hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

嵯峨野の天竜寺へ

2007年12月05日 | 観光

京都・嵯峨野の渡月橋、天竜寺、祇王寺に紅葉狩りに行った。

阪急嵐山で降りて、渡月橋を渡る。渡月橋は、亀山上皇が橋の上を移っていく月を見て言った「くまなき月の渡るに似たり」から名づけられた。



渡月橋の下流は桂川と呼ばれ、上流は大堰川あるいは保津川と呼ばれる。山の紅葉が川面に写っていた。



棹と、櫓(ろ)あるいは櫂(かい)を操って上流から和船がやって来た。渡月橋は保津川くだりの終点だ。堰(せき)に打ち込んだ杭の一本一本に鳥がとまっている。



橋を渡ったところにある紅葉に人だかりがしていた。みんな、ああでもない、こうでもないとアングルを変えて、デジカメを構えている。すっかり芸術家気取りだ。そこで、私も一枚。



リニューアル中の京都嵐山美空ひばり館を左に見て、さらに進み、左折して数分歩くと天龍寺だ。



天龍寺は、足利尊氏が夢窓国師の勧めもあり、吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うために亀山離宮を禅寺に改めて創建した寺だ。方丈の裏手の曹源池庭園は夢窓疎石によるもので、砂と松、岩石を組み渓谷を表現している。世界文化遺産に登録されている。





庭園拝観コースを歩くと、色とりどりの紅葉だらけ、どこもかしこもカメラマンだらけ。



昼時になったので、天龍寺内の精進料理の店、篩月(しげつ)に入った。



12時前だというのに数ある部屋がほぼ満席だった。緋毛氈(ひもうせん)の上に久しぶりに正座した。



頼んだ料理は、雪、月、花とあるうち、当然いちばん安い一汁五菜の雪、3千円なり。美味と言えるし、食事は雰囲気も大切だ。



パンフレットに修行僧の食事メニューが出ていたのでご紹介。
朝飯:おかゆ、梅干と沢庵漬
昼飯:麦飯、味噌汁、沢庵漬と、お浸し
夕食:朝・昼食の残りのぞうすい、汁と沢庵漬
これでは、とても耐えられません。


この後、奥嵯峨野の常寂光寺、祇王寺に行ったが、長くなったので次回。


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飛鳥の談山神社へ

2007年12月04日 | 観光
奈良県の桜井市の多武峰山中にある藤原鎌足を祭る神社、談山(たんざん)神社に行った。

歴史
蘇我蝦夷と入鹿親子が権勢を誇っていたとき、中臣鎌子(後の藤原鎌足)と中大兄皇子(後の天智天皇)が飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)の蹴鞠会(けまりえ)で出会った。
645年5月、鎌足と中大兄皇子が、この多武峰に登り、藤の花の下で大化改新の構想を語り合い、646年の大化の改新となった。

これにちなんで、この地は談山(かたらいやま)と呼ばれ、談山神社の社号の起こりとなった。
鎌足の長男の定慧和尚は、多武峰に父の墓を移し、十三重塔を建立した。
平安時代に天台僧・増賀を迎えたことから、宗派の違う興福寺と仲が悪くなり、たびたび、興福寺衆徒に襲われ、建物を焼かれた。
明治の廃仏毀釈の際に、寺院建築をそのまま使用したまま、寺を廃し神社となった。

現在では、桜や紅葉と、十三重塔が有名だ。



十三重塔(室町時代、重要文化財)
藤原鎌足の長男・定慧によって西暦678年に建立された。現存の塔は1532年の再建。木造十三重塔は、世界唯一。高さは約 17 m で、屋根は伝統的な檜皮葺き(ひわだぶき)。

