朝日新聞と中日新聞(東京では「東京新聞」になるのだが)が同じ内容の「液体ミルク」についての記事を掲載しているのだが、見出しが違うと随分違った印象を受けるのだな~と、改めて感じた。
朝日新聞:乳児用液体ミルク解禁へ検討 菅氏「男性の育児に有効」
中日新聞:乳児液体ミルク解禁へ 政府検討、災害断水時に利点
両方の記事を読むと、内容はほとんど変わらない(という印象がある)。
ただ、見出しだけを読むと朝日のほうは、液体ミルクが解禁されると男性が育児に参加しやすくなる、という趣旨のように思える。
しかも発言の主は、菅官房長官だ。
まるで「液体ミルクが解禁されると、男性の育児参加が増える(というか、積極的になる)ことを政府が期待している」というニュアンスのような印象を受ける。
おそらくこの見出しを見た女性は「液体ミルクが解禁された程度で、育児に積極的になる男性なんていない」と、思うのではないだろうか?
確かに「液体ミルク」が解禁されるコトで、「父親が赤ちゃんにミルクを飲ませやすくなる」という環境はできると思う。が、「ミルクを飲ませやすい環境が整った=育児参加がしやすい」とは、ならないはずだ。
なぜなら、育児はミルクを飲ませるだけではなく、おむつを替えたり、むずがる赤ちゃんをあやして寝かしつけたりと、様々なことがあるからだ。
「ミルクが飲ませやすい環境が整った」というのは、あくまでも男性が育児参加の切っ掛けづくりであって「男性育児に有効」というほどの事ではないと思うのだ。
一方、中日新聞の見出しは現実的な気がするし、実際熊本(と大分の)大震災では、スエーデンからの救援物資として提供をされ、有効性が発揮されたという事実がある。
このコトを切っ掛けに、日本での液体ミルク承認の動きが一機に広がり、今回の検討へと結びついているはずだ。
災害時、どうしても乳児の食事というのは、おざなりにならざる得ない。
避難所では人目が気になり、母乳の授乳がしにくい、という環境に陥りやすいだろうし、生活環境の変化で母乳そのものが出にくくなってしまうお母さんもいらっしゃるだろう。
それだけではなく、「液体ミルク」そのものはお母さんたちに対してのメリットのほうが高いのでは?と、感じている。
例えば、お盆やお正月の帰省ラッシュ。新幹線などで乳児を抱いているお母さんたちの姿をよく見かける。
そのような時、お母さん方は決まって水筒に熱いお湯とキューブ状の粉ミルク、そして哺乳瓶を持ち歩いている。
赤ちゃんがミルクを欲しがると、揺れる車内で哺乳瓶に粉ミルクと熱いお湯を入れ、適温に冷まして赤ちゃんに飲ませている姿を何度も見かけた。
それだけの荷物と労力が、軽減され安心して赤ちゃんにミルクを飲ませることができる、というのはメリットだと思う。
同じ内容の記事なのに、見出しが違うことで「発想」の変わってしまう、という一例だと思う。
最大手の広告代理店である、電通に労働基準監督署の立ち入り調査が入った。
中日新聞:過労死自殺、電通に立ち入り調査 労働局、長時間労働常態化か
既に、ニュースなどで報じられている内容なので、拙ブログで説明をする必要はないと思う。
そして、この事件の前にも電通は、過労死自殺で遺族から損害賠償を請求されている。
厚労省「こころの耳」:長時間労働の結果うつ病にかかり自殺したケースの裁判事例(電通事件)
厚労省のメンタルヘルスケアのサイトで、紹介されているということは、この事件が発覚した時の社会的衝撃度は、とても強かったのだと思う。
事件があったのは1991年で、バブル経済が崩壊し始めたころだ。
この事件が起きる少し前、巷では「24時間戦えますか」というキャッチコピーと共に、栄養ドリンク剤が売れていた時期でもあった。
まさに、当時は「長時間働いて、なんぼ」という社会的雰囲気がある中での事件でもあったのだ。
それだけではなく、「上司が残っているのに、部下が先に帰るのは気が引ける・・・(または、逆に部下が残っているのに上司は帰れない)」という、組織内における「縦関係」に縛られ、「なんとなく残業」が横行していた時代でもあった。
もちろん、自殺をするまでに追い込まれた方のように「本当の長時間勤務」が常態化していたのも事実だった。
それから、20年以上たっても様々な職場で「長時間労働の常態化」は、変わっていないような気がする。
もしかしたら、今のほうがもっと酷いのではないだろうか?
