大君ヶ畑の白山神社
東近江市の小椋谷の最奥に「君ヶ畑」という集落がありますが、鈴鹿山脈の最高峰・御池山(標高1247m)の反対側にある多賀町には「大君ヶ畑」という集落があるといいます。
共に山を越えれば三重県いなべ市に通じる滋賀県最奥の集落であり、「惟喬親王伝説」由来の地とされています。
「惟喬親王」は、第五十五代文徳天皇の第一皇子として誕生されますが、右大臣・藤原良房の権勢により天皇にはなれず、都を逃れて小椋谷に隠棲して木地の技術を教えた方と伝わります。
その伝説により、小椋谷の蛭谷や君ヶ畑は木地師の里として全国の木地師の末裔から祀られているといいます。
惟喬親王の隠棲ルートは、滋賀報知新聞によると2ルートあり、一つは愛知川流域に沿って“近江八幡市→愛荘町→小椋谷→蛭谷・君ヶ畑”。
もう一つは、鈴鹿山麓沿いに“甲賀市土山→日野町→小椋谷”だとされますが、山の反対側の多賀町大君ヶ畑にも「惟喬親王伝説」の伝説が残っているという。
同じ字が町名となっていますが、東近江市は君ヶ畑(きみがはた)と読み、多賀町の大君ヶ畑(おじがはた)と読みます。
かつて北畑を呼ばれた大君ヶ畑は「惟喬親王伝説」により「皇子が畑」となったともいわれる。
大君ヶ畑には「惟喬親王」を祀るという「白山神社」があり、親王ゆかりの君ヶ畑と大君ヶ畑の両方を見てみたいと思い、大君ヶ畑集落を訪れました。
大君ヶ畑集落の真ん中には三重県いなべ市に通じる国道306号線が通っているため、山奥の山村という雰囲気はあまりなく、国道沿いにある山村といった印象の方が強い。
とはいえ、集落に入る道では猿の集団に遭遇しましたし、道路標識には“シカの飛び出し注意”なんてのもありました。
一之鳥居を抜けて、あまり水量のない犬上川に架けられた橋を渡ると、本殿へとつながる二之鳥居が見える。
山に挟まれた集落ということもあってツツドリの声が聞こえてくるが、当然ながら姿は見えない。
二之鳥居から石段を登っていくと、山を背にして鬱蒼と木々が茂る境内へと入る。
白山神社は「伊弉諾神」・白山権現などを祀っているとされ、一段高くなっている本殿のエリアの前にはスギの巨樹が2本、結界を張るようにして立っている。
やや右の方が太いとはいえ、同じような樹齢のスギが並ぶ姿は壮観です。
本殿の左側にある「御池堂」の前に並ぶ4本のスギも見事なものです。
「御池堂」には惟喬親王をお祀りしているとされますが、むしろ御池山を御神体として祀っている印象も受けます。
そして御池堂への石段の前には「惟喬親王行在伝承之地」と彫られた石碑が建ちます。
惟喬親王が隠棲していた地は、山城国の「小野」とされる説がありますが、鈴鹿山地にこれだけの伝承が残っていることを考えると、作られた伝承とも思えない。
祠の左側にあるスギは、巨石を抱いて合体樹となっています。
祠の右側、本殿の敷地にあるスギは2本が並んでおり、特に前方のスギはもっとも幹周がある巨樹です。
神社の前の橋から眺めた集落の風景。
山奥の静かな山村ですが、三重側から滋賀側から通り過ぎる車やツーリングのバイクの音が絶えません。
ただ、道路のおかげで林業や炭焼きで生計を立てていた集落が工業団地や市街地で働いて暮らしていけるようになったのですから、それはやむを得ないことなのかもしれません。
佐目の十二相神社と明智光秀伝説
大君ヶ畑から多賀へ戻る途中の「佐目」という集落には「十二相神社」があり、4本の巨樹スギと明智光秀出生地伝説がある集落です。
光秀出生地伝説とは、光秀の2~3代前の先祖が主君の土岐成頼に背いて美濃を離れ、多賀町佐目に移住し、この地で光秀が生まれたという伝説ですがはて真相は如何に。
「十二相神社」は、国之常立神(素戔嗚尊)を筆頭に天神七代・地神五代の12の神を祀るとされ、本殿の前には推定樹齢500年といわれる巨樹スギが林立します。
この神社は以前にも参拝したことがありますが、幹周5.1~6.3mの巨樹スギの迫力に圧倒された記憶があります。
石段の横にある4本のスギも見事ですが、本堂の裏山を見ても巨樹スギがあり、環境省のDBでは合計9本の巨樹が登録されています。
境内にあるスギでもっとも太いのは石段の右前方にあるスギでしょう。