桧皮葺は30年に一度、葺き変える必要があるが、ヒノキの皮が手に入りにくい上に、職人の数が限られていてなかなか仕事してもらえないそうだ。




拝殿(室町時代、重要文化財)
朱塗で舞台造の拝殿から見た紅葉はあざやかだった。中央の天井は伽羅の香木で作られている。




本殿(江戸時代、重要文化財)
藤原鎌足公をお祀りする本殿は、極彩色の模様や、花鳥などの彫刻によって装飾されていて、日光東照宮造営の際のお手本となった。



境内いたるところ、鮮やかな紅葉で、黄色、朱色、真紅とモザイク模様。一本の木で赤から黄色にグラデーション(濃淡のぼかし)している木もある。



十分堪能して帰り際、振り返ると、十三重の塔が紅葉の中に屹立していた。



高松塚古墳
帰り道、飛鳥駅近くの高松塚古墳に寄った。直径18mの小円墳だが、極彩色の壁画が有名。
実物は写真のように保存のために厳重に密閉されていて見学はできない。しかし、そばの高松塚壁画館には、壁画の発見当時のままの現状模写を西壁、北壁、東壁、天井に星宿図(星座)を展開状にして展示してある。また、剥落や汚れを加減して見やすくした一部復元模写と、制作当時の西壁の女子群像の再現模写や、副葬品の模造品を展示してある。
また、石槨(せっかく)内部の原寸模型を盗掘口から覗けるようになっている。

この壁画館は高松塚古墳保存の記念郵便切手の寄付金で作った。





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大阪観光

2007年12月03日 | インポート
大阪、奈良、京都を4日で回った。
新幹線は最新型のN700系に乗りたいというどなたかのご要望に答え、朝遅い出発になった。N700系の先端部はエアロダブルウイングという羽を広げたような空気抵抗の少ない形になっている。



今回、ご報告の大阪だが、ほとんど観光したことがないというお方のために、大阪城と道頓堀だけぶらぶらした。

地下鉄で天満橋に出て、大阪城の大手門まで歩く。外堀はかなり大きく、立派だ。



重要文化財の乾櫓(いぬいやぐら)(?)は西の丸の西北(戌亥)隅を守る隅櫓で、千貫櫓同様、1620年に小堀遠州の設計で造営された城内最古の建造物だそうだ。



大手門からちょうど、ロ-ドトレインが出るところで、どこへ行くのかも知らずに一人大枚200円払い飛び乗った。紅葉の中を進み、本丸の正門の桜門で終点となった。



門を入った正面は敵の攻撃を防ぐ石垣になっていて、一度曲がってからでないと進めないようになっている。これを枡形(ますがた)というらしい。桜門の正面には天守閣があるので、ここを守る石垣は城内第一の巨石で蛸石(たこいし)と呼ばれている。60平米、130トンあるという。ただし、厚さは70 - 90 cmと比較的薄く板状だ。他の門の正面の巨石も、運搬、積上げの制約から板状だという。ただし、石垣のほとんどの石は、石面より奥行きが2 ? 3 倍長いという。
また、現在の大阪城の石垣は大阪の陣のあとで徳川幕府がもう一度作り直したものだ。



本丸の広場では菊の懸崖で紅葉する山を模した展示があり、また、大阪らしく大道芸としての漫才をやっていた。




現在の天守閣は1931年(昭和6年)に大阪市民の募金で作られたもので、豊臣、徳川と三代目になる。



約50mの高さの8階からの眺めはすばらしい。東側は紅葉のじゅうたんの向こうにビル群と奈良の山々が見える。



南側には、しゃちほこの右側に今は使われていない元博物館とその向こうに一番櫓が見える。



次に、タクシーで道頓堀に向かった。運転手さんに、「どこで止めますか」と聞かれて、土地勘がないので、「ほら、阪神が優勝して川に飛び込むところ」と伝える。




大阪松竹の前を通り、かに道楽や、グリコの看板を見て、東京にはあまりないアーケード街の戎橋(えびすばし)をながめ、人の多さと、ゴタゴタした看板が並ぶエネルギッシュな町並みをざっと眺める。こんな街がお好みでなく落ち着かない奥様にせかされて難波から大阪を後にして親戚の家に向かった。


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私は王子さま

2007年12月02日 | その他

関西への旅行から帰宅しましたが、写真の整理などまだ間に合いません。
今日は、話題がとぎれたときの、駄洒落です。


鼻アレルギーの私は、ハニカミ王子でなくて、ハナカミおーじいさんです。

白馬の王子さんでなく、白髪のおーじいさんです。
同時に、ひたいの秀でた、ハゲカケおじいさんでもあります。

また、ケチなので、ティッシュも半分ずつに千切って使います。
半分のケチおじいさん、ハンケチおじいさんです。

これまた、失礼いたしました。(古っ)


コメント (1)
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