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“男のためのガーデニング”改め

奥永源寺の小椋谷を再訪する~政所・蛭谷・君ヶ畑集落~

2021-06-06 06:50:50 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 一般財団法「日本森林学会」では、林業の発展の歴史を示す景観や施設、跡地等、土地に結びついたものを中心に「林業遺産」として認定しているといいます。
2019年までに41の林業遺産を認定しているといい、滋賀県では唯一「木地師文化発祥の地 東近江市小椋谷」が認定を受けています。
小椋谷とは、君ヶ畑・蛭谷・箕川・政所・黄和田・九居瀬の6町のことをいい、木地師の文化の中心地とされてきており、君ヶ畑・蛭谷では全国の木地師社会の保護を担ったとされています。

実は先日も箕川・君ヶ畑・蛭谷に訪れたのですが、もう一度よく見てみたいということで、短期間での再訪となりました。
前回は多賀大社前から犬山ダムを通って箕川へ辿り着くという遠回りをしてしまいましたので、今回は入りやすい永源寺や永源寺ダムからのルートで小椋谷へ向かいました。



まず永源寺ダムまで行き、ここで休憩がてらダムの上を歩いてみます。
永源寺ダムは1952年に農業用水の安定的供給を目的として計画されたものの、水没世帯数が213世帯あるということから反対運動が起こり、完成したのは1972年のことだったといいます。

ダムの長さは392m(新幹線ひかりの16両分)、高さは73.5m(奈良の大仏の5倍)、水量は25mプール5万4000杯分で全量を琵琶湖に流すと琵琶湖の水位が3センチ上がるという。
また貯水池の広さが甲子園球場の25倍というこのダムは、全国で65箇所のダム湖が選定されている「ダム湖百選」に選ばれているそうです。



冬の雪解け水なのでしょうか、たっぷりと水を溜めたダム湖を眺めながら湖畔を進みます。
今の季節、水鳥はもういませんが、この辺りから小椋谷までの山の方からは小鳥の囀りがよく聞こえてきました。



永源寺ダム湖の端までくると「大瀧神社」の鳥居が見えてきます。
多賀町にも同じ社名の「大瀧神社」がありますが、そちらは犬上川沿いにあり、「大蛇ヶ淵」に面する。

こちらの大瀧神社は愛知川の近くにあり、“竒岩重畳せる岩上より数十尺下深渕の大瀧に飛び込む”という「瀧飛の神事」が行われていたといいます。
“飛び込み青年の体躯は勇壮で躍動する龍神の如し井水信仰の本源となすものなり”と水の神・龍にちなんだ神事があったといいます。



しかし、「大瀧神社」は永源寺ダム建設の折、先述の213世帯とともにダムの湖底に水没してしまったといいます。
現在の「大瀧神社」は1971年以降にこの地に再建されたものと思われますが、集落は湖底に水没しても鎮守の神さまは守り続けておられるということになります。



ダム湖を越えて愛知川沿いに進んで行くと「幻の銘茶」として有名な政所集落へと入ります。
政所茶は、室町時代に永源寺五世管長の越渓秀格禅師がこの地に茶の植栽を始めたと伝えられており、「宇治は茶所、茶は政所」と茶摘み唄に歌われたとか。



違和感があったのは、お茶の産地の信楽~宇治田原にかけては山の斜面に大きな茶畑があり、茶所というとあの界隈の景色を思い起こすのですが、政所にはそのような大きな茶畑が見当たらない。
政所茶は明治の頃に最盛期を迎えたものの、戦時中の転作や生産者の高齢化によって生産量は減少し続けてきたといいます。
茅葺屋根の家はもう人が住んでいなさそうですし、前にある茶畑の周囲も雑草が生えてしまい、少し荒れた感があります。



川へ向かって降りていく傾斜の場所には手の加えられている茶畑が見えます。
集落の中にあった寺院には“5月は茶摘みのため講話はありません。”との注意書きがされており、お茶の生産に追われる地元の方々の忙しさも伺われました。