このスギが幹周6.3m・樹高35m・推定樹齢300年とも500年ともいわれるスギですから、500年前に光秀がもし佐目にいたら、見たかもしれないスギですね。
佐目の集落では神社でも村内でも人の姿を見ることはありませんでしたが、境内には何かの神事の準備でしょうか、巨大な大太鼓が倉庫から出されてありました。
まさに巨樹を輪切りにしたようなそのサイズに驚きつつ、なんで外にだしてあったのか不思議です。
この大太鼓を叩いたらどんな音がするのでしょうね。おそらく佐目の集落内に響き渡るような大きな音がするのでしょう。
「明智光秀出生地伝説」は、集落に住む見津一族の口伝と江戸前期に書かれた「淡海温故録」という文献が元になっているといい、謎に包まれた光秀の前半生が伝承されているようです。
見津の姓は光秀の“ミツ”が由来となっているといい、“ミツ”と名乗るのはおこがましいから“ケンツ”と名乗っているのだといい、十兵衛を守った見津五人衆がいたとされます。
「明智十兵衛口伝の地 十兵衛屋敷跡」や展示小屋のある場所には、前回訪れた時になかったアニメっぽいキャラクターが置かれていました。
左から明智十兵衛光秀、見津五人衆(音七・貞次郎・新七・菊次郎・新六)多賀坊人/修験者、本願寺番方 佐目道場僧兵。
十二相神社前の屋敷跡から集落の中を歩いていくと「神さん池」と呼ばれる光秀が掘ったと伝承される井戸があります。
この池の水は、佐目では神事に用いられてきたといいますので、真偽がどうというのは関係ないと思います。
東近江市の奥永源寺の小椋谷に「君ヶ畑」集落があり、多賀の最奥の地に「大君ヶ畑」集落がある。
「大君ヶ畑」から多賀大社方向へ少し移動したところに「佐目」集落がありますが、奥永源寺にも「佐目」集落があったというのには驚きました。
かつては険しい山道を越えていかなければつながらないはずの2つの地域に何か深い関係があったのでしょうか。
尚、東近江市永源寺の「佐目」集落は、「萱尾」「九居瀬」集落とともに、永源寺ダムの水底に水没してしまったようです。
東近江市の小椋谷の最奥に「君ヶ畑」という集落がありますが、鈴鹿山脈の最高峰・御池山(標高1247m)の反対側にある多賀町には「大君ヶ畑」という集落があるといいます。
共に山を越えれば三重県いなべ市に通じる滋賀県最奥の集落であり、「惟喬親王伝説」由来の地とされています。
「惟喬親王」は、第五十五代文徳天皇の第一皇子として誕生されますが、右大臣・藤原良房の権勢により天皇にはなれず、都を逃れて小椋谷に隠棲して木地の技術を教えた方と伝わります。
その伝説により、小椋谷の蛭谷や君ヶ畑は木地師の里として全国の木地師の末裔から祀られているといいます。
惟喬親王の隠棲ルートは、滋賀報知新聞によると2ルートあり、一つは愛知川流域に沿って“近江八幡市→愛荘町→小椋谷→蛭谷・君ヶ畑”。
もう一つは、鈴鹿山麓沿いに“甲賀市土山→日野町→小椋谷”だとされますが、山の反対側の多賀町大君ヶ畑にも「惟喬親王伝説」の伝説が残っているという。
同じ字が町名となっていますが、東近江市は君ヶ畑(きみがはた)と読み、多賀町の大君ヶ畑(おじがはた)と読みます。
かつて北畑を呼ばれた大君ヶ畑は「惟喬親王伝説」により「皇子が畑」となったともいわれる。
大君ヶ畑には「惟喬親王」を祀るという「白山神社」があり、親王ゆかりの君ヶ畑と大君ヶ畑の両方を見てみたいと思い、大君ヶ畑集落を訪れました。
大君ヶ畑集落の真ん中には三重県いなべ市に通じる国道306号線が通っているため、山奥の山村という雰囲気はあまりなく、国道沿いにある山村といった印象の方が強い。
とはいえ、集落に入る道では猿の集団に遭遇しましたし、道路標識には“シカの飛び出し注意”なんてのもありました。
一之鳥居を抜けて、あまり水量のない犬上川に架けられた橋を渡ると、本殿へとつながる二之鳥居が見える。
山に挟まれた集落ということもあってツツドリの声が聞こえてくるが、当然ながら姿は見えない。
二之鳥居から石段を登っていくと、山を背にして鬱蒼と木々が茂る境内へと入る。
白山神社は「伊弉諾神」・白山権現などを祀っているとされ、一段高くなっている本殿のエリアの前にはスギの巨樹が2本、結界を張るようにして立っている。
