何も楽天トラベルを介す必要はない。私はW社のサイトに直接アクセスしてみた。すると6月27日発の出雲大社行き4列シートが、7,900円で販売されていた。私は喜んで購入する。これでいよいよ、式年遷宮の旅が調った。
夜行バスは東京駅近くを19時20分に発車する。このバスは新宿駅前を通るので、最初から新宿に行ったほうが時間を節約できるのだが、なんとなく東京駅から乗りたかった。
最寄駅から山手線に乗車して、18時30分、東京駅に降りた。出発場所がよく分からなかったが、スマホを駆使してなんとか見つける。私はスマホがなくても不自由はしない自信があるが、あればあったで利用はする。
まだ時間があったので、近くをふらふらする。家で軽食は摂ったが、小諸そばがあれば、食しておきたい。と、ここに? というところに小諸そばがあった。
しかし出発時間が迫っていたのと、お腹の具合がいまひとつだったので、パスした。ここ数年は家のことが頭の片隅にずっとあり、体調が万全だった日がない。
出雲大社行きのバスが来たので、乗る。満席だった3列シートには空席がある。新宿で乗ってくるのだろうか。夜行バスなので、すでに遮光カーテンが引かれている。鬱な感じで、まさに移動だけの乗り物だ。
私は「8A」だから左の窓側だ。若い女性が何人か乗ってくる。室谷由紀女流初段に似ているひとがいたが、これは私の錯覚であろう。
列車の自由席ではないので、男女が隣合わせになることはない。私の右はまだ空いているが、新宿で男性客が乗ってくる可能性は残っていた。
シートの上部に、蛇腹状のフードみたいなものがある。これをこう、カパーッと拡げると、自身の頭を覆い、光よけになってぐっすり眠れるのだ。もちろん、自身の寝顔を見られない利点もある。
バスは定刻に出発した。しかし辺りは薄暗く、車内も微妙に揺れているので、気分が悪くなってきた。もしさっき、強引に小諸そばを食していたら、大変なことになっていたかもしれない。
数十分後、新宿に着いた。何人か乗ったが、私の隣に人は来なかった。まずは一安心である。しかし出雲大社まではあと12時間もある。自分の体質からして、車内で熟睡はできないし、明朝まで体力がもつかどうかが心配だった。
22時、富士川パーキングエリアで休憩。その2時間後、刈谷パーキングエリアで休憩した。夜行バスに限らず、長距離バスは適宜の休憩が大切だ。
車内は、通路の左側が男子、右側が女子に分かれているようだ。別に覗き見する気はないが、女性陣はフードを大きく拡げて眠っている。
3列席は結局、満席にならなかった。こちらはリクライニングが大きく利くので、快適だ。いつか利用したいと思う。
眠ったような、眠らないような感じで、体調がすぐれないまま、夜が明けて来たようだ。何とか体力はもったようだ。しかし遮光カーテンはひらけない。
さて、これからであるが、そのまま出雲大社に赴くのは性急すぎるので、旧JR大社線跡を散策してみようと思う。
大社線は出雲市駅と大社駅を結んでいた全長7.5キロの盲腸線で、その名の通り出雲大社の参拝客に利用された。かつては東京や名古屋、大阪から直通優等列車も走っていたが、徐々に利用客が減少し、晩年は普通列車が出雲市駅と大社駅を往復するだけだった。
1987年、国鉄の第3次廃止対象線区として承認され、1990年、惜しまれつつ廃止となった。
廃線跡の一部は現在サイクリングロードになっており、沿線は起伏も少ないので、廃線跡探訪の難度としてはC(軽い)である。
かようなわけで、出雲大社参拝の導入部としては格好の場なのだが、私はちょっと躊躇するところもあった。
あれはいまを去ること15年近く前、私はいまと同じように大社線跡を歩いていた。すると、道路際の大木に、大勢の子供が登っていた。後で分かったのだが、その近くに「あすなろ保育園」なる保育園があり、彼らはそこの園児だった。
東京ではあり得ない光景だったので私がカメラを手に取ると、彼らは「撮ってー」と口々に言った。その数10人以上。それで私は、彼らを数枚写真に収めた。
私は帰宅後、やや大きめの写真をプリントし、後日、その写真を送った。
するとしばらくして、自宅に大きな箱が届いた。中は、そこの園長先生が著した本と出雲そば、それに、これが大感激だったのだが、園児の手紙が10数枚入っていた。
中はたどたどしい字で御礼が書かれてあり、私は大いに感激した。
