上平良地区に残されている講中倉庫で1画像は二重原講中、2画像は吉野講中、3画像は則貞講中、4画像は谷峰講中の倉庫である。河野原講中、森下講中の倉庫はプレハブ物置であり割愛した。
何れの講中倉庫も現在ほとんど使用されてないようであり、大原講中のように取壊されていくのかも知れない。
大原講中の葬儀に使用していたシカバナ台で上画像のものは平成14年まで使用していたもので、中画像のものは同年に当ブログ主が制作したもので何れも1対のものである。
シカバナは諸口(障子紙)の半分を二つに折って横に細かく切れ目を入れ竹竿に巻付けたものを4本シカバナ台に差し込こんだもので、次年度の当番に当る人達が制作していた。
大原講中で毎月の御講寄、年末の御法事や、葬儀の際の箱膳に並べられた椀の状態である。
オヤワンは御飯、シルワンは味噌汁、オヒラはハッスン(人参、油アゲ、牛蒡、レンコン、椎茸などの煮物)、後にタイコ饅頭、パンに変わっており、オツボはクロメ、後にスズガシに変わっている。中央部分のナカジョコは白アエであるが椀の蓋を使用したものか皿であったのかは不明である。
大原講中で毎月の御講寄、年末の御法事や、葬儀の際に使用されていた食事用箱膳と椀セットの40客分で明治37年(1904)3月に調製されたものである。
昭和59年(1984)頃まで使用していたが時代の変革により使用されなくなり、平成14年に処分されたものを保管しているものである。
上平良地区の地域的な信仰互助集団である「大原講中」の什器類が保管されていた講中倉庫であるがこのほど取壊された。
昔は毎月当番の家でお寺さんを招いての御講寄、年末の御法事や、葬儀の際の食事用配膳什器や炊事用具、葬儀用具などを保管していたが、時代の変革により使用されなくなってきたので什器類の処分倉庫取壊しとなった。
鰐淵寺に行く途中十六島(うっぷるい)湾の向う側十六島地区の山々に風力発電用風車がずらりと林立していた。
HPによると風力発電用風車が二十六基あり全国最大規模のようで周辺は十六島風車公園として整備されているようである。
鰐淵寺へ行く途中に韓竈神社と表示してあったので探訪してみた。出雲風土記(733年)に韓銍社とあり、当市の速谷神社、伊都伎島神社も記されている延喜式神名帳(927年)に韓竈神社と記されて古い由緒を持つ神社のようである。
急勾配の長い石段を登って巨岩の細い割れ目を通り抜けて参詣するのであるが、肥満の人は参詣が難しいような難所である。
出雲大社の別当寺であった鰐淵寺へは30数年ぶり二度目の参詣であるが、浮浪滝と蔵王堂は今回初めての探訪だった。
現在、浮浪滝は水量が少なく画像では良く見えない。滝の後方の垂直に切り立った絶壁の窪みに建てられた蔵王堂は三徳山三仏寺の国宝投入堂を思わすような建物である。
出雲地方の探訪をしたので種切れを補うために紹介します。平成22年9月、60年に一度の修造である出雲大社本殿の大屋根桧皮葺の解体作業中を間近に拝観した。
古代出雲歴史博物館に行った便に出雲大社に参詣、現在本殿の修造は終わっているようであるが周辺部分が来年5月の大遷宮に向けて修造されているようである。
JR山陽本線の廿日市駅西側に砂走第3踏切があるが、現在は第1、第2踏切は見当たらない。
かつて廿日市駅のホームすぐの東側と西側に踏切があり、これらが第1、第2踏切であったものとみられる。これらの踏切の痕跡は昭和22年(1947)国土地理院の米軍撮影空中写真にみることができる。
天神山の正覚院鐘楼に吊り下げられている梵鐘で天明6年(1786)8月に廿日市の鋳物師である山田貞運が鋳造したものである。
常国寺の墓碑によると山田貞運は文政7年(1824)に没しているが、その他の鋳造活動については明らかでない。
上平良末森地区に残されている元水車小屋であるが現在水車は取り除かれて物置として使用されている。
資料によると旧宮内村では明治44年(1911)ころ水車場が8ケ所と僧都が9ケ所あった。また、旧平良村で大正15年(1926)ころ水車が10数ケ所あり精米や製粉に使用されていたようである。
広電廿日市駅の上り線側高床ホームが撤去され、以前よりホームが東側に延びるようで基礎の工事が行なわれている。
下り線側も従来のホームより東側に伸びたところにホームの新設工事が行なわれていた。木造駅舎はまだ従来通りに使用されている。
現在、はつかいち美術ギャラリーに於いて第8回の「原たくみの会作品展」が開催されている。
繊細な宮島彫、斬新でユニークなデザインの木工ろくろ、花器中心の陶芸、市域の風景主体の油絵などが展示されており2日まで開催されている。