その背景には、「労働形態の変化」もあるだろう。
正社員の数を減らし、非正規雇用の社員を増やすコトで人件費を減らしてきた結果、職務上責任のある仕事は数少ない正社員に集中するようになる。
しかも「促成栽培」のように、新人であっても試用期間が終われば、それなりの責任を負わされるようになってしまっているのでは?
日本の企業の多くは、学生時代に学んだことを活かした職業に就くことはあまり無い。
むしろ、企業が社員を「その企業にあった人材に育てる」という、社会風土がある。
しかし、その古い社会風土を残したまま、人材を育てる前に使い捨てるような企業が企業規模に関係なく、増えてきている結果のような気がするのだ。
もう一つこの事件で注目したのは、自殺をした女性が配属されていた部署だ。
彼女が配属されていた部署は、WEB関係だった。
先日、電通はこのWEBの広告で不正請求をしていた、という事件が発覚したばかりだ。
Infoseek News:電通の広告料不正請求は今に始まったことではない
偶然かもしれないが、電通そのものがWEB広告という事業分野に、苦しんでいたのでは?
それはこれまでのような広告(=テレビや新聞・雑誌などの媒体での広告)とは、まったく違う新しい媒体であり、電通がこれまでの「常識」と思い込んでいた、「常識」が通じなくなってきている分野の広告でもあるからだ。
電通には「鬼十則」と呼ばれる、社訓(?)がある。
「鬼十則」そのものが、時代の変化から後れを取ってしまっているのでは?
今の社会が求めているのは「24時間戦う(=24時間働く)」ような社会ではないし、高齢化社会に向かっている日本には、土台無理な話なのだ。
大丸百貨店が、この秋京都の祇園にある町家を改装して、期間限定のブランドショップを開店させる、というニュースがあった。
京都新聞:京都・祇園の町家に大丸 11月3日開業「エルメス」限定出店
確かに、京都に行く度に海外、特に中国からの観光客が増えているという実感がある。
特に、祇園などは「舞妓・芸妓」さんたちをテーマパークの出演者のような感覚で、写真を撮ったりする観光客が増え、問題となっているという話も聞く。
とはいうものの、京都の祇園は日本人であっても「ワンダーランド」のような、雰囲気を感じさせる場所でもあると思う。
その祇園の町家を改装して、大丸が高級ブランド店を期間限定でオープンさせる。
日本人というよりも、海外からの買い物客(特に中国か?)を見込んだ戦略のような印象を受ける。
実際、京都の街を歩くと町家を改装して、おしゃれなカフェやフレンチのレストランなどを見かけることが多い。
京都の北山にある有名な洋菓子店も、祇園にお店を出していて、若い女性でにぎわっていた。
マールブランシュ:加加阿365祇園店
しかし、大丸の祇園・町家のお店のニュースを聞いて、「何故?」と思ったことがあったのだ。
京都御苑の近くに、「大丸ヴィラ」という建物があるのをご存じだろうか?
