原地区をウォーキングしている途中にみられる2ケ所の民家土蔵の蔵飾りで旭日と長寿の象徴である霊亀が表されているが、中画像のものは波文が略されているようである。下画像も同じような題材のもので安芸太田町筒賀地区でみられたものである。
原地区をウォーキングしている途中にみられる2ケ所の民家土蔵の蔵飾りで旭日と長寿の象徴である霊亀が表されているが、中画像のものは波文が略されているようである。下画像も同じような題材のもので安芸太田町筒賀地区でみられたものである。
地御前神社拝殿脇にある石造の手洗鉢は宝暦6年(1756)に材木入札場所役人中が寄進したもので、拝殿内には材木入札場出役人が寄進した絵馬が掲げられている。宝暦期に焼失した地御前神社の再建のために材木入札の名目で富くじが開かれていた当時のもののようで、掲額されている絵馬には材木入札会所の様子が描かれている。
地御前神社の拝殿横に建立されている旧地御前村の戦役記念碑で大正2年(1913)11月に建立されている。西南役、明治27・28年戦役(日清戦争)、明治32年北清事変、明治33年清国事変、明治37・38年戦役(日露戦争)などの従軍者、戦死者、病死者などの名前が刻されている。
昨日、原地区の山は雪で白くなっており標高604m峰の頂上近くにある名号岩をかすかに見ることができた。(赤丸)江戸期の地誌には名勝としてしやくせう松にある白岩は遠方よりも見えることが記されておりこの名号岩が白岩とみられる。昭和31年(1956)に地元の信仰心の深い人が南無阿弥陀仏と刻されてから名号岩と言われるようになった。(下画像は平成27年12月12日撮影)
地御前神社前の広電宮島線にホーム跡がみられ、これは地御前海岸臨時駅の跡でこの前面の海岸はかつて海水浴場であった。昭和33年(1958)夏には広島~宮島間に海水浴直通電車が運転されていたようであり地御前海岸臨時駅にも停車していたものと思われ、管弦祭の日も臨時停車していたようである。下画像では高床ホームのようであり現状は低床ホームになっているので、高床車両の時代から低床車両の時代になってもこの臨時駅は使用されていたのであろうか。(下画像-広島の路面電車65年より)
戌(犬)年に因んで-福犬が紐の付いた福袋を引っ張っている姿が漆喰細工で施されている蔵飾りで、上画像は原地区の民家土蔵にみられ、下画像は佐伯地区の民家土蔵にみられたものである。
地御前神社から広電宮島線沿いに南側に向かって行くと市道と線路との間の民有地に瓦の残骸が沢山みられる。ここではかつて瓦製造が行われていたところであり、作業場から窯焼きの煙がでていたのをかすかに記憶している。地御前では江戸期に予州(愛媛県)川之江村から瓦師が来住して瓦の生産を始めており、これが継続していたのかは定かでない。
原地区をウォーキングしていると見たことがない藁囲いがずらりと並んでおり、中を見ると寒気から鞘豆とえんどう豆の苗を守るためのもののようである。画像では花などを寒気から守るために藁囲いがしてあるのを見たことがあるが・・・
新春を迎えた昨日、上平良地区で伝承されている氏神祭の俵もみ歌を保存継承活動している木遣り保存会の人達により、神前に参拝の後木遣り奉納が行なわれた。
♪ イヤー 天神七代 神々五代 おさまる民代こそ 目出たけれ 神代の昔をたづぬれば いざなぎ いざなみの 御神 天より天下らせ さかほこおろさせ たまへつつ ヨイ ♪
♪ イヤー さかほこおろさせ たまへつつ 其のひとしずくが 島となり 島の始めが淡路島 国の始めが大和の国 こうりの始めがうざごおり 寺の始めが立花寺 国もじょうじゅうしたならば 今だ人間広まらず さあらば氏子を広めんと お伊勢皇太神宮 白針装束花やかに ヨイ ♪ ・・・・・ ♪
地御前神社境内に建立されている国道開鑿碑で、江戸期の西国街道に代わって明治13年(1880)に海岸線に沿って国道が新設されており、この開鑿碑は明治20年(1887)に建立されている。碑の上部に有栖川親王による篆書「地平天成」が刻されており、元号「平成」の出典の一部であり当時注目されていた。しかし、2019年5月1日に改元されるので平成の時代もあとわずかである。
地御前神社南側にあるJR山陽本線の田屋架道橋で下り線側の橋脚は石積みであり明治30年(1897)に山陽鉄道の広島徳山間の開通した当時のものとみられる。開通した当時のものとみられる橋脚やトンネルなどの多くは上り線側にみられるのであるが、昭和3年(1928)の廿日市宮島間の複線化工事では地御前神社があるので神社側より反対側に拡幅されたようである。
昨日、厳島神社下宮である地御前神社に初参りをしたが通りすがりの人が参詣するだけで閑散としていた。当神社大宮本殿、客人本殿すぐ裏手にJR山陽本線が走っているので本殿裏手すぐにJR用地境界線があるものとみられる。ところが境内地の神木とみられるような大楠木の前にJR用地杭が設置してあるのでJR用地内の樹木のようである。
廿日市参道の30丁碑手前に石積みがみられる平壇がありこの場所は幕末期の砲台跡であると先人から聞いたことがあり、以前紹介した通称茶臼岩山の幕末期砲台跡と同時期のものとみられる。大正期の地誌などに極楽寺山の南方頂に近き所に広島藩が砲台を設けたことが記されており、陣小屋場、篝焚小屋などがあったようで何と木炮が配備されていたようである。
昨日の午前中は速谷神社の延命祭に参詣し、おせち料理で腹ごしらえをして極楽寺山へ初登山をした。上平良参道口にある河野原大歳神社に初参りをして上平良参道から廿日市参道を登って極楽寺に初参りをした。下山は廿日市参道から原参道を下り原地区にある伊勢神社へ初参りして帰宅した。
元日の早朝には速谷神社へ初参りを済ませたので、おせち料理で腹ごしらえをして例年のように西蓮寺、長い石段のある二重原八幡神社へと三社寺の初参りをし、孫達が廿日市駅へ到着する前に駅北の洞雲寺に初参りをした。