西国三十三所観音巡礼の番外札所は3寺あり、それぞれ西国観音巡礼の創始者・徳道上人、復活発展させた花山法皇ゆかりの寺院となっています。
奈良県桜井市の発起院は徳道上人が開き晩年を隠棲した寺院で、兵庫県三田市の花山院(菩提寺)は花山法皇が晩年を過ごした寺院で、両方とも御廟があります。
今回訪れた元慶寺は花山天皇が19歳の時に出家して花山法皇となった寺院とされ、番外札所として信仰を集めています。
寺院としての規模は小さいながらも西国巡礼の番外札所として参拝に来られる方も多いようです。
元慶寺は六歌仙の一人として知られる遍昭僧正(他には在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主)が868年に建立し、877年には清和天皇の勅願寺となり元慶寺と改めたとされます。
寺格も高く多くの寺領で栄えたようですが、応仁の乱で灰塵に帰し、1789年から4年をかけて再興されたようです。
竜宮門の造りとなっている「鐘楼門」も江戸時代の再興建築物の一つで、住宅地の細い道路に面して建てられています。
この鐘楼門には平安時代作の「梵天」と「帝釈天」の等身大の立像が安置されていたようですが、2躰は京都国立博物館に出陣中ということで写真のみが掛けられていました。
数多くの千社札が貼られた鐘楼門の向こうに境内が見えますが、奥にある庫裡までが境内となっています。
よく寺院に千社札が貼られていることを見ますが、千社札からは確かに寺院の活気のようなものを感じますが、建築物を痛めることにはならないのでしょうか。
「本堂」はこじんまりとした造りになっており、まずは線香を焚いてお参り致します。
早朝でしたのでまだ誰も線香をあげておられなかったため、最初の1本になったのは何となく気持ちが良い。
元慶寺の御本尊は薬師瑠璃光如来が祀られ、扉には菊花紋が付けられていますので皇室ゆかりの寺院であることが分かります。
軒の内側にも千社札がたくさん貼られており、毎度ながらどうやってあんな高い所に貼れたのか不思議になります。
さほど広くはない境内に幾つか石碑があり、獅子のような石像の上の碑は「元慶寺再興碑」とされ、寛政元年(1789年)に元慶寺再興第二世釈亮雄という方が元慶寺の歴史と想いを彫られたもののようです。
もう一つの石碑には梵字でしょうか、記号のようなものが彫られています。他には遍照僧正(開山:歌人)の歌碑と素性法師(歌人)の歌碑がありました。
寺院の案内板によると、“花山天皇は986年、外孫・懐仁親王の皇太子即位を画策する右大臣・藤原兼家と道兼親子の策謀により、在位2年で退位・出家されることになった”とあります。
しかし、花山法皇となったことによって西国三十三所観音霊場巡りを復興することになったのは、花山法皇が生まれ持った定めだったということなのかもしれません。
奈良県桜井市の発起院は徳道上人が開き晩年を隠棲した寺院で、兵庫県三田市の花山院(菩提寺)は花山法皇が晩年を過ごした寺院で、両方とも御廟があります。
今回訪れた元慶寺は花山天皇が19歳の時に出家して花山法皇となった寺院とされ、番外札所として信仰を集めています。
寺院としての規模は小さいながらも西国巡礼の番外札所として参拝に来られる方も多いようです。
元慶寺は六歌仙の一人として知られる遍昭僧正(他には在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主)が868年に建立し、877年には清和天皇の勅願寺となり元慶寺と改めたとされます。
寺格も高く多くの寺領で栄えたようですが、応仁の乱で灰塵に帰し、1789年から4年をかけて再興されたようです。
竜宮門の造りとなっている「鐘楼門」も江戸時代の再興建築物の一つで、住宅地の細い道路に面して建てられています。
この鐘楼門には平安時代作の「梵天」と「帝釈天」の等身大の立像が安置されていたようですが、2躰は京都国立博物館に出陣中ということで写真のみが掛けられていました。
数多くの千社札が貼られた鐘楼門の向こうに境内が見えますが、奥にある庫裡までが境内となっています。
よく寺院に千社札が貼られていることを見ますが、千社札からは確かに寺院の活気のようなものを感じますが、建築物を痛めることにはならないのでしょうか。
「本堂」はこじんまりとした造りになっており、まずは線香を焚いてお参り致します。
早朝でしたのでまだ誰も線香をあげておられなかったため、最初の1本になったのは何となく気持ちが良い。
元慶寺の御本尊は薬師瑠璃光如来が祀られ、扉には菊花紋が付けられていますので皇室ゆかりの寺院であることが分かります。
軒の内側にも千社札がたくさん貼られており、毎度ながらどうやってあんな高い所に貼れたのか不思議になります。
さほど広くはない境内に幾つか石碑があり、獅子のような石像の上の碑は「元慶寺再興碑」とされ、寛政元年(1789年)に元慶寺再興第二世釈亮雄という方が元慶寺の歴史と想いを彫られたもののようです。
もう一つの石碑には梵字でしょうか、記号のようなものが彫られています。他には遍照僧正(開山:歌人)の歌碑と素性法師(歌人)の歌碑がありました。
寺院の案内板によると、“花山天皇は986年、外孫・懐仁親王の皇太子即位を画策する右大臣・藤原兼家と道兼親子の策謀により、在位2年で退位・出家されることになった”とあります。
しかし、花山法皇となったことによって西国三十三所観音霊場巡りを復興することになったのは、花山法皇が生まれ持った定めだったということなのかもしれません。