20世紀の建築家・ヴォーリズが設計をした、大丸百貨店創業家である下村家の邸宅の洋館だ。
現在は、京都市の文化財として指定されているのだが、今でも大丸百貨店の所有だったという記憶がある。
文化財に指定されているためか?いつもは固く扉を閉ざし、気づかない観光客も多いかもしれない。
それでも、以前は大丸百貨店の(超)優良顧客などを招いた販売会などの会場となっていた、という話を聞いたコトがある。
外観だけを見ても、とても美しい洋館で一度邸内を見てみたい!と思うほどの、素晴らしい建物だ。
そのような建物があるのに、なぜ祇園の町家なのか?と、思ったのだ。
文化財指定を受けているとはいえ、建物としての魅力があるのに使われていない、というのは何だかもったいないような気がするのだ。
海外の有名ブランド企業の期間限定ショップなら、祇園の町家より「大丸ヴィラ」のほうがあっているような気がするのだ。
もちろん、「京都の祇園の魅力を発信する」という、意味での町家ショップの開業はわかるのだ。
おそらく、中国やアジアの富裕層の観光客などは、「祇園という町の魅力+町家+有名ブランドショップ」が重なるコトで、集客力は期待できると思う。
それでも、自社の資産である「大丸ヴィラ」を使って「京都の洋館」をアピールしないのだろう?と、思うのだ。
ここ2,3年でよく耳にする言葉の一つに「イクメン」がある。
子育てに積極的な男性を指す言葉なのだが、「自称イクメン」という方も多いらしく、時折女性陣からは「都合の良い時だけの育児は、イクメンではない」という話も聞く。
実際、育児というのは多変なコトだと思う。
「人を育てる」ということなのだから、新入社員のOJTどころの問題ではないはずだ。
最近の統計では、日本でも「育児に参加したい」という男性は、増えてきている。
一般社団法人中央調査社:父親の育児参加に関する世論調査
特に、若い世代では半数以上の男性が「育児に参加したい」、という傾向がみられる。
だからと言って、男性が育児に参加することが難しい、という場面もある。
先日たまたま、保育士経験のある男性の育児ブログを読むコトがあったのだが、その男性が指摘した問題の一つが「男子トイレにおむつ交換用台が無い」という内容だった。
駅や地下街、百貨店など不特定多数の人たちが集まる場所では、女子トイレに「おむつ交換台」があるのは当たり前になってきている。
トイレの個室にも「ベビー用の椅子」が、設置されているのが当たり前になっている。
しかし、男子トイレにはどうなのだろう???
男子トイレを利用したコトが無いので、分からないがおそらく保育士経験のある男性がブログで指摘したように「おむつ交換台」を設置している男子トイレは、皆無に等しいのではないだろうか?
このような傾向は、決して日本だけの問題ではないらしい。
THE HUFFINGTON POST:「男子トイレでおむつを交換したい」パパたちの声が届き、アメリカで法案が可決される
確かに「イクメン」を推進しようとしても、周囲の理解と環境が整は無くては実行に移すコトは難しい。
日本のように「男性は仕事、女性は家事と育児」という「社会的役割分担」を求める社会では、なおさら難しいだろう。
自民党が「女性が活躍できる社会」というのであれば、公共性の高い場所での「男子トイレにもおむつ交換台」の設置は、義務付ける必要があるかもしれない。
「授乳室」にしても「パパも利用できる授乳室」などが、必要となってくるだろう。
これまで「イクメン」というテーマになると、「男性でも抵抗感がないおんぶ紐」とか「パパが持っても不自然ではないマザーバッグ(「マザーバッグ」ではなく、「育児バッグ」と名前を変えたほうがよいかもしれないが)」というところにばかり、目が行きがちだった。
いわゆる「育児グッズ」だけでは、「イクメン」にはならないだろうし、ママ側からすれば「不満」という部分もあるだろう。
とすれば、「男性が育児に参加しやすい環境と施設づくり」も必要なのだという気がする。
最近、Yahoo!独自の記事が面白い。
今日の「東京五輪に責任者はいなかった」都政改革ブレーンに聞くを読んで「本当に、オリンピックを開催するの?」という、気がしてきた。
Yahoo!トピックス:「東京五輪に責任者はいなかった」都政改革ブレーンに聞く
2020年東京オリンピックというと、何かと組織委員長の森さんが話題になる。
森さんは「組織委員長」という肩書だけではなく、「元総理」という肩書も持っていらっしゃる。
記事を読むと、オリンピック開催に向け「組織委員」と「東京都」の関係は、「下請けと元請け」のような関係にあるようだ。
オリンピックそのものが、「都市開催」のスポーツイベントということを考えれば、確かに主導権があるのは東京都ということになるはずだ。
ところが、様々な問題が起きるたびに登場して口をはさんできたのは、組織委員長である森さんだった。
