僕はびわ湖のカイツブリ

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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~彦根市 大洞山 大洞弁才天(長寿院)~

2017-02-22 18:35:35 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 彦根城の北東1.5㌔にある佐和山(標高232.5m)に連なる大洞山(標高211m)の中腹に大洞弁才天(長寿院)は建てられています。
この地は彦根城の鬼門にあたることから、彦根藩第4代城主 井伊直興が鬼門除けと領内の安泰を願い創立した寺院といわれています。

往時はこの山裾近くまで内湖だったことから、城主は下屋敷(琵琶湖の近く)や玄宮園(彦根城内)から舟で参拝したとされています。
現在の地形からすると考えられませんが、当時はこの一帯に内湖が存在し、彦根城の外濠から米原市の入江内湖に至る73.3ha(甲子園球場は3.85ha)の広大な内湖があったようです。(1940年代に干拓)



大洞弁才天は真言宗醍醐派の寺院ではありますが、境内の入り口に朱色の鳥居が建てられていたりして神社に参拝したのかと錯覚を起こしてしまいます。
額は「大宝王」と読むのでしょうか。御本尊の阿弥陀如来のことを指しているのかもしれません。



この石段は龍譚寺(井伊家の菩提寺)の前の参道から登っていくと、阿弥陀堂や弁財天堂に着いてしまいますので、一旦石段を下って正規の参拝道から入り直しました。
鳥居を抜けると江戸時代中期の総門が見えてきます。竹林を横目に石段を登っていると、山の寺院にやってきた感が高まって気持ちが晴れますね。



さらに石段を登っていくと見事な楼門が見えてきます。
この楼門は、1695年に建てられたもので県指定有形文化財に指定されています。



楼門は“二天門”の別称があり、門の正面には左右に「毘沙門天像と堅牢地神像」が安置されていました。
毘沙門天像は保存修理に出されていて不在でしたが、堅牢地神像は既に修理が終わった仏像だと思われます。堅牢地神は、大地をつかさどる神で万物を支えて堅牢である神とされています。

 

楼門は正面からだと全景が見えませんが、境内側から見ると全景を見ることが出来ます。
境内から楼門を見ると、真正面に彦根城の天守閣が入ってきますので額縁の中の彦根城になるのですが、そうそううまくは撮れませんね。





楼門の境内側の左右には白狐像が安置されていて、さながら彦根城と城下を守護しているかのようです。
上階へ登ることは出来ませんが、上階には甲冑を着た大黒天が臼の上に座し、両脇に4千躰の大黒天が彦根城に向かって祀られているそうです。

 

大洞弁財天には全体で15の堂宇があるとされていて、1695年に建立された校倉造りの宝蔵、1699年に建てられた経蔵(全国で8番目に古い)などの建築物が残されていました。





弁財天堂までは更に石段が続きます。
この日はまだ残雪が残っていましたので、雪のない部分を歩いていきます。



大洞弁財天の創建は1695年、彦根藩第4代城主 井伊直興が領民から一人一文の奉加金を募り、これに藩金を加えて創立したとされています。
この時の領民の寄進は、大洞弁財天祠堂金寄進帳に全員の名前が記載されて文書は重要文化財に指定されています。(寄進帳は彦根城博物館に収蔵)
大洞弁財天の本堂にあたる弁財天堂(重要文化財)は、権現造りの建築物で各所に彫刻が施され極彩色が施されており、“彦根日光”とも呼ばれている建築物です。



弁天堂(重文)は、外陣から見ると須弥壇は煤で黒々としてはいますが、その荘厳さや装飾の豪華さに圧倒されてしまいます。
しかし何といっても内陣から見る6尺(約182cm)の弁財天坐像には取り込まれてしまうような魅力があります。
人によって受け取り方は様々でしょうけど、両脇に15童子像・四天王像を従えた弁財天坐像は非常に柔和な表情に感じました。

またこの長寿院(大洞弁財天)には弁財天堂の弁財天とは別に、阿弥陀堂にも本尊が安置されています。
阿弥陀堂の本尊は阿弥陀如来像で、阿弥陀堂と弁財天堂は同じ1695年に建立された建築物とされています。



阿弥陀堂の内陣はガラス越しにしか見ることが出来ませんが、中には本尊の阿弥陀如来像と脇侍に大日如来像・釈迦如来像が祀られ、その下に不動明王像が安置されていました。
更に須弥壇の左側には宇賀神を頭上に載せた竹生島系の宇賀弁財天坐像、右側にはもう1躰の不動明王が安置されているのが見えます。

さてその宇賀神ですが、大洞弁財天の奥之院には宇賀神を祀った寺院がありました。
この宇賀神堂はどう見ても神社に見えてしまいますが、「**宮」「**神社」ではなく「宇賀神堂」と寺院の名前が付いているので不思議に感じます。



宇賀神とは人頭蛇身の姿をしていて、竹生島の弁財天信仰では弁財天の頭の上に乗り、鳥居が添えられている神です。
宇賀神は神に由来するという説もありますが、密教に取り入れられた神とされていますから、真言宗の大洞弁財天に祀られているのも当然なのかもしれません。



大洞弁財天(長寿院)の本来の入山口と思える場所は、JRの線路を渡った住宅地の中にありました。
古い写真を見ると、明治の中頃にはこの場所まで内湖が広がっていて、船着場から大鳥居をくぐって参拝した様子が残されています。
この大鳥居からJRの線路を渡って入ると、子安地蔵尊の祠・総門・楼門・本堂へと継る石段に通じるので、元々はここが正式な参拝ルートだったようです。



琵琶湖全体では戦中・戦後に干拓された内湖が総面積で2521haもあったといいます。
大洞弁財天の高台から見る100年前の彦根城の外堀に広がる広大な内湖とはどんな姿だったのか、見れるものなら見てみたかったなぁと思いを巡らします。


コメント
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