昨年1月21日にオープンした新国立美術館は、行列に1時間並んだなどの話を聞いて、「しばらくは」といって1年ほど、様子を見ていた。
奥様が、「200円高いけど、待たないで入れる時間指定チケットがあるし、大観の「無我」が2月11日までの展示で、「屈原」に展示替えしてしまう」とのひとり言、実質ご下命で、あわててインターネットでチケット購入して、翌日、新国立美術館の横山大観展へ出かけた。
しかし、待ち時間0で、そのまま入場できて、200円の丸損。当日は週日でしかも雪がぱらつく天気だったせいで、いつもはいまだ長い行列と信じたいが、どうもそうでもなさそうだ。
新国立美術館は昨年10月に亡くなった黒川紀章氏設計による建物で、波打つガラスの外壁が、上下にも丸みを帯びていて、さすがに建築費が高そうな黒川さんの設計だ。
六本木から歩いて来ると正面入口に入ることになり、千代田線乃木坂駅から上に登り、そのまま屋根の下を歩けば雨に濡れないで西入口に入れる。
中に入ると、片側が広い展示室3ブロックで、
反対側は天井までガラスの窓でカフェとスペースになっている。
食事もできるカフェは地下と2階にあり、上にいくほど高価になる。さらに、3階に上がれば本格的レストランがあるが、さらに値段も上がる。40年以上ミシュランの三ツ星を獲得し続けているポール・ボキューズ氏が初めてフランス・リヨン以外に出店した「ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ」とある。ミシュラン東京ではどうなっているのだろうか?
もちろん私たちの昼飯は地下で、3階には近づいてもいない。
入口を入ると、まず「無我」。奥様も私めも、大観作品の中で一番のお気に入り。小さな子がぶかぶかの着物を着てただ立っているだけの絵だが、孤独な無心の境地が表れているような気がする。
以下ズラズラと大観作品が並ぶ。各地の美術館、企業からよく集めたものだ。さすが常設作品を持たず企画展、公募展専門の新国立美術館だ。人寄せの名品を一点豪華主義で持つ地方の美術館も、リピータが少ないので経営が苦しいのだろう。最近は企画展が増加して、他の美術館から絵画を借りる金額が高騰しているとの記事を読んだことがある。
とくに呼び物は、全長40mの巻物、「生々流転」。広さを誇る新国立美術館でないとできない技だ。ただし、観客が巻物に沿ってゆっくり進んでいくので、途中誰かがじっと眺めると、列全体が止まってしまう。
大きな屏風絵の「夜桜」と「紅葉」もあでやかだ。「秋色」が尾形光琳の屏風と比較して並べてあったが、影響されていると言われれば、そうかなと思う。キュレーターの人も何か主張しないといけないのでご苦労さんと言った感じ。
日本画の特長ともいえる線を消してしまった朦朧体(もうろうたい)も好きだ。「雨霽る(あめはる)」は、雨の後で、霧が晴れてゆく山山と、彼方にかすかに顔をだす富士が神々しい。
大観といえば、私が子供のころ、飯は食べずに酒だけ飲んでいる怪物との印象があった。その大観が没後50年とは!
大観は、絵がずば抜けて上手いとはいえないと思う。しかし、コンセプト、構成力が優れていて、エネルギッシュでたくましい日本人離れした巨人だ。
別会場で開催していた公募展の「新槐樹社展」もざっと見たが、最近の作家には女性が多いと改めて思った。
2階で「第11回 文化庁メディア芸術祭11th Japan Media Arts Festival 」を開催していた。
協賛展の「先端技術ショーケース’08」では新しいコミュニケーションを可能にするという触れ込みの展示が行われていた。
一次盛んだったMITのメディアラボのような、本質でなく見せ方だけに工夫を凝らす、単に目新しさを競うフェイクのような気がしてこの種のものはのめりこむ気にはなれない。かつて、モナリザにウインクさせて学会を喝采させた原島博東大教授が研究総括だそうだが、硬直した私の頭では、この種のものは、才能の無駄使いだと思うのだが。
芸術祭の受賞作品紹介では、アート部門のほかに、エンターテイメント部門で「Wii Sports」が受賞し、アニメーション部門やマンガ部門が大きなスペースを占めていたし、フィギュアーも多かった。
大観のたくましさは見る影もない。時代は変わった。いや、新しい形のたくましさと思わねば。