かぶれの世界(新)

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

私の「戦後」体験記

2020-08-27 11:36:52 | 日記・エッセイ・コラム
8月15日の終戦記念日と前後してNHKの特集番組で興味ある幾つか戦争体験記を見た。日本は何故負ける戦争をしたかは、若い頃の仕事以外の最大のテーマだった。主として大人の責任を追及する若者の気持ちだった。20代は昭和史から始めて当時話題になった有名な戦記物を読み尽くした。神田の古本屋通いをして日本が何故戦争をしたか、戦争をどう戦ったか関連する本を探した。

私は昭和22年生まれ、戦争直後に生まれたいわゆる団塊世代なので、戦争時代を体験してないし責任もない。物心ついたのは日本の景気回復のきっかけとなった朝鮮戦争が終わり、世の中が落ち着いた頃だ。私の子供の頃の思い出はそんな世の中を反映して、テレビが報じたような戦時の人がバタバタ死んだ悲惨な体験は活字や映像でしかない。

だが、後から思い出すとこれが戦争の傷跡かと思ったことは沢山あった。まだ小学校に入学したかする前かは思い出せないが、夕方に停電になり蝋燭の火の下で食事した記憶がある。赤い蝋燭の炎が忘れられない。小さい頃は麦を1-2割混ぜ、我が家ではそれを「麦飯」といって食べた。

だが我が家は恵まれていた。当時小学校での昼食は弁当で、私はお米のご飯に梅干し卵焼きとかだった。クラスの中には麦飯にタクアンという子もいた。食事時に教室の席にいない子もいた。多分、イモとかが弁当だったと想像する。それは低学年の頃でやがて給食になったと思う。

我が家は田舎の地主でそれなりに恵まれていた。父は田舎の地主の跡取り息子で家族は祖母一人、配慮され徴兵後国内(岐阜の連隊と聞いた)に配属され無事生還した。戦後地域の宴会があると外地で戦った兵士達の武勇伝を、父は隅で黙って聞いていたと漏れ聞いたことがある。お酒で宴が乱れると当時は普段柔和な感じの大人が酔って日本刀を抜いたという噂を聞いた。

戦争中田舎で一人家を守った祖母はさぞ心細かったと思う。戦後農地解放で小作地がすべて無くなり、所有地は1町歩にも満たなくなり彼女が「田んぼを盗られた」と何度も言うのを聞いた。私はいまだに法的に全ては処分できておらず、かつての小作が払う「年貢」を毎年受け取っている。私が処理できなければ息子が受け継ぐことになっている。

戦争直後に父は伊予市下灘(海に近い駅で有名)のミカン農家の娘と結婚した。彼女は農業系の女学校を卒業したばかりで、10代で私を生んだ。母は子供の頃に松山によく連れて行ってくれた。五郎駅から蒸気機関車(Cxx?)で松山に行き、路面電車に乗って大街道へ、そこから銀天街で買い物をした。街には米軍兵が見かけられ、背より高い巨大なタイヤが路肩に飾ってあった。

母は銀天街を行ったり来たりして商品を品定めし中々買わなかった。子供の足には辛いお付き合いだった。役場勤めの父が仕立てるテイラーや、父が食事する洋食屋を教えてくれた。今はもうない。「あれっ、我が家は金持ちか?」なんて子供が頃に思った記憶がある。その後、東京の会社に勤めが決まった時、母が頼んで仕立ててもらった背広の出来は正直好きじゃなかった。

こんなところが戦争の記憶の残る私の幼児の頃の思い出だ。父が死ぬまで戦時の思い出を全く話してくれなかったのは、今になれば理解できなくはない。彼は仕事漬けで滅多に見かけずたまの休日は居間で寝っ転がっていた。私が東京で会社勤めをするようになり、必死で働いた頃の仕事の話を全く家族にしないのと似ていると思う。

家族は父親の私が接待漬けになり滅多に見かけず、たまに早く帰宅すると会社の若い女子社員達を招き朝まで酒を飲んだとかいうことだけ記憶に残っているだろう。子供達の驚いた目つきは忘れられない。戦後75年を通してマクロに親子関係を見れば、子供等にとってバブル時代の思い出、遡って同じ年頃の私には「戦後」だったのかもしれない。■
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする