「憲法96条と集団的自衛権 軽はずみな考えで変えてはならない」という、長い題の文である。内容は、日本国憲法を簡単に変えてはならない、という題通りのもので、その立論は明確であり、その論理も概ね首肯できるものだ。
「現時点での有権者団の判断は、永続する団体としての国民の利益に関する正しい結論と一致するとは限らない」という指摘は、その通りであって、だからこそ簡単に変えられないような仕組みを憲法は持っているのである。
また、集団的自衛権についても、その「否定は、日本にとって賢明な外交上の保険として機能してきた」と正当な評価を下す。
これらの論点については、別段問題にする気はしない。
だが最後に、秘密保護法に関してメディアに難癖をつけているのだ。『朝日新聞』をはじめとしていくつかのメディアが反対の姿勢を維持していたことを批判しているのである。
その結論部分が、「適正水準の専門知識を通じて濾過する」であって、つまり秘密保護法を批判するなら、「適正水準の専門知識を通じて濾過して」報道せよ、というのである。
その具体的な反論部分がこれだ。
特定秘密として何が指定されているのかがわからない、という前提で批判を進めておきながら、たまたま秘密に触れた一般市民が重罰を科される危険がなぜあるのか、(特定秘密であることをそもそも知らないはずなのに、故意の立証が可能なのか)、最高裁の判例の趣旨を敷衍しただけの文言である「著しく不当な[取材]方法に関して、それが曖昧だという批判がどれほどの意味を持つのか、(それとも、正当な取材方法が何かを法律の条文でいちいち規定してもらわないといけないほど、ジャーナリストは子どもなのか、同様の制度を備えたアメリカ合衆国で、例えば9・11テロについて、どこで誰がどのような情報を得てテロを阻止しようとしていたかを克明に記したノンフィクションが多数出版されていることを、どう説明するのか、(日本のジャーナリストにそれほどの実力はないということか)と首を傾げざるを得ない批判論が、毎日繰り返されていた。
ボクは、長谷部のこの反論を読んでいて、まずおめでたい人だなあと思った。大日本帝国憲法下、治安維持法を含めて治安立法がたくさんあったが、その運用は法律の条文通りになされていたと思っているのだろうか。そこに拡大解釈はなかったか、法律に基づかない弾圧や抑圧はなされなかったか、そういう事例は無数にある。たとえば政治学者・丸山真男は逮捕されて豚箱に囚われの身となったが、それは適正であったのか。
長谷部には、そういう歴史の知識がないようだ。
「著しく不当な取材方法」であるかどうかをまず判断するのは、警察権力であろう。それが裁判になって無罪となったとしても、取材者は莫大な損失をこうむる、そういう想像力はないのだろうか。
長谷部の憲法学は、国家に対する無原則な信頼が基盤になっているようだ。19世紀の政治家であり思想家であったアクトンは、「権力は腐敗する、専制的権力は徹底的に腐敗する」という重要な格言を残しているが、長谷部は国家権力を信じて疑わないようだ。
長谷部には、この同じ号に掲載されている、保阪正康や藤田博司の文、そして昨年12月号の特集「国家・報道・自由」に関わる諸論考を読んで欲しいと思う。
なお、長谷部は、9・11に関するわけのわからないことを記しているが、9・11は、起きてしまっているのだ。紹介されているノンフィクションは、たった一冊。それも英文の本だ。「俺は読んだぞ」とでも言いたげな紹介の仕方。
しかしボクは、長谷部にこそ、「適正水準の専門知識を通じて濾過する」ことが必要だと思う。