前回クモハ40の記事を投稿したときは気にしていなかったのですが、下河原線の旅客営業が廃止されたのが1973年ということで、今年はそこから数えて50年目という節目の年に当たるわけです。むしろ「武蔵野線開業50周年」と言った方が「エエ!もうそんなに経つの?」という感覚になりますが、それはさておき、今回はその半世紀前に下河原線を走った(であろう)101系のことについて考察めいたことを書いてみようと思います。
当時を記録した文献やサイトはそう多くありません。クモハ40はまだしも101系に至っては残された写真はだいぶ限られるようです。
その中で注目されるのが「-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃」というHPの中にある「在りし日の下河原線」というページです。
更新が途絶えてから久しいと思われるページは作成者の名前・連絡先も表示されておらず分かりませんが、幸い、写真の引用・転載について「商業利用でなければ出典明記のうえ自由に使って差し支えない」との記載があるため、以下、同ページに掲載された写真を適宜引用させていただきながら考察していきたいと思います。
まずこの写真をご覧ください。終点東京競馬場前駅の2番線に置かれた停止位置目標(停目)をクローズアップした写真です。1973年3月31日の営業最終日に撮られたもので、上記ページではエピローグ的な余韻をもった文章とともに記事の最後に置かれた写真ですが、ここではプロローグあるいはインデックスの意味を込めて最初にご紹介することにします。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)
見やすいように拡大します。一番手前に「5 旧」と書かれたイヤでも目に付く停目があり、その奥に上から順に「6」「5」「3」「1」と書かれた停目、そして一番奥に「7」と書かれた停目が見えます。最終日を含む晩年にはこれだけ多くの編成両数の列車が走っていたことを示す“動かぬ証拠”として大変興味深いものです。編成が短い順に見ていきたいのですが、「1」は言うまでもなくクモハ40の単行列車でしょう。頭端駅なのに一番奥にないのは出発信号機の視認性を考えてのことなのでしょうか。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」 ※部分拡大)
「3」は101系3連。競馬開催日(の開催時間帯?)にクモハ40に代えて運行されたようです。この当時の担当は武蔵小金井電車区(西ムコ)なので同所の付属3両編成が充当されたとみるのが妥当ですが、編成番号札がない写真もみられ、バラを寄せ集めて運行したケースの方が多かったのかも知れません。3両編成の写真は、例えば以下のページで見ることができます。
・kiza5jp様?ブログ「鉄道写真 ☆101系☆」 (クモハ100-6、クハ101-66掲載 ※向きから考えるとクモハ101-6の間違い?)
・「競馬ファンと101系(鉄道ホビダス「国鉄時代」)(天皇賞開催日に国分寺駅に進入する3両編成)
・「さんたつby散歩の達人」内(「あの日の府中」から引用した写真を掲載 ※一番手前はパンタ台付クハ100)
「5」は、もう皆さん一番手前の「5 旧」が気になって仕方がないでしょうが(笑)中央の「1」「3」「6」停目と一緒のものについて先に述べます。これも競馬開催日に運行されたようですが、メインは北府中駅周辺にある東芝などの工場勤務者の通勤・退勤時に運行されたもののようです。「在りし日の下河原線」では、来訪者が増えた運行最終日や、競馬がない最終日近くにも走ったことが記録されています。
最終2日前の1973年3月29日に東京競馬場前駅で撮影された5両編成の101系です。番号は読み取れませんが編成番号札は「下河原23」と読め、下河原線専用の編成が組成されていたようです。他の写真から、東京競馬場前方から順にクモハ100-モハ101ーサハ101(又はサハ100改造車)ーモハ100ークモハ101と推定されます。先頭のクモハ101はテールライトが内バメ式の初期車で、編成中2基見えるパンタはPS13です。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)
営業最終日の3月31日の5両編成の写真です。ものすごい人出のようです。手前2両分空きがあり東京競馬場前駅の収容力が最大7両編成だったことがよく分かります。線路に降りている人もチラホラ・・・。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)
同じ列車が国分寺駅へ向けて帰ってゆくところの後追いです。実は(HP掲載の)この1つ前のカットから気になっていたのですが、後ろから2両目の国分寺寄の車端に奇妙な「影」があるように見えます。最終日なので車内から誰か顔や腕でも出しているのかと思いましたが違いました。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)