しかも森さんの発言は、的がズレているというか「口を挟むだけで、何もしない人が何を言う」印象が強かった。
特に費用についての発言は、なんとも無責任というか、お金をかければ素晴らしい(何をもって素晴らしいのかは不明だが)オリンピックが開催できる、という趣旨の内容が多かった。
1964年の東京オリンピックは、日本が高度成長期であったこともあり「国を挙げてオリンピックを成功させよう」という、社会的雰囲気があったと思う。
当然、東京都だけでは賄えない部分を国が補てんしたこともあっただろう。
特に高速道路などのインフラに関しては、東京都だけの問題ではないので、国が積極的に関わり建設をしてきたはずだ。
しかし、2020年の東京オリンピックは、事情が違う。
日本は高度成長が、見込めるような状況ではない。
何より、人口そのものが減少傾向にあり、社会が高齢者社会に向かっている。
だからこそ、有効なお金の使い方をする必要があるはずなのだが、責任を取るはずの社長もお金の管理をする財務担当者も不在であった、というのは「どんぶり勘定」にもほどがある、という気がするのだ。
私は東京都民ではないので、東京都がどれだけ「どんぶり勘定」で財政を賄っていても関係ないのだが、日本の顔ともいえる都市が、このような「どんぶり勘定」で都政を行っていたとすると、やはり恥ずかしさを感じるのだ。
「無責任体制=誰も責任を取らない体制」というのは、様々な失敗を繰り返している。
企業でいえば、東芝や三菱自動車などだろうか?
確かに、社長をはじめ会社幹部が並んで「申し訳ありませんでした」と、謝罪記者会見をしているが、その実当人たちは「何も自分が役員の時に、こんな事件が発覚しなくても・・・」と、思っているような気がするのだ。
特に同じ過ちを繰り返している三菱自動車は、そのような「企業体質」だと思われても仕方ないような気がする。
企業の場合、上述したように会社幹部が謝罪をする、という方法があるが、東京都のような行政ではそのようなことは、まず行われない。
だからこそ「無責任体制」に陥りやすいのかも知れないのだが、こんなことで本当に2020年のオリンピック、開催できるの?と、思ってしまうのだ。
米国共和党候補のトランプ氏の、暴言・放言がトランプ氏自身の首を絞め始めているようだ。
共和党の重鎮と言われる人たちが、こぞって「反トランプ」を表明し、その勢いは止まらない。
この流れが出始めたのは、トランプ氏がミスコンテストの優勝者を罵倒するような言葉を言った頃から始まった。
その後も、女性蔑視をするような発言の映像がワシントンポストが公開したりして、女性票が離れていった。
米国の大統領選は、投票するための登録制となっているとはいえ、トランプ氏のような男性ばかりが登録をしているわけではない。
投票をする半分は女性だと考えれば、「トランプ氏では戦えない」と思うのは当然だろう。
もう一つ、共和党幹部がトランプ氏支持を取りやめる理由があるとすれば、政治手腕とか政治家としての経験不足というよりも、「大統領としての品性・品格」ということを問題とし始めたからだろう。
「そんなこと、最初から分かっていたはずなのに、なぜ今更?」という気はするのだが、やはり白人でブルーカラー層からの圧倒的な支持や白人至上主義的な思考の人たちの人気は無視できるものではなかったのだろう。
だが、「大統領候補」となったとき、改めて「大統領としてどうなのか?」という、疑問が共和党内に起き始めたのではないだろうか。
なぜなら「共和党候補」として、トランプ氏は大統領選を戦うのであれば、トランプ氏の発言や行動は「共和党」のイメージとなるからだ。
保守的と言われている共和党であっても、女性蔑視の発言を繰り返しながら放送コードに引っかかるような発言は、まったく別問題と考えるのは当然だろうし、「共和党」全体がそのような政党である、と思われること自体問題だろう。
そのようなトランプ氏を「男性を見るプロ」ともいえる女性から見ると、どのように見えるのだろう?と、朝日新聞のWEBサイトに掲載されているコラムを読んで気になった。
朝日新聞:本当の”粋人”は誰にも謙虚で丁寧な応対ができる
「男性を見るプロ」ともいえる銀座のクラブのママだからこそ、説得力があるコラムだと思うのだが「客と店側」という関係だけではなく、おそらくどのような関係であっても、同じなのでは?という、気がしている。
もちろん、男性・女性問わずだ。
トランプ氏を見て、”粋人”とは思わないだうし、いくらお金があっても客として迎えたくはないのでは?という、気がした。
昨日、Yahoo!のトピックスに、資生堂のCMがセクハラで中止になった、という記事が取り上げられていた。
Yahoo!:「25歳からは女の子じゃない」資生堂、「セクハラ」批判CMを中止
この記事を読んで、「セクハラ」と感じた理由は一体何だったのか?と、疑問に思ったのだ。
「25歳」という年齢だろうか?それとも「成人女性を、子ども扱いしている」という点だろうか?
