帝国日本の力によって建国されたという満州国
その満州の地、2000年以上前にチュモンという王が高句麗を建国したといわれる
多分に神話的要素も多いが、とにかく高句麗は誕生した。
この位置を根拠に、今の中国では高句麗は半島人の国ではなく
中国の国だったと言うのだろう
半島の南は韓民族の国が有り、新羅があり、百済があった
半島の南東部は新羅が制圧して、百済や高句麗と三国時代に入る
この頃、倭国(日本)は百済と友好的で、百済の敵だった新羅や、高句麗と戦った
その時代は日本では神功皇后の頃から天智、天武天皇の頃
高句麗は国境を隋、唐の漢民族と接していたので常に中国と戦争状態であった
隋は高句麗征伐に入れ込みすぎて大被害を被り、2代で滅んだ
続く唐も高句麗に攻め込んだ、今の韓国ドラマでは逆に高句麗が攻め込んだというのもある
一方、新羅はそんな唐に接近して後援を取り付け、百済を攻め滅ぼした
しかし、この頃から半島人は漢民族の影響下に置かれるようになった
多くの上流百済人はその文化や技術、仏教と共に日本に亡命して帰化人となった
その後、新羅と唐は高句麗を挟み撃ちして、とうとう滅ぼしてしまった
高句麗人はちりじりとなったが、その一派が後に渤海国を築いたともいう
渤海は高句麗に加え、今の沿海州にまで及ぶ広大な国だった
新羅はついに半島を統一した、北の渤海、南の新羅で南北時代とも言う
渤海は半島人と無関係ともいう
大陸人の事は、なかなか日本人にはわからない
それから200~300年、西暦900年頃になると新羅は国家が怠慢になり
その間に北では後高句麗が、西には後百済が誕生した
どちらも乱世の英雄である、後三国時代
しかし後高句麗では横暴な指導者に対して内紛が起き、王建が新たな指導者になった
戦闘力が無くなり貴族化した新羅は、後百済に攻め込まれ、危機を感じて王建に従属した
後高句麗と後百済の2強対決が始まる
優勢だった後百済だったが、海戦で大勝利した後高句麗が優勢となる
すると後百済の中で王子が王と兄弟王子を襲うクーデターが起きた
その時、百済王はなんと敵の王建を頼って、後高句麗に逃げ込んだ
若い王建は、年長の百済王に親子の礼を尽くして接したという
この後、王建は後百済を滅ぼし、半島を統一、高麗を建国した
936年と言われる
ここまでが半島民族自立の時代、これから今に至るまで半島人苦難の歴史が始まる
日本では平安時代の真っ只中、藤原純友、平将門の乱が相次いで起こった頃だ
貴族文化優美な平和な時代だ、半島とも平和なつきあいが続いていた
中国では5代10国の小国乱立混乱の時代で、半島に関わるどころではなかった
北方の満州、旧渤海、内蒙古、さらに奥地では強力な騎馬民族が動き始めていた
つづく