しかし私はあの時、ひとつ失敗を犯していた。
大きく伸ばした写真は、実は2種類あり、比較的顔が大きく映っている子は2回り、小さく映っている子は1回り大きくしたのだ。
ところが後でまとめてみると、ほとんどの子に2回り大きい写真が渡っているはずが、ひとりの女の子にだけ、1回り大きな写真が1枚しかいかなかったのだ。
どの子が何回写真に収まったか、は時の運だから仕方がない。しかし写真のサイズは、どれも一律で2回り大きくすればよかった。こんな写真代、いくらでもなかったのだから。
自分だけ1回り小さい写真をもらった女の子の気持ちはどうだったか。そう思うと、私は彼女への罪悪感で、胸が張り裂けそうになった。
その数年後、またもや出雲市を訪れた私は、菓子折を持って、再び同園を訪れた。数年前、小さな写真しか渡さなかった女の子への贖罪の気持ちがそうさせたのだが、もちろん彼女はとうに卒園している。私は何をしに行ったのか。
保母さんは、園長に会っていってください、と申し出てくれたが、その園長先生がいつまで待っても来ない。結局園長先生には会わず辞去したのだが、そんなわけで旧大社線沿線は、私にとって、ほろ苦い思い出の場所となっているのだ。
28日8時30分、バスは出雲市駅前に到着した。
私は意を決して降りる。ほかに降りた乗客はいなかったと思う。
ここから旧大社駅まで歩くが、数何前に訪れたときには確認できた廃線跡が、いまは工事現場にのみ込まれ、まったく分からなくなっていた。
そのままじっとしていてもしょうがないので、適当にアタリを付けて歩を進めるが、どうも廃線跡にぶつからない。なんだか新築の家もできている。
そのまま適当に歩くが、私は完全に道に迷った。きょうは恐ろしい暑さで、私は全身、汗びっしょりだ。水分は、500mlのペットボトルを1本所持していたが、もう中身はほとんどない。街中の自販機で飲料は買えるが、150円も出せないところである。
地元の人に何回か聞いて、ようやくサイクリングロードのありかが分かった。
数分歩き、サイクリングロードに出る。これが旧大社線跡で、いつもの廃線跡探訪に戻った。
しばらく歩くと、廃線跡の右側に、大木が見えてきた。奥の建物には「ケアハウス あすなろ」と書かれている。ちょっと雰囲気が変わっているが、ここがそうだったか。
(つづく)
夜行バスは東京駅近くを19時20分に発車する。このバスは新宿駅前を通るので、最初から新宿に行ったほうが時間を節約できるのだが、なんとなく東京駅から乗りたかった。
最寄駅から山手線に乗車して、18時30分、東京駅に降りた。出発場所がよく分からなかったが、スマホを駆使してなんとか見つける。私はスマホがなくても不自由はしない自信があるが、あればあったで利用はする。
まだ時間があったので、近くをふらふらする。家で軽食は摂ったが、小諸そばがあれば、食しておきたい。と、ここに? というところに小諸そばがあった。
しかし出発時間が迫っていたのと、お腹の具合がいまひとつだったので、パスした。ここ数年は家のことが頭の片隅にずっとあり、体調が万全だった日がない。
出雲大社行きのバスが来たので、乗る。満席だった3列シートには空席がある。新宿で乗ってくるのだろうか。夜行バスなので、すでに遮光カーテンが引かれている。鬱な感じで、まさに移動だけの乗り物だ。
私は「8A」だから左の窓側だ。若い女性が何人か乗ってくる。室谷由紀女流初段に似ているひとがいたが、これは私の錯覚であろう。
列車の自由席ではないので、男女が隣合わせになることはない。私の右はまだ空いているが、新宿で男性客が乗ってくる可能性は残っていた。
シートの上部に、蛇腹状のフードみたいなものがある。これをこう、カパーッと拡げると、自身の頭を覆い、光よけになってぐっすり眠れるのだ。もちろん、自身の寝顔を見られない利点もある。
バスは定刻に出発した。しかし辺りは薄暗く、車内も微妙に揺れているので、気分が悪くなってきた。もしさっき、強引に小諸そばを食していたら、大変なことになっていたかもしれない。
数十分後、新宿に着いた。何人か乗ったが、私の隣に人は来なかった。まずは一安心である。しかし出雲大社まではあと12時間もある。自分の体質からして、車内で熟睡はできないし、明朝まで体力がもつかどうかが心配だった。
22時、富士川パーキングエリアで休憩。その2時間後、刈谷パーキングエリアで休憩した。夜行バスに限らず、長距離バスは適宜の休憩が大切だ。