やや右の方が太いとはいえ、同じような樹齢のスギが並ぶ姿は壮観です。
本殿の左側にある「御池堂」の前に並ぶ4本のスギも見事なものです。
「御池堂」には惟喬親王をお祀りしているとされますが、むしろ御池山を御神体として祀っている印象も受けます。
そして御池堂への石段の前には「惟喬親王行在伝承之地」と彫られた石碑が建ちます。
惟喬親王が隠棲していた地は、山城国の「小野」とされる説がありますが、鈴鹿山地にこれだけの伝承が残っていることを考えると、作られた伝承とも思えない。
祠の左側にあるスギは、巨石を抱いて合体樹となっています。
祠の右側、本殿の敷地にあるスギは2本が並んでおり、特に前方のスギはもっとも幹周がある巨樹です。
神社の前の橋から眺めた集落の風景。
山奥の静かな山村ですが、三重側から滋賀側から通り過ぎる車やツーリングのバイクの音が絶えません。
ただ、道路のおかげで林業や炭焼きで生計を立てていた集落が工業団地や市街地で働いて暮らしていけるようになったのですから、それはやむを得ないことなのかもしれません。
佐目の十二相神社と明智光秀伝説
大君ヶ畑から多賀へ戻る途中の「佐目」という集落には「十二相神社」があり、4本の巨樹スギと明智光秀出生地伝説がある集落です。
光秀出生地伝説とは、光秀の2~3代前の先祖が主君の土岐成頼に背いて美濃を離れ、多賀町佐目に移住し、この地で光秀が生まれたという伝説ですがはて真相は如何に。
「十二相神社」は、国之常立神(素戔嗚尊)を筆頭に天神七代・地神五代の12の神を祀るとされ、本殿の前には推定樹齢500年といわれる巨樹スギが林立します。
この神社は以前にも参拝したことがありますが、幹周5.1~6.3mの巨樹スギの迫力に圧倒された記憶があります。
石段の横にある4本のスギも見事ですが、本堂の裏山を見ても巨樹スギがあり、環境省のDBでは合計9本の巨樹が登録されています。
境内にあるスギでもっとも太いのは石段の右前方にあるスギでしょう。
このスギが幹周6.3m・樹高35m・推定樹齢300年とも500年ともいわれるスギですから、500年前に光秀がもし佐目にいたら、見たかもしれないスギですね。
佐目の集落では神社でも村内でも人の姿を見ることはありませんでしたが、境内には何かの神事の準備でしょうか、巨大な大太鼓が倉庫から出されてありました。
まさに巨樹を輪切りにしたようなそのサイズに驚きつつ、なんで外にだしてあったのか不思議です。
この大太鼓を叩いたらどんな音がするのでしょうね。おそらく佐目の集落内に響き渡るような大きな音がするのでしょう。
「明智光秀出生地伝説」は、集落に住む見津一族の口伝と江戸前期に書かれた「淡海温故録」という文献が元になっているといい、謎に包まれた光秀の前半生が伝承されているようです。
見津の姓は光秀の“ミツ”が由来となっているといい、“ミツ”と名乗るのはおこがましいから“ケンツ”と名乗っているのだといい、十兵衛を守った見津五人衆がいたとされます。
「明智十兵衛口伝の地 十兵衛屋敷跡」や展示小屋のある場所には、前回訪れた時になかったアニメっぽいキャラクターが置かれていました。
左から明智十兵衛光秀、見津五人衆(音七・貞次郎・新七・菊次郎・新六)多賀坊人/修験者、本願寺番方 佐目道場僧兵。
十二相神社前の屋敷跡から集落の中を歩いていくと「神さん池」と呼ばれる光秀が掘ったと伝承される井戸があります。
この池の水は、佐目では神事に用いられてきたといいますので、真偽がどうというのは関係ないと思います。
東近江市の奥永源寺の小椋谷に「君ヶ畑」集落があり、多賀の最奥の地に「大君ヶ畑」集落がある。
「大君ヶ畑」から多賀大社方向へ少し移動したところに「佐目」集落がありますが、奥永源寺にも「佐目」集落があったというのには驚きました。
かつては険しい山道を越えていかなければつながらないはずの2つの地域に何か深い関係があったのでしょうか。
尚、東近江市永源寺の「佐目」集落は、「萱尾」「九居瀬」集落とともに、永源寺ダムの水底に水没してしまったようです。
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