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かつて京都と滋賀(大津)をつなぐ道には“途中越え”や“山中越え”などの山越えのルートがあり、滋賀里の石像は山中越えの大津側の入口にあると聞きます。
京都側の入口となる北白川にも石仏があることから、山中越えを利用した旅人が道中の安全を祈願したともいわれています。
現在の山中越えは整備された道にはなっていますが、カーブに次ぐカーブの道で慣れていないと怖い道になっており、旧道はさぞや難所の山越えだったのではと推定されます。
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滋賀里まで行って石仏の近くまで来ているのは分かったが、はてさて所在地が分らない。
集落の間の細い坂道を迷いに迷った末に、「北向地蔵」というお地蔵さんの前で掃除をしているお爺さんを見つけて聞いてみる。
「“志賀の大仏(しがのだいぶつ)”へはどちらへ行くといいのでしょう?」と聞くと...。
「“だいぶつ”ではなく、“おぼとけ”だ。“おぼとけ”さんと呼びなさい。」と注意される。
道は分かりやすく親切に教えて頂きましたのでお礼をいうと...。
「“おぼとけ”さんだからしっかり覚えるように!」と最後にもう一度年を押される。
地元でお守りされている方にとっては、呼び間違えるのは不謹慎なことになりますので気を付けないといけませんね。
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“観音様の石仏の前に車を停められるから”と教えていただいた通りに小さな駐車スペースに車を停めて、ここからは徒歩になります。
先に観音様の石仏にお参りしてからとしましたが、かつてこの観音石仏を拝んでから京都までの山越えをされた方も多かったのでしょう。
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右に流れる沢を横目に林道を歩いて行くと、ほどなく御堂が見えてくる。
人は誰もいないし、聞こえてくるのは沢の水音。時々野鳥の声が聞こえるがヒヨドリくらいというところ。
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この御堂の横の道の先には「崇福寺跡」という飛鳥時代後期から室町時代にかけて存在した寺院の遺跡が残されているそうで、国指定の史跡となっています。
「崇福寺」は668年に天智天皇が大津京の鎮護のために建立した寺とされており、比叡山南麓の3つの尾根にそれぞれ堂宇があったといいますから、かなり広大な寺領を持つ寺院だったようです。
この「崇福寺跡」は、わずか5年程で廃都となった大津京の所在地を探る手がかりとして注目されているようです。
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「石造阿弥陀如来坐像」は高さ3.5m・幅2.7mの花崗岩に掘り出した石仏で、阿弥陀如来は高さ3.1mとされます。
時代は鎌倉時代と推定されており、数百年に渡って旧街道で旅人を見守り続けられてきたのでしょう。
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石仏はその大きさには圧倒されるものの、威圧感といったものはなく、表情は非常に穏やかで優しい顔をされています。
山中越えをする人は商売や物見遊山の方ばかりでなく、追われるように、逃げるように、またはどん底から再起を図るため、山を越えていく人も多かったのではないでしょうか。
そんな人々を穏やかで優しい表情で見守って送り出し、あるいは受け入れ続け、人々を安堵させてこられたのかと思います。
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帰り道に先ほどのお爺さんにまた会ったので御礼を述べて行きましたが、まだお地蔵さんの周辺の掃除をされています。
「志賀の大仏」は旧街道が廃道となった今も、こういった地元の人の日々の奉仕によって守られてきたのでしょう。