僕はびわ湖のカイツブリ

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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~近江八幡市 遠景山 摠見寺~

2017-12-01 06:21:21 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 『天下布武』の言葉は織田信長の代名詞のように使われます。
「桶狭間の戦い」で今川義元を破り、斎藤道三の死後に美濃を平定した後に使い始めた朱印が『天下布武』の印だったことが始りですが、大河ドラマなどで引用されることが多かったことから信長を象徴する言葉になったのでしょう。

『天下布武』の意味には諸説あるようで、“武力によって天下を治める”といった魔王・信長をイメージしたような解釈や、“武家による国の統治”を目指す意味だと解釈するなどあるようです。
信長の居城であった「安土城」は、日本で始めて天守閣をもった城とされていますが、本能寺の変の後に焼け落ち、現在は城跡と信長の菩提寺であった摠見寺の一部の残すのみとなっています。

 

摠見寺は安土城跡の中にあるため、仮本堂~三重塔~仁王門という通常の寺院参拝経路とは逆回りになります。
三重塔や仁王門は一番上にある天守閣跡を経由して行くことになりますが、城跡内を知っていれば正式な参拝ルートが辿れると思います。
これは城址のルートを選ぶか、参拝ルートを選ぶかということになるようです。



摠見寺は織田家の菩提寺として開基された臨済宗妙心寺派の寺院で、「本能寺の変」後に天守閣が炎上した時に寺院は類焼をまぬがれ、最盛期には22棟の堂宇があったとされています。
しかし本堂を含むいくつかの堂宇は1854年の火災で焼失してしまい、かつて徳川家康邸跡があったと伝えられる場所に仮本堂は再建されています。



仮本堂は1933年に京都御所の一部を賜り改築され、外観は庫裡のような造りの建物になっています。
内部には天守跡から出土した金箔瓦や襖絵など見応えのある展示がされていましたが、面白いのは天井に届く織田信長の掛け軸でした。
この掛け軸に描かれた絵は、摠見寺の御朱印帳の表紙になっていましたよ。



摠見寺の本尊は「十一面観音菩薩立像(室町期・像高40cm)」で、左には「織田信長公坐像(江戸前期・像高約69cm)が祀られてあります。
寺院の住職は江戸時代を通じて織田家の一族から選ばれていたようですから、織田家の菩提は織田家によって守り続けられてきたということになりそうです。

仮本堂へは特別拝観で入りましたので堂内を拝観した後、茶室に案内されて抹茶と和菓子がいただけます。
頭を下げないと当たりそうな鴨居をくぐって入ると、大人が4人もいれば一杯になるような小さくて如何にも茶室らしい風情の部屋に案内され、しばらくすると抹茶と和菓子が運ばれてきます。
風通しのいい部屋でなんとも落ち着いた気分になれる茶室でした。



さて、仮本堂を出た後は天守閣跡を目指して石段登りが始まります。
しょっちゅう石段登りをしていますので、この石段は楽勝ムードで登れましたよ。



この石段は「大手道跡」と呼ばれる石段で、城普請の際に近郊から集められた石材が使われていますが、何ヶ所かに石仏が大手道の石材に使われています。
お賽銭があげられていましたが、片や菩提寺を建立する一方で石仏を石段に使うあたりは信長の合理主義なのかどうなのか意見が分かれるところでしょう。





また石仏だけでなく、仏足石も資材として使われていたようです。
昭和初期に崩れた石垣の中からは室町時代中期作といわれる仏足石が発見されたそうです。



石段を進んでいくと木の根が剥き出しになった歩きにくい道を経て本丸跡へ到着します。
本丸跡は千畳敷と呼ばれ、平成11年の調査で盤目状に配置された119個の建築礎石が発見されたといいます。
礎石の一部には焼損の跡や柱跡が残るものもあったそうです。





建築当時の安土城の周囲は、かつては3方が内湖に囲まれた城で南方だけが開けている地形で、内湖は城の防御に役立つとともに湖上交通の要所でもあったようです。
干拓事業が開始されるまでの琵琶湖には数多くの内湖があったことが記録されていますが、今残っている内湖には手を付けずに残していって欲しいと願います。



天守跡からもと来た道と別の道を進んでいくと1854年に焼失した摠見寺本堂跡が見えてきます。
敷石の一部だけが残る寂しい場所で、石標が曲がって建っているあたりに物悲しさを感じてしまいます。



三重塔は、摠見寺創建時の1454年に建立された重要文化財の建築物で、湖東三山の一つ長寿寺から移築された塔です。
以前に湖南三山巡り(善水寺・常楽寺・長寿寺)で訪れましたが、長寿寺では“三重塔は安土城の摠見寺に移築された”と書かれてあり、非常に気になっていた塔でしたのでやっと見れたことに安堵感があります。



この三重塔には最近に改修された痕跡はありませんが、棟柱には1454年建立・1555年修理の墨書きがあるそうです。
1604年には豊臣秀頼が一部修理、1914年には三層目の屋根と一・二層の軒が崩落したがすぐに修理されたといいます。



通常の参詣順の逆廻りになっていますので、最後に見えてきたのは本来は入山する場所である仁王門です。
仁王門は1571年に甲賀武士・山中俊好が建立したと棟木に残されているとあります。
山中俊好は、戦国時代に甲賀の地侍で六角氏の家臣だったとされる人物で、六角氏が信長に敗れたのち信長に臣従したとされ、信長の死後に秀吉によって改易されたとされます。



仁王門は入母屋造りの本瓦葺きの楼門で重要文化財指定を受けています。
どこの寺院へ行っても、石段から見上げて見る仁王門(楼門)の姿には感銘を受けます。



仁王門には同じく重要文化財の金剛力士像が睨みを効かせています。
1467年に因幡院朝によって造立された仁王像ですが、表情といい肉感といい迫力のある仁王像です。





安土城跡の中を歩いていた時に、観光ボランティアと思われる方が何人かの観光の方を引率しておられ、並んで歩いていた時に詳しい説明が聞けました。
“ワシらが子供の頃はゆるい上り坂しかなかったけど、発掘で石段や城壁に積まれている石が掘り起こされて今の状態になったんですよ。”とおっしゃる。
大量の金箔が貼られて絢爛豪華だった安土城は、400数十年も土に埋もれていましたが、近年になってその実の姿が判明・復元されてきているということですね。


コメント
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