一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

武者野先生、さようなら

2023-05-13 00:13:44 | 男性棋士
この8日、武者野勝巳七段が亡くなった。享年69歳。
武者野七段は1979年3月、25歳で四段になった。そのふくよかな体型と口ヒゲはファミコンのキャラクター「マリオ」に似ており、「マリオ武者野」の異名を持つことになる。
順位戦の最高位はC級1組、竜王戦は4組で、プレーヤーとしての特筆すべき戦績はなかったが、十段戦の観戦記など多くの原稿を執筆し、日本将棋連盟理事として千日手のルールを変えた、名参謀でもあった。
武者野七段は湯川博士・恵子夫妻と信仰があったので、その縁で私も何度かご一緒させていただいた。
初対面は2018年10月、和光市で行われた「大いちょう寄席」で、客として同席したものである。当時武者野七段は総白髪になり「マリオ」のイメージはなかったが、文章から窺えるとおり、温厚な方だった。
当ブログでは2018年10月31日の記事で、そのときの模様を記している。一部をコピペしてみよう。


部屋の隅でチョコンと待っていると、徐々にヒトが集まってきた。その入りは定員の七分くらいだろうか。その一隅に木村会長、美馬和夫氏を認めたので、そちらに移らせていただいた。
すると美馬氏の前に、どこかで見たような人がいた。
「ひょっとして、武者野先生ですか?」
昼に美馬氏から、昨年、武者野七段が来席していたことを教えられていたのだ。
私が言うと、白髪の男性がチョコンと頭を下げた。まさに、武者野勝巳七段だった。
「あ、大沢さんは初めて……」
と美馬氏。
「はい、私はまだお会いしたことがなくて」
「ああそう。……先生、こちらが大沢さん、将棋が強い人で」
そんな紹介のされ方は、ちょっと恥ずかしい。
湯川博士氏も合流し、私の周りは豪華なメンバーとなった。将棋の集まりに顔を出す時、周りが有名人ばかりで圧倒されることがある。私が将棋を知らなければおよそ会えなかった方々で、自分がここにいていいのかと困惑することもある。

(中略)

「武者野先生は、千日手規約を変えた方ですもんね」
私は武者野七段に話を振る。
将棋の千日手は現在「同一局面4回出現」だが、昔は「同一手順3回」だった。だが後者のルールだと、例えば途中に「銀成」と「銀不成」を混ぜることで、半永久的に別手順が出来上がってしまう。
実際1983年のA級順位戦・▲米長邦雄二冠VS△谷川浩司八段戦は、終盤で9回も同一局面が現れたが、手順の相違で千日手にはならなかった。
また1979年の十段戦、▲大山康晴十五世名人と△加藤一二三九段との一戦でも、終盤で似た局面が延々と進行した。これら2局は結着が着いたのだが、負けた谷川八段はプレーオフを戦う羽目になり、大山十五世名人は最終的に十段リーグを陥落した。
これらの不備を一掃したのが武者野七段の提案だったわけだ。
「あの提案はね、理事会を1ヶ月半くらいで通過しました」
それくらいのスピード可決ということは、理事会も改良案の良さを認めたのだ。
武者野七段は美馬氏と語り合っている。しかし私の耳では、武者野七段の声が聞えない。私の長年の聴力検査では、人の話し声程度は聞こえるはずなのだが、おかしい。私の耳鳴りが大きいのと、武者野七段のポソポソしゃべりが、それを阻害しているのだろうか。
「先生は、どういう経緯で観戦記者になられたんですか?」
自分で聞いときながら、私は武者野七段の声がほとんど聞き取れない。で、私はかねてからの禁断の質問をしてみた。
「以前、(読売新聞文化部の)山田(史生)さんに、武者野先生の原稿が遅いって聞いたんですけど……」
すると武者野七段がコクリと頷いたので、私は大笑いしてしまった。