確かに、25歳という年齢は「成人女性」という年齢であって、「子ども」ではない。
ただここ10年ほど、20代でも40代でも「女子」という言葉を、使うようになっている。
「女子」と「女の子」の違いは、何か?と聞かれると、明快な回答はできないが、小学生までは「女児・男児」という言葉を使うが、中学生くらいから「女子生徒・男子生徒」と呼び方が変わる。
子どもを指す「児」という漢字が使われているのが、小学生くらいまでと考えるなら、「女の子・男の子」は小学生くらいまでを指すと考えたほうが自然だと思う。
今から40年以上前、「男の子・女の子」という郷ひろみさんのヒット曲があったことを考えると、10代までがギリギリか?という気がする。
少なくとも20代の女性に「女の子」というのであれば、「どこか馬鹿にされた気がする」と感じる女性は多いだろう。
その視点で考えれば「成人女性を、子ども扱いにしている」という、ことになる。
男性の場合、成人男性を子ども扱いにすることは(まず)無いので、「性的差別=セクハラ」という考えもできる。
もう一つは「25歳」という年齢の区切りだ。
今から30年以上前、女性の結婚適齢期年齢というか社会的年齢の見方として「クリスマスケーキ」と、言われていた時期があった。
「クリスマスイブ(24日)までは定価で販売できても、クリスマス当日は、値引かないと売れない」ということを、女性の結婚適齢期に当てはめた言葉が「クリスマスケーキ」だった。
「24歳までは、引く手あまたの結婚話も、25歳になれば無くなってしまう」というわけだ。
しかしこの「クリスマスケーキ」的女性の魅力価値(というべきか?)そのものは、随分古い価値観だと思っていた。
CMでは「25歳になれば、ちやほやしてもらえなくなる」というセリフがあるようなので、おそらくこの「クリスマスケーキ」的思考が、どこかにあったのでは?と、感じるのだ。
とすれば「性的差別」というよりも、「年齢的差別」といったほうが正しいような気がする。
25歳~(おそらく30代前半)の女性を、顧客層として考えたCMのようだが、今は「エイジレス(目指す)」という感覚の女性のほうが多いのでは?
「エイジレス≠アンチエイジング」ではなく、年齢にとらわれずに、様々なチャレンジをし続けていきたい!という、女性が増えてきているということだ。
「25歳は、お肌の曲がり角」と言われたのは、随分前だ。
今は「10代後半からお肌の曲がり角(理由は、10代の頃から本格的なお化粧をするため、肌を痛めやすい、ということのようだ)」を迎える女性も少なくない、と言われている。
とすれば、25歳の女性があこがれる女性像と化粧品の関係を訴求したほうが、良かったのではないだろうか?
