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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~大津市坂本 滋賀院門跡~

2017-02-11 13:13:13 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 比叡山の麓、坂本の町にはいたるところに里坊がありますが、最盛期の坂本には90寺の里坊あったとされ、現在も54寺が残っているといわれます。
滋賀院は、江戸時代末まで天台座主の御座所だったことから門跡寺院とされ、地元では滋賀院御殿とも呼ばれていたそうです。

門跡寺院とは位階が高く寺格の高い寺院のことを言いますが、京都・奈良を中心に20少々の寺院にしか“門跡寺院”を名乗る許可が与えられていないようです。
皇族や貴族らの子弟が仏門に入った寺院が門跡寺院となることが多いようですが、滋賀院は比叡山延暦寺の座主の居所というところから門跡寺院となったとされています。



滋賀院の沿革は1615年に慈眼大師 天海が後陽成上皇より京都北白川の法勝寺を下賜され、この地に移築したのが始まりとされています。
その後の1655年には後水尾上皇より「滋賀院」の号と寺領一千石を賜ったとあります。



上は通用門ですのでかつては僧侶が出入りした門かもしれませんが、下の勅使門は天皇の使者が入る門ですからさすがに立派な造りになっています。
工事か何かで封鎖されてしまっていたのは残念でしたが、筋塀が五本筋塀になっているところにこの寺院の格式の高さが伺われます。





滋賀院は1878年に火災によって全焼してしまったのですが、2年後の1880年に比叡山山上の3塔(東塔・西塔・横川)それぞれから建物を移築して再建されたとされています。
建物は、本殿となる内仏殿・宸殿・二階書院・庫裡・台所があり、内部は回遊できます。他に6棟の土蔵があるそうですから非常に大きな寺院です。



内仏殿には御本尊の薬師如来像が祀られており、両脇には天台・伝教大師像を奉安。
伝教大師は最澄のことですが、天台大師は中国の僧侶で天台山で修行されたとされ、最澄が天台宗を開くにあたり影響を受けた僧だそうです。

宸殿には各間に「襖絵・輿・磬子・鎧兜など」が歴史博物館のように展示されていて、最初の部屋にはかつて延暦寺の根本中堂にあった『不滅の法灯』にも灯りが灯してありました。
胎蔵曼荼羅・金剛界曼荼羅や大不動明王軸が公開されていましたが、江戸時代に描かれた涅槃図に特に興味をそそられます。

涅槃図は、お釈迦様の入滅を表した絵で釈迦の弟子以外にもいろいろな動物が書き込まれていますが、江戸時代のことですから象や虎?は絵などで見ただけの想像の産物となっているあたりが面白い。
この涅槃図が珍しいのは“動物たちと一緒に鯉や鰻や蟹などの水棲の生き物を描かれているところ”で、滋賀院の方も“こういう涅槃図は、世の中でこの1枚しかないことはないが、他では見たことはない。”とおっしゃっていましたので珍しいものには違いはないようです。



さて建物を出て、境内の石段を登っていった先には天海大僧正の廟である慈眼堂がありました。
1643年に徳川家光の命により建立されたとされるお堂で、徳川家康(徳川三代)の側近だった天海僧正と徳川家の関係の深さが分かります。



天海大僧正は今で言う都市伝説のようなものまである謎の多い方のようですが、信長の比叡山焼き討ちで焼土と化した比叡山の復興に尽力された方だそうです。
慈眼堂には天海によって高島市から移された「鵜川四十八体石仏」の内の13体の阿弥陀如来座像境内があるはずでしたが、これを見落としてしまったのは残念でした。


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