武者野七段が観戦記者になった経緯を聞き損ねたのは、返す返すも残念である。
なお、文中に出てくる▲米長二冠VS△谷川八段戦は、1983年3月8日に指された、第41期A級順位戦最終戦である(主催:毎日新聞社、日本将棋連盟)。

△7八同銀不成の第1図から、▲8八金△6七銀打▲8七銀△7九金▲7八金△同金▲同銀△同銀不成……。途中、先手が▲8八金と▲8七銀の受けを逆にすると、相違手順が現れる。
結局手を変えた谷川八段が敗れ、後味の悪いことになった。
▲大山十五世名人VS△加藤一九段戦は、1979年9月25日に行われた第18期十段戦挑戦者決定リーグのこと(主催:読売新聞社、日本将棋連盟)。

第2図は大山十五世名人が109手目に▲3九桂と受けたところだが、△3七銀不成▲同銀△2六銀▲2八銀を繰り返し千日手模様。後手の加藤九段はすでに1分将棋。最初の△3七銀不成を「成」に変えれば相違手順となり、いくらでも考えられる。これも大山十五世名人が負け、後味の悪い結果となった。
これらの経緯を踏まえ、武者野七段提案の「同一手順3回」から、「同一局面4回」の、新・千日手ルールが生まれたのであった。
武者野七段とは、翌年(2019年)正月の、「和光市CIハイツ将棋寄席」でも一緒になった。
ここでは「珍道中」があったので、それも自ブログ2019年1月23日の記事から一部コピペをしよう。


CIハイツ新春落語会のあとは、湯川邸で新年会がある。しかし将棋ペンクラブ一般会員の参加は少なそうで、私は若干躊躇している。
中二階の踊り場にいると、恵子さんが現れた。私の参加の是非を問うと、恵子さんは私に委ねるふうだった。私は迷ったが、参加することにした。
辺りを見ると初老の男性がおり、それが武者野勝巳七段だった。そこに、行きでいっしょになった男性が加わる。湯川氏一行は出発までまだまだ時間がかかるらしい。お二方は新年会の参加組で、散歩も兼ねて湯川邸まで歩いていくとのこと。それで、私もお供に加わらせていただいた。
男性氏は「Iriyamaです」と武者野七段に挨拶した。ただ、武者野七段を棋士とは認識していなかったようだ。
「将棋は引退しました。相撲の親方みたいなもんです」
和光市駅前まで来た。湯川邸は長照寺方面なので路線バスが通じているが、私たちは初志貫徹で、そのまま歩いていく。私も前回、長照寺まで歩いていったので、道は分かっている。
だが高速道路入口の手前まで来て、前回は左折したのだが、そのあとぐるっと戻った記憶もあり、私は「ここはまっすぐ行きましょう」とお二人を促した。お二人も湯川邸の常連で、異論はないようだった。
だがすぐに、道の両隣が高層マンション群になった。こんな光景は見たことがなく、明らかに道を間違えている。しかしお二人は堂々と歩を進めている。これは……?
まさかと思うが、3人が3人とも、誰かが正しい道に導いてくれている、と考えているのだろうか?
だとしたらこれ、迷子になっているぞ!?
Iri氏が、道行く人に道を聞いた。やはり、Iri氏も間違いを認識していたのだ。
私たちは道を左側に軌道修正し、その後も何人かに道を尋ねる。しばらく行くと、長照寺に出た。これで知っている道に出た。私たちはほっと一息である。
湯川邸は、とある公園の反対側にあった。純和風の佇まいで、味がある。中からは湯川夫妻が出迎えてくれた。
「あんまり遅いんで、ケータイに連絡を入れたんだよ」
と湯川氏。しかしオフにしていたりして、誰も出なかったのだ。私たち3人は、似た者同士だったかもしれない。
すでに新年会の用意はできていて、私たち3人はテーブルのいちばん奥に配された。


いまとなっては、すべてが懐かしい。
武者野七段は体を悪くし、晩年は体調との戦いだったと思う。
将棋のルールを変えた男・マリオ武者野先生のご冥福をお祈りいたします。
コメント (4)
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