日経新聞に、「需要と供給のバランスによる価格の変化」を感じさせる記事があった。
日経新聞:超高額抗がん剤、最大25%下げ 大筋合意
取り上げられている「超高額抗がん剤」というのは、「オプジーボ」という名前の「がん治療薬」だ。
見出しでは「抗がん剤」と書いてあるが、これまでとは全く違う発想の「がん治療薬」で、「抗がん剤」という表現をしないコトのほうが多い「治療薬」だ。
そしてこの「オプジーボ」という薬こそ、今年のノーベル賞医学・生理学部門で有力紙されていた本庶博士の基礎研究により、誕生した「日本生まれの日本育ち」の薬でもある。
日本での薬価は、75万円(1回)という「超」がつくほどの「治療薬」。
実は、この「薬」がこれほど高額な理由は、
1.治療対象者が、極端に少ないがん種を対象に承認された
2.「薬価の適正価格」を十分検討されずに、決まってしまった
という点がある。
確かに「世界初」の薬なので、「薬価の適正価格」そのものがわからなかった、というのは仕方のないことかもしれない。
1の「極端に少ないがん種を対象に承認された」ということが、今回の見直しの切っ掛けとなっている。
この「オプジーボ」という治療薬が、最初に承認されたがん種というのが「メラノーマ」という、非常に悪性度が高い皮膚がんの治療薬としてだった。
それまで「メラノーマ」に対して、効果的な治療薬がなかったことで、いち早く承認対象となったわけだが、問題はこの「メラノーマ」という皮膚がんの患者さんの罹患者数が、他のがん種と比べて極端に少ない。
年間でも500人未満なのだ。
500人の命は代えがたいものではあるのだが、現在日本人が一番罹患している「大腸がん」は、年間135,800人と言われている。
国立がん研究センター:2015年の感罹患者数、死亡数予測公開
圧倒的に、罹患者数(=患者数)が少ないのだ。
薬だけではないが、製品には「開発費」などの経費が含くまれている。
それらの「開発費」などの経費に企業の利益を加え、想定される販売数を勘案して「価格設定」がされる。
想定される販売数そのものが、少なければ「開発費」などを含む経費を回収するために、一つ当たりの単価は高額になってしまう。
そして現在、この「オプジーボ」は、肺がんの中でも最近増加傾向にある、と言われている「非小細胞がん」への適用が検討されている。
肺がんの罹患者数は大腸がんに続く、罹患者数が増加傾向にあるだけではなく、実は死亡者数だけで見れば肺がんが1位なのだ。
「メラノーマ」ではなく「非小細胞がん」の罹患者を対象としたとき、「販売数」そのものが飛躍的に多くなり、薬価そのものを下げるコトができるようになる。
もちろん逆の見方もあり「患者数が多いから、薬価を下げ多くの患者さんに使ってもらう」という、考えもあるはずだ。
この「オプジーボ」の薬価引き下げ、という話題は「需要と供給のバランス」ということを、改めて教えてくれているように思う。
昨日から始まった「ノーベルウィーク」。
トップバッター(?)となったのは「医学生理学賞」。
そして喜ばしいことに、今年も日本人研究者が選ばれた。
今年の医学生理学の部門では、3人の日本人研究者が有力候補として名前が挙がっていた。
ノーベル賞を受賞された大隅博士の他に名前が挙がっていたのは、京都大学客員教授の大庶佑博士、京都大学大学院理学研究科教授森和俊博士だ。
個人的には、大庶博士に期待をしていたのだが、残念ながら今年は逃してしまった、という印象を持っている。
昨日、大隅博士はインタビューで「基礎研究の大切さ」を、話されていた。
全く同じ趣旨の話を、ノーベルウィーク前に朝日新聞のインタビューに答えていた大庶博士も話していたのだった。
朝日新聞:世紀の新薬、未来へ
有料記事なので、全文を拙ブログで紹介することはできないのだが、冒頭にある「日本の大学の基礎研究で生まれ、日本の製薬会社が世界に先駆け、製品化し世界から注目を浴びている。」という文の通り、この「世紀の新薬」は「日本生まれの日本育ち」のがんの治療薬だ。