拡大してみます。なんと乗務員ドアがついています!!屋根には手すりのようなものもうっすら写っています。クモハ101です。29日の編成のモハ101と交換したのでしょうか、それとも全く組み直した編成なのでしょうか。McーM'cといえば初期のモハ90系時代か後年の浜川崎支線ぐらいしか知りませんでしたが、こんなところでこっそり組成されていたとは!! 80分の1丁目はこういう香ばしい編成に即反応してしまいます。これはさっそく仕立てないと、、笑
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」 ※部分拡大)
さて、お待たせしました一番手前の「5 旧」です。「旧」は旧型電車のことと推察されますが普通の5両編成とは何が違うのでしょうか。この時代の旧型といえばまだ73系が残っていて17m級も少数ながらまだ活躍していた時代。101系置き換え前は73系が上記の5連に充当されていたとのコメントを見かけましたが、クモハ11とか12も徒党を組んで入線していたのでしょうか。
いろいろ調べているうちにこんなコメントに出会いました。
「朝夕は昭和44年頃、確か73系4両プラスクハ16の5両編成が活躍したことがあります。その後は101系になったように記憶しています。」
(出典:モーガル(Mogul)工場日誌「下河原線の思い出(1)」)
なるほど。徒党を組んだわけではなくて1両だけ17m級のクハがぶら下がっていたわけですね。しかし、1970年頃の西ムコにはまとまった73系の配置はなく、恐らく101系5両編成の代走として走ったとされる南武線中原電車区(西ナハ)の車両であった可能性が高いようです。
しかしクハ1両なら20m級との差はたかだか3mで、それにしては停目がずいぶん手前のように見えるので、何か違う事情があったのかも知れません。
そして「6」ですが、これが一番難解です。基本的には1、3、5、7連なので代走の可能性が高いのですが、何ゆえ?という感じです。組み方としては中央線の基本編成の7両から1両抜くなり、付属編成の3両を2編成つなげるなり、はたまた武蔵野線用に改造が済んでいた1000番台(ないないw)や南武線に入りつつあった黄色い101系が代走5連に充当??
これもいろいろ調べていくと、「休日の競馬開催日には、中央線と同じオレンジ色の101系電車が、確か6、7両編成で運転されていたと思います。」(たまらん坂 for ever「下河原線回想 その2」)や、「休日には競馬観戦用として、東京駅から東京競馬場前駅までの直通電車が走り、中央線の 101 系車両(6-7両編成)が直通運転されていました。」(東京都立多摩図書館 東京マガジンバンクカレッジ 多摩の廃線に関する勉強会:旧下河原線チーム「旧下河原線沿線探訪」)など、休日の「競馬臨」で走ったとみられる記述が目立ちます。つまり、5両編成の代走ではなく7両編成の代走説が有力ですが写真は見つかりませんでした。
最後の「7」は下河原線で運行できる最大両数で、上述のように競馬開催日に東京駅や千葉(千葉駅かどうか不明)から走った臨時電車のことを差します。競馬開催日とはいえそこまで広域から集客するのは、ダービーや天皇賞のような重賞レースの日に限られたのではないかと思いますがどうなんでしょうか。
これはシンプルに101系基本編成と考えられますが、総武線でも運転されていたことは初めて知りました。以下の書籍の「秋葉原駅」のページに顔だけですが停車中の101系(中野電車区のNo.14編成)の姿が記録されています。千葉発だとして延々各駅停車で走ったのか快速運転されたのか興味あるところです。検索できる方は探してみてください。
・生田誠 著「懐かしい沿線写真で訪ねる 総武線・京葉線 街と駅の1世紀」
ということで、見てしまったからには101系5連の“変態つなぎ”を再現すべく、仕込みを開始したいと思います。(あ~あ、、)
最後になりますが、貴重な写真やコメントを引用させていただいた「在りし日の下河原線」はじめ、各HP・ブログ管理者の皆様に御礼申し上げます。ありがとうございました。
当時を記録した文献やサイトはそう多くありません。クモハ40はまだしも101系に至っては残された写真はだいぶ限られるようです。
その中で注目されるのが「-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃」というHPの中にある「在りし日の下河原線」というページです。
更新が途絶えてから久しいと思われるページは作成者の名前・連絡先も表示されておらず分かりませんが、幸い、写真の引用・転載について「商業利用でなければ出典明記のうえ自由に使って差し支えない」との記載があるため、以下、同ページに掲載された写真を適宜引用させていただきながら考察していきたいと思います。
