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淳仁天皇と「菅浦の湖岸集落」~長浜市西浅井町菅浦~

2021-06-02 09:09:09 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 奈良時代、第47代天皇・淳仁天皇は「淡路廃帝」とも称され、重用した藤原仲麻呂(恵美押勝)の道鏡排斥が失敗に終わり廃位されて淡路に流されたとされる方です。
「淳仁」の諡号が贈られたのは明治3年(1870年)のことだといいますから、長らく天皇として認められなかった不遇の天皇といえます。

長浜市西浅井町菅浦には「淳仁天皇の隠棲伝説」があり、淳仁天皇を御祭神として祀る「須賀神社」や菩提寺とされる「長福寺跡」、淳仁天皇の墓と伝えられる「船形御陵」があるとされます。
伝説では“淳仁天皇の配流地は淡路島とされるが、淡海の菅浦に流された。”とされている。



「菅浦の湖岸集落景観」は、日本遺産「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」の構成要素になっており、暮らし・祈り・食をテーマにした「水の文化」のひとつとなっています。
菅浦集落は、奥琵琶湖の急峻な山の縁にある集落で、道路が出来るまでは陸の孤島と呼べるような場所だったようですが、湖上交通の重要な港として栄えた集落だとされます。

菅浦集落は中世の共同組織「惣村」として栄えたといい、今も“跡取り以外は村には住まない”“村の決めごとは「長老衆」による”などのしきたりが守られているとされています。
そこには長い間、陸上交通が発達していなかったことがありそうですが、しっかりとした道路が開通したのは1960年代といいますから、通学や通勤は山越えだったのでしょう。



集落へ入ると見えてくるのは大きな銀杏の樹。
この銀杏の樹は長浜市の保存樹指定樹木となっており、幹周は3.3m・樹高は30mあると書かれています。

山に面した細長い集落の東と西の端には「四足門」と呼ばれる門があり、集落の領域と外界を明確に区切っています。
「四足門」は、別称「四方門」とも呼ばれ、かつては集落の四方に建てられて村に入ってくる外来者の監視をしていたとされます。



集落に祀られる「須賀神社」は、かつて「保良神社」と呼ばれ、淳仁天皇が隠棲したとされる「保良宮」造営された地と伝わります。
「保良宮」があった場所は、滋賀県内の複数の場所が上げられていますが、大津市の瀬田川右岸が有力とされているようです。
ただし、菅浦に淳仁天皇が隠棲したという伝説は、琵琶湖の湖上交通を考えれば充分にありうることで、船形御陵が残されていることも琵琶湖を渡ってきたという意味で理解が出来そうです。



須賀神社の鳥居を抜けて、長く緩やかな参道にはケヤキの巨樹が神社の結界のように立ちます。
このケヤキは環境省の「巨樹・巨木林データベース」によると、幹周が4.76m・樹高25m・推定樹齢300年以上とあるが、若々しい印象を受ける巨樹です。





参道を登り、二之鳥居から下を見渡すと奥琵琶湖らしい穏やかな水面が見えます。
石山にあったとされる「保良宮」にいた淳仁天皇が、舟で菅浦の離宮にやってきて滞在するには最適な場所だったのかもしれません。



参道を登り切ると本殿へと続く石段があり、
ここから先は神聖な場所ゆえに土足厳禁。ホラ貝の手水で身を清めてから石段を登ります。
本来裸足で参拝すべきですが、容易されていたスリッパをお借りして参拝致しました。





拝殿・本殿は簡素な造りとなっており、淳仁天皇・大山咋神・大山祇神を御祭神として祀ります。
境内社には「神明社」に天照大神・豊受大神・白山大神・愛宕大神、「天満宮社」に天満大神・八幡大神・大国大神・蛭子大神を祀る。



本殿の後方に石積があり、土の盛り上がっており、船形御陵かと思いましたが、スリッパでは身動きできず、ましてや聖域で不作法なことはできませんので、船形がどうなっているかはよく分からなかった。
参拝して石段を降りていくと、厳粛な神社の雰囲気から集落の生活感のあふれる里へ戻ることになります。



「須賀神社」は西の外れにありますので、湖岸側の道を歩きながら東の端まで歩いてみます。
驚くのは「かくれ里」のような集落なのにも関わらず、地元の方の生活感の溢れていることでしょうか。
家の前の小さな畑の世話をされている方や走り回る子供の姿があったのには意外な感じさえしました。



集落には路地のような細い道の脇に石垣が数多く残されており、これは琵琶湖の大波から家屋を守るための防波堤と、傾斜地の多いこの地にあって平坦地を造るために石垣があるのだといいます。
日当たりの良い道を歩いていると、何とも穏やかな気持ちになるような集落です。



東西に延びる集落もあっという間に東の端にある「東の四足門」まで到着してしまいます。
その先に行けそうな道がありましたので少し歩いてみたものの、湖岸が続くばかり。

湖岸の遥か先には琵琶湖に突き出したような葛籠尾崎になり、竹生島にもっとも近い場所になります。
淳仁天皇の伝説では、菅浦の人々が天皇の亡骸を「葛籠」に入れ、舟で保良宮に運んだとされ、辿り着いた場所を「葛籠尾崎」と呼んだといいます。



東からの帰り道は集落側の道を通りましたが、この世帯数にして複数の寺院・社があったのは意外に思いました。
「金毘羅社」は民家の間から石段を登ることになる。



「浅井長政由緒寺」の石碑が建つ安相寺は、1573年の小谷城落城時に長政の次男「万菊丸」が菅浦に逃れたという伝説があるようです。
「万菊丸」は信長の死後、出家して福田寺(米原市)の住職となったと伝えられています。



1353年に草創されたという「阿弥陀寺」は中世からの時宗寺院だとされ、本堂は菅浦の惣寺としての役割があったといいます。
本尊には行快作の「阿弥陀如来立像」。「木造聖観音坐像」と「阿弥陀如来坐像二軆」はもとは長福寺の仏だったとされます。



その「長福寺」は、淳仁天皇の菩提寺だったとされ、今は「淳仁天皇菩提寺菅浦山長福寺跡」の石碑と石塔が残るばかり。
ここまで淳仁天皇を手厚く祀るには、やはり菅浦と淳仁天皇(もしくはゆかりの人々)との関係はかなり深かったと考えるのが当然なのかと思います。



奥琵琶湖の穏やかで澄み切った湖面。
湖面に浮かんでいる板は、「ウマ」と呼ばれる共同の洗い場だそうです。



菅浦の集落で他に目に付いたのは何軒もあるヤンマーの作業場でしょうか。
ヤンマーの創業者の山岡孫吉は、長浜市高月町東阿辻に生まれ、湖北の農村に工業による振興をもたらした方です。
交通の便に閉ざされていた菅浦に作業場を作り、通勤することなく仕事が出来るのは、今のテレワークにおけるサテライトオフィスのようなものと言えそうですね。



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