そしてこの新薬の誕生によって、世界中の製薬会社が新しいタイプの「がん治療薬」の開発に向かっている、と言われている。
この新しいタイプの「がん治療薬」がもたらす市場規模は、これまでの「抗がん剤」市場よりも大きな市場になる可能性が高い、とまで言われている。
理由は、がん種を問わない「汎用性が高い治療薬」と期待されているからだ。
そのような大きな市場を創りだすことができるのも、大庶博士の「基礎研究」があったからこそのこと。
「基礎研究」というのは、膨大な時間と費用が掛かるのに、目に見える成果というのは乏しいという問題がある。
大庶博士の研究も、実は20年以上前のものだ。
大隅博士の研究と同様に、長い月日をかけ同様の研究者から論文の参考として掲載され続け、それらの論文を基に新しい薬や製品が生まれてきている、ということも事実なのだ。
ノーベル賞を受賞する自然科学の分野の多くが、このような「基礎研究」を対象としていることを考えると、やはり「基礎研究」の重要性を改めて感じる。
今世紀に入ってから、毎年のように日本人研究者がノーベル賞を受賞するようになってきた。
その背景には、バブル期に研究費が潤沢にあったからだ、という話もある。
とすれば、バブル経済が崩壊した後の研究費の削減などで、日本の基礎研究は停滞してしまっているのでは?という、懸念が生まれてくる。
これから先も、日本人研究者が「ノーベル賞」を受賞できるような「基礎研究」の環境をどのように整えていくのか?
そのような社会的仕組みを、研究者だけではなく社会全体で考えていく必要があるのかもしれない。
なぜなら、基礎研究の先にあるのは、未来の豊かな社会だ(と思う)からだ。
毎日新聞のWEBサイトに、「軽度向け事業所半減」というタイトルの記事が掲載されていた。
「軽度向け事業所」というのは、介護施設の中でも「要支援1,2」の人を対象とした訪問介護施設やデイサービスのことだ。
このような事業所に対して支払われる介護報酬が減額されることになったのだ。
毎日新聞:新介護軽度向け事業所半減 報酬減で採算懸念
おそらく「要支援1,2」と認定されている要介護者の人数は、中度~重度の要介護者に比べ、多いはずだ。
そのため、利用者側も「お手伝いさん」感覚の利用が、多かったのでは?という、気がしている。
むしろ、「その線引きが難しい」という、部分もあったのではないか。
報酬額が増え、このままでは「介護保険」の破たんを懸念した結果、報酬額を減らすということになったのでは?
それだけではなく、「2025年問題」を見据え、毎年のように介護報酬の改定が行われるのではないか?と、感じている。
「2025年問題」というのは、いわゆる「団塊の世代」と呼ばれる人たちの多くが後期高齢者になり、介護保険の利用者が急増すると懸念されている問題だ。
後期高齢者=75歳と言っても、元気に自立した生活を毎日送っている方も多くいる。
その一方で、「健康寿命」と「平均寿命」の年齢差が広がりつつある、という指摘もある。
厚労省データ:「健康寿命と平均寿命をみる」 (注意:PDFファイル)
データを見てみると男性で9年、女性で12年ほどの差がある。
この9~13年くらいの間多くの高齢者が、介護保険の利用者になると予測される。
上述した通り「団塊の世代」が、「健康寿命と平均寿命の差」となる年齢層になれば、介護保険を利用する人達が急増するということは、簡単に想像できる。
ただ、本当の問題はそこなのだろうか?という、気もするのだ。
例えば、「延命治療」は「自分であれば受けたくないが、家族の場合延命治療を受けさせる」という人は、案外多い。
「延命治療」と言えば、「命を伸ばす治療」のように思えるが、その実「長期延命医療処置」となっている場合のほうが多いのではないだろうか?
その治療(というか「医療処置」と言うべきかもしれない)にかかる公的な費用は、今回報酬額が減らされた施設などに支払われる額よりも、多いのではないだろうか?
日本の財政が厳しいことは十分理解している(つもり)だが、分かりやすい「コストカット」だけでは、困る人が増えるばかりのような気がする。