ボクが『子どもの貧困 Ⅱ』(岩波新書)を購入したと書いたら、貧困問題に関する本についての照会があった。もちろんこの著者・阿部彩がかつて出した『子どもの貧困』(岩波新書)は、良い本であった。このブログでも紹介した記憶がある。
「子どもの貧困」を考える際、子どもの貧困を取り巻く状況というのを考えるべきだと思う。
子どもの貧困は、その子どもの親の貧困、つまり大人の貧困があるということ、ではその大人はなぜ貧困に陥ったのかを考えると、そこに貧困の連鎖があることに気づく。つまり社会全体の問題としての貧困問題が現れてくる。
ただ日本の社会では、貧困は表に出てくることはなかった。高度経済成長により、しばらく社会の表面から貧困問題は見えなくなっていた。もちろんなかったわけではないが、社会問題となるような「量」はなかったといってよいだろう。
では、今なぜかくも「貧困」がクローズアップされるのかというと、貧困に苦しむ人々の「量」が増え、それに伴い日本社会の「質」も変わってきたからだ。いや「量」の増加と「質」の変化とは、同時的であったように思う。
その背景にあるのは、新自由主義にもとづく経済政策の展開である。ボクは決してこの人の名、ミルトン・フリードマンを忘れるなと言い続けたが、「現在の貧困」をつくりだした新自由主義とはいかなるものかを知るためには、デヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義』(作品社)をまず読むべきだ。そしてポール・クルーグマンの『格差はつくられた』(早川書房)など。
貧困の現状を知ることは必要だが、その貧困をつくりだしたものがなんであるのかを知っていないと、どうしたらよいのかはわからない。しかしそれでも、『子どもの貧困 Ⅱ』は、副題に「解決策を考える」とあるが、具体的な処方箋をつくることは、簡単にはできない。
ボクたちは政治権力を掌握しているわけではないし、たとえ掌握していても、簡単に解決できるとは思わない。
なぜか。そこにそれぞれの生き方があるからだ。
食料品を買うストアに行く途中に、パチンコ店がある。そこの駐車場は、いつもいっぱいだ。ボクはそれを文化的貧困だと思うが(ボクは宝くじ以外の賭け事はしない)、そういうところにカネを費消する人がたくさんいるようなのだ。それぞれがもつカネをどう使うかは、個人の自由である。それによって貧困に陥るのも、自由ではある。
某弁護士から、「パチンコ売春」ということばを聞いたことがある。パチンコでカネを使い果たした女性が、パチンコで遊ぶカネを得るために売春するというのだ。パチンコによる貧困、という問題もあるのだ。
社会を改良していくことは、とてもとてもエネルギーがいる。学び、考え、行動し・・・・それでも、社会は少ししか変わらないだろう。だが、その少しの改良を求めて、人間は努力してきたのだ。時に、その積み上げてきた努力を一瞬のうちに消しさることがあったとしても。
「貧困」問題を考えるということは、社会構造や社会のあり方、経済政策、法律や制度、人間の生き方などを総合的に考えていくことなのだ。それはまさに、自分自身の生き方を考えることでもある。
自分自身の生を、社会の貧困を減じることに役立つようにしたい、そういう人が増えていけば、社会は変わっていくと思う。
「子どもの貧困」を考える際、子どもの貧困を取り巻く状況というのを考えるべきだと思う。
子どもの貧困は、その子どもの親の貧困、つまり大人の貧困があるということ、ではその大人はなぜ貧困に陥ったのかを考えると、そこに貧困の連鎖があることに気づく。つまり社会全体の問題としての貧困問題が現れてくる。
ただ日本の社会では、貧困は表に出てくることはなかった。高度経済成長により、しばらく社会の表面から貧困問題は見えなくなっていた。もちろんなかったわけではないが、社会問題となるような「量」はなかったといってよいだろう。
では、今なぜかくも「貧困」がクローズアップされるのかというと、貧困に苦しむ人々の「量」が増え、それに伴い日本社会の「質」も変わってきたからだ。いや「量」の増加と「質」の変化とは、同時的であったように思う。
その背景にあるのは、新自由主義にもとづく経済政策の展開である。ボクは決してこの人の名、ミルトン・フリードマンを忘れるなと言い続けたが、「現在の貧困」をつくりだした新自由主義とはいかなるものかを知るためには、デヴィッド・ハーヴェイの『新自由主義』(作品社)をまず読むべきだ。そしてポール・クルーグマンの『格差はつくられた』(早川書房)など。
貧困の現状を知ることは必要だが、その貧困をつくりだしたものがなんであるのかを知っていないと、どうしたらよいのかはわからない。しかしそれでも、『子どもの貧困 Ⅱ』は、副題に「解決策を考える」とあるが、具体的な処方箋をつくることは、簡単にはできない。
ボクたちは政治権力を掌握しているわけではないし、たとえ掌握していても、簡単に解決できるとは思わない。
なぜか。そこにそれぞれの生き方があるからだ。
食料品を買うストアに行く途中に、パチンコ店がある。そこの駐車場は、いつもいっぱいだ。ボクはそれを文化的貧困だと思うが(ボクは宝くじ以外の賭け事はしない)、そういうところにカネを費消する人がたくさんいるようなのだ。それぞれがもつカネをどう使うかは、個人の自由である。それによって貧困に陥るのも、自由ではある。
某弁護士から、「パチンコ売春」ということばを聞いたことがある。パチンコでカネを使い果たした女性が、パチンコで遊ぶカネを得るために売春するというのだ。パチンコによる貧困、という問題もあるのだ。
社会を改良していくことは、とてもとてもエネルギーがいる。学び、考え、行動し・・・・それでも、社会は少ししか変わらないだろう。だが、その少しの改良を求めて、人間は努力してきたのだ。時に、その積み上げてきた努力を一瞬のうちに消しさることがあったとしても。
「貧困」問題を考えるということは、社会構造や社会のあり方、経済政策、法律や制度、人間の生き方などを総合的に考えていくことなのだ。それはまさに、自分自身の生き方を考えることでもある。
自分自身の生を、社会の貧困を減じることに役立つようにしたい、そういう人が増えていけば、社会は変わっていくと思う。