二俣川駅から徒歩15分ほどのところにある「こども自然公園」(通称 大池公園)に行った。前回の公園の紹介に続き、今回は、東戸塚へ向かう道を越えたところにあり、あまり知られていない草地広場と、二俣川駅から公園への道沿いをご紹介。
入口を入って右手の桜山をのぼり、ふれあい樹林を過ぎたところで戸塚カントリー倶楽部への道路をまたぐ「ふれあい桜橋」を渡る。橋を渡り、板敷きの歩道を行くと林に入る。

急に奥深い森に入った雰囲気になる。草木が道に覆いかぶさり、人気が少ないので夜はとても歩けないだろう。
この林を抜けると、畑に突き当たる。横に行くと、まさに草地公園といった広い芝生の広場にでる。ベンチ以外ないが、小川も流れ、土日でも人気も少ないのでのんびりとした気分になれる。


以下、二俣川駅から公園への道沿いをご紹介。
二俣川駅から南口へ出て坂道を登って行く。このまま坂を下りると公園へ着く。ここでは、登りきったところの交差点を右に曲がる。100mほど行くと、明治25年に地元有志により建立された畠山重忠公遺烈碑がある。

畠山重忠は鎌倉幕府創業の功臣であり、武勇に優れ、清廉潔白で「坂東武士の鑑」と言われた。しかし、頼朝亡き後、初代執権北条時政によって謀反の疑いをかけられ、一族とともに滅ぼされた。
重忠は「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の命を受けて130騎ほどを率いて埼玉県比企の舘から鎌倉に向かった。父時政の命により、北条義時は3万騎を率いて武蔵国二俣川に陣をひいた。これが当地、「万騎ヶ原」の起源となった。重忠は二俣川から鶴ヶ峰にわたる戦場で奮戦し、討死にした。時は1205年、享年42歳だった。
その後、人望のあった重忠を殺したことで、時政は御家人たちの憎しみを受け、やがて子どもで二代執権となる義時により出家させられ、伊豆国へ追放された。
鶴ヶ峰にある旭区役所近辺には、畠山重忠を偲ぶ史跡がいくつかある。
以下、畠山重忠公遺烈碑からこども公園へ至る途中の人家に咲いていた花をご紹介。








入口を入って右手の桜山をのぼり、ふれあい樹林を過ぎたところで戸塚カントリー倶楽部への道路をまたぐ「ふれあい桜橋」を渡る。橋を渡り、板敷きの歩道を行くと林に入る。


急に奥深い森に入った雰囲気になる。草木が道に覆いかぶさり、人気が少ないので夜はとても歩けないだろう。
この林を抜けると、畑に突き当たる。横に行くと、まさに草地公園といった広い芝生の広場にでる。ベンチ以外ないが、小川も流れ、土日でも人気も少ないのでのんびりとした気分になれる。


以下、二俣川駅から公園への道沿いをご紹介。
二俣川駅から南口へ出て坂道を登って行く。このまま坂を下りると公園へ着く。ここでは、登りきったところの交差点を右に曲がる。100mほど行くと、明治25年に地元有志により建立された畠山重忠公遺烈碑がある。

畠山重忠は鎌倉幕府創業の功臣であり、武勇に優れ、清廉潔白で「坂東武士の鑑」と言われた。しかし、頼朝亡き後、初代執権北条時政によって謀反の疑いをかけられ、一族とともに滅ぼされた。
重忠は「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の命を受けて130騎ほどを率いて埼玉県比企の舘から鎌倉に向かった。父時政の命により、北条義時は3万騎を率いて武蔵国二俣川に陣をひいた。これが当地、「万騎ヶ原」の起源となった。重忠は二俣川から鶴ヶ峰にわたる戦場で奮戦し、討死にした。時は1205年、享年42歳だった。
その後、人望のあった重忠を殺したことで、時政は御家人たちの憎しみを受け、やがて子どもで二代執権となる義時により出家させられ、伊豆国へ追放された。
鶴ヶ峰にある旭区役所近辺には、畠山重忠を偲ぶ史跡がいくつかある。
以下、畠山重忠公遺烈碑からこども公園へ至る途中の人家に咲いていた花をご紹介。







