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私は昨年3月末に約40年間のサラリーマン生活を切り上げて退職した。かつかつ暮らしていける年金と、たかが知れているが一応の貯えがあり、子供も社会人になったので、今後は、少なくとも当面は、一切働かないことにした。何か集中的にやりたいことが特にあるわけでもない。目標をたて、いかに効率的に達成するかという生活を全否定して、自堕落に過ごしてみることにした。いつ飽きるかと思ったが、約1年半順調(?)に経過して飽きることがない。
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私は、子どもの頃、神経質であったが、いつの頃からか、考えすぎないで、のんびり過ごすように生活を変えた。以後、受験も含め何かを必死でやった記憶はない。一生懸命という言葉が嫌いで、常に8分の力で過ごせるように目標を8割に下げて、何かあっても「まあ、いいじゃないか」とストレスを避けて暮らしてきた。人並み以上のものは持ち合わせていなかったが、それでも一応は、日々の生活でも仕事でも何かやるときには、わずかでも自分自身の蓄えになるように長期的に考えてやり方だけは工夫してきた。結果的に、家族、周囲の人に恵まれたせいもあり、人並みの暮らしをして来たし、今後も贅沢はできないが、健康なら、つつましい暮らしはできるだろう。
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80歳まで生きるとして、あと20年たらず。健康維持だけは常に心配りと努力をしないといけないが、今後はそれ以外の長期目標を持たないことにした。せつな的と言うと強すぎるが、現在を心地よく、自己中心的に過ごすことだけを考える。主婦業を早期定年だと主張する連れ合いのお手伝いで日常生活の雑事のほかは、気が向いたときに読書、海外生活(ロングステイ)、美術鑑賞、インターネットでの情報収集など好きなことをやる生活を現在は続けている。
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納税など最小限の義務は当然果たすが、少なくとも当面は仕事やボランティアによる社会貢献は考えないでしばらく過ごしてみたい。個人的な人との係わりは当然あるとして、問題は社会との係わりをどう持つかということである。心身ともに大幅な衰えはまだない段階で、このまま社会的に見れば何もしない隠居生活を20年近く続けていて、社会の一員として自分自身が過ごせるものかどうかが良くわからない。
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子どもは、その可愛らしさ以外には直接的に社会貢献していないが、将来への期待感が大きいのがものを言って、社会の大切な一員として認めれれている。一方、年寄りは、無理して知恵だの何だのと言うが、はっきり言って人数がバランス上、多すぎることもあり、今後もますます社会の負担になっていく。しかしながら、社会の一員であることは間違いなく、年寄りが悲惨な状況にあれば、いずれはそうなる壮年の人のやる気をそぐことになる。私も元気な先輩には勇気をもらってきたし、今ももらっている。
少なくとも年寄りは、無理してでも楽しく、可能か限り身ぎれいにして過ごし、あるいは過ごしているように見えるよう努力すべきなのだろう。この最低限の年寄りの社会貢献だけは少なくとも果たしていくつもりである。
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元気の出ない話になってしまったので、最後にどこかで読んだジョークをひとつ。
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変らないですねと言われて
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退職して数年、昔の職場のメンバに会った。
「先輩、変らないですね」と言われて、
若いということと思って、ニコニコしていると、
「いや、なつかしいな!その背広、そのネクタイ」
と言われてしまった。