車内は、通路の左側が男子、右側が女子に分かれているようだ。別に覗き見する気はないが、女性陣はフードを大きく拡げて眠っている。
3列席は結局、満席にならなかった。こちらはリクライニングが大きく利くので、快適だ。いつか利用したいと思う。
眠ったような、眠らないような感じで、体調がすぐれないまま、夜が明けて来たようだ。何とか体力はもったようだ。しかし遮光カーテンはひらけない。
さて、これからであるが、そのまま出雲大社に赴くのは性急すぎるので、旧JR大社線跡を散策してみようと思う。
大社線は出雲市駅と大社駅を結んでいた全長7.5キロの盲腸線で、その名の通り出雲大社の参拝客に利用された。かつては東京や名古屋、大阪から直通優等列車も走っていたが、徐々に利用客が減少し、晩年は普通列車が出雲市駅と大社駅を往復するだけだった。
1987年、国鉄の第3次廃止対象線区として承認され、1990年、惜しまれつつ廃止となった。
廃線跡の一部は現在サイクリングロードになっており、沿線は起伏も少ないので、廃線跡探訪の難度としてはC(軽い)である。
かようなわけで、出雲大社参拝の導入部としては格好の場なのだが、私はちょっと躊躇するところもあった。
あれはいまを去ること15年近く前、私はいまと同じように大社線跡を歩いていた。すると、道路際の大木に、大勢の子供が登っていた。後で分かったのだが、その近くに「あすなろ保育園」なる保育園があり、彼らはそこの園児だった。
東京ではあり得ない光景だったので私がカメラを手に取ると、彼らは「撮ってー」と口々に言った。その数10人以上。それで私は、彼らを数枚写真に収めた。
私は帰宅後、やや大きめの写真をプリントし、後日、その写真を送った。
するとしばらくして、自宅に大きな箱が届いた。中は、そこの園長先生が著した本と出雲そば、それに、これが大感激だったのだが、園児の手紙が10数枚入っていた。
中はたどたどしい字で御礼が書かれてあり、私は大いに感激した。
しかし私はあの時、ひとつ失敗を犯していた。
大きく伸ばした写真は、実は2種類あり、比較的顔が大きく映っている子は2回り、小さく映っている子は1回り大きくしたのだ。
ところが後でまとめてみると、ほとんどの子に2回り大きい写真が渡っているはずが、ひとりの女の子にだけ、1回り大きな写真が1枚しかいかなかったのだ。
どの子が何回写真に収まったか、は時の運だから仕方がない。しかし写真のサイズは、どれも一律で2回り大きくすればよかった。こんな写真代、いくらでもなかったのだから。
自分だけ1回り小さい写真をもらった女の子の気持ちはどうだったか。そう思うと、私は彼女への罪悪感で、胸が張り裂けそうになった。
その数年後、またもや出雲市を訪れた私は、菓子折を持って、再び同園を訪れた。数年前、小さな写真しか渡さなかった女の子への贖罪の気持ちがそうさせたのだが、もちろん彼女はとうに卒園している。私は何をしに行ったのか。
保母さんは、園長に会っていってください、と申し出てくれたが、その園長先生がいつまで待っても来ない。結局園長先生には会わず辞去したのだが、そんなわけで旧大社線沿線は、私にとって、ほろ苦い思い出の場所となっているのだ。
28日8時30分、バスは出雲市駅前に到着した。
私は意を決して降りる。ほかに降りた乗客はいなかったと思う。
ここから旧大社駅まで歩くが、数何前に訪れたときには確認できた廃線跡が、いまは工事現場にのみ込まれ、まったく分からなくなっていた。
そのままじっとしていてもしょうがないので、適当にアタリを付けて歩を進めるが、どうも廃線跡にぶつからない。なんだか新築の家もできている。
そのまま適当に歩くが、私は完全に道に迷った。きょうは恐ろしい暑さで、私は全身、汗びっしょりだ。水分は、500mlのペットボトルを1本所持していたが、もう中身はほとんどない。街中の自販機で飲料は買えるが、150円も出せないところである。
地元の人に何回か聞いて、ようやくサイクリングロードのありかが分かった。
数分歩き、サイクリングロードに出る。これが旧大社線跡で、いつもの廃線跡探訪に戻った。
しばらく歩くと、廃線跡の右側に、大木が見えてきた。奥の建物には「ケアハウス あすなろ」と書かれている。ちょっと雰囲気が変わっているが、ここがそうだったか。
(つづく)