まずこの写真をご覧ください。終点東京競馬場前駅の2番線に置かれた停止位置目標(停目)をクローズアップした写真です。1973年3月31日の営業最終日に撮られたもので、上記ページではエピローグ的な余韻をもった文章とともに記事の最後に置かれた写真ですが、ここではプロローグあるいはインデックスの意味を込めて最初にご紹介することにします。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)
見やすいように拡大します。一番手前に「5 旧」と書かれたイヤでも目に付く停目があり、その奥に上から順に「6」「5」「3」「1」と書かれた停目、そして一番奥に「7」と書かれた停目が見えます。最終日を含む晩年にはこれだけ多くの編成両数の列車が走っていたことを示す“動かぬ証拠”として大変興味深いものです。編成が短い順に見ていきたいのですが、「1」は言うまでもなくクモハ40の単行列車でしょう。頭端駅なのに一番奥にないのは出発信号機の視認性を考えてのことなのでしょうか。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」 ※部分拡大)
「3」は101系3連。競馬開催日(の開催時間帯?)にクモハ40に代えて運行されたようです。この当時の担当は武蔵小金井電車区(西ムコ)なので同所の付属3両編成が充当されたとみるのが妥当ですが、編成番号札がない写真もみられ、バラを寄せ集めて運行したケースの方が多かったのかも知れません。3両編成の写真は、例えば以下のページで見ることができます。
・kiza5jp様?ブログ「鉄道写真 ☆101系☆」 (クモハ100-6、クハ101-66掲載 ※向きから考えるとクモハ101-6の間違い?)
・「競馬ファンと101系(鉄道ホビダス「国鉄時代」)(天皇賞開催日に国分寺駅に進入する3両編成)
・「さんたつby散歩の達人」内(「あの日の府中」から引用した写真を掲載 ※一番手前はパンタ台付クハ100)
「5」は、もう皆さん一番手前の「5 旧」が気になって仕方がないでしょうが(笑)中央の「1」「3」「6」停目と一緒のものについて先に述べます。これも競馬開催日に運行されたようですが、メインは北府中駅周辺にある東芝などの工場勤務者の通勤・退勤時に運行されたもののようです。「在りし日の下河原線」では、来訪者が増えた運行最終日や、競馬がない最終日近くにも走ったことが記録されています。
最終2日前の1973年3月29日に東京競馬場前駅で撮影された5両編成の101系です。番号は読み取れませんが編成番号札は「下河原23」と読め、下河原線専用の編成が組成されていたようです。他の写真から、東京競馬場前方から順にクモハ100-モハ101ーサハ101(又はサハ100改造車)ーモハ100ークモハ101と推定されます。先頭のクモハ101はテールライトが内バメ式の初期車で、編成中2基見えるパンタはPS13です。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)
営業最終日の3月31日の5両編成の写真です。ものすごい人出のようです。手前2両分空きがあり東京競馬場前駅の収容力が最大7両編成だったことがよく分かります。線路に降りている人もチラホラ・・・。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)
同じ列車が国分寺駅へ向けて帰ってゆくところの後追いです。実は(HP掲載の)この1つ前のカットから気になっていたのですが、後ろから2両目の国分寺寄の車端に奇妙な「影」があるように見えます。最終日なので車内から誰か顔や腕でも出しているのかと思いましたが違いました。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)
拡大してみます。なんと乗務員ドアがついています!!屋根には手すりのようなものもうっすら写っています。クモハ101です。29日の編成のモハ101と交換したのでしょうか、それとも全く組み直した編成なのでしょうか。McーM'cといえば初期のモハ90系時代か後年の浜川崎支線ぐらいしか知りませんでしたが、こんなところでこっそり組成されていたとは!! 80分の1丁目はこういう香ばしい編成に即反応してしまいます。これはさっそく仕立てないと、、笑
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」 ※部分拡大)
さて、お待たせしました一番手前の「5 旧」です。「旧」は旧型電車のことと推察されますが普通の5両編成とは何が違うのでしょうか。この時代の旧型といえばまだ73系が残っていて17m級も少数ながらまだ活躍していた時代。101系置き換え前は73系が上記の5連に充当されていたとのコメントを見かけましたが、クモハ11とか12も徒党を組んで入線していたのでしょうか。
いろいろ調べているうちにこんなコメントに出会いました。
「朝夕は昭和44年頃、確か73系4両プラスクハ16の5両編成が活躍したことがあります。その後は101系になったように記憶しています。」
(出典:モーガル(Mogul)工場日誌「下