ところで、政所集落へ入る前に「足原谷の滝」という落差15mほどの滝を見つけました。
水量豊富な滝という訳ではありませんが、3段くらいの段差で落ちてくる細長い感じの滝です。



滝とは呼べないような小さな滝も何ヶ所かあります。
残念なことをしたのは、先の「大瀧神社」の近くに「萱尾不動滝」という滝があったのに気付けなかったことでした。
「萱尾不動滝」は次に訪れた時の楽しみということですね。



政所がこの辺りにしては大きな集落だったことに驚きつつ、やや細めの林道を進んで行くと蛭谷集落へと入ります。
集落の入口には「筒井神社」と併設された「木地師資料館(予約要)があり、「筒井神社」は848年に惟喬親王が創建された神社と伝わります。



「筒井神社」は元は筒井峠にあったといい、木地氏の村として栄えて「筒井千軒」とまで呼ばれるほど人口が多かったといいます。
また筒井峠には「筒井公文所」があり、全国の木地師の総知拝所として宗旨人別帳に記載されていないことの多かった木地師の人別帳を製作したといいます。



さて、蛭谷から今度は最奥のかくれ里・君ヶ畑集落へと向かいます。
前回は「君ヶ畑のカツラ」と「大皇器地祖神社のスギ」が目的でしたが、今回はゆっくり集落内を歩いてみたいと思ったことが目的になっています。



集落の真ん中辺りにある「「木地師発祥地 君ヶ畑ミニ展示館」に車を停めさせていただき、集落の一角にある「大皇器地祖神社」「惟喬親王御陵」「金龍寺(高松御所)」が並ぶエリアへと向かいます。
「金龍寺(高松御所)」は、惟喬親王が皇位継承の第一候補であったにも関わらず、時の権力者・藤原良房の圧力により天皇になれず、失意のまま小椋谷に隠棲して住んだ場所とされています。



君ヶ畑はかつて「小松畑」と呼ばれていたとされ、惟喬親王はこの地で木地の技術を教えたことから「君ヶ畑」と呼ぶようになったともいいます。
木地師は全国を移動しながら木地を製造していた集団ということもあり、惟喬親王にまつわる伝説は各地にあるようですが、何らかの形で惟喬親王がこの地に関わったのは確かなようです。



惟喬親王を御祭神として祀る「大皇器地祖神社」と、惟喬親王が隠棲したとされる「金龍寺(高松御所)」の間には「惟喬親王御陵」があります。
「惟喬親王御陵」は小椋谷だけでも複数あるとされていますので、それだけこの地の人々には想いのあった方ということになります。



君ヶ畑集落を歩いていて目に付くのは水場の多さでしょうか。
この水場は君ヶ畑が過去に大火の被害を受けた時に設置されたものだといい、集落内には全部で8つの防火水道があるといいます。
蛇口が開いたままで水が流れ出しているものもあり、鈴鹿山系の豊かな水を知る、君ヶ畑ならではの風景かと思います。



蛭谷から君ヶ畑にかけての道中、道の崖下に垣間見える御池川の渓谷が美しく、降りるところを探してみます。
しかしながら、降りられるところはどうしても見つからず、全景を見ることは叶いませんでした。
残念ながら渓谷は諦めて、蓼畑集落辺りの穏やかな流れになった愛知川の様子を見る。



帰りに「道の駅 奥永源寺渓流の里」に立ち寄り、「政所平番茶」のペットボトルを買ってみました。
「政所平番茶」は、ススキや落ち葉を肥料として自然農法で育てられた茶葉を、木桶で蒸した後に乾燥させて半年熟成した番茶だと書かれてあります。
飲み口はスッキリしていますが、飲んだ後に苦みのような後味が特徴的ですが、これが番茶本来の味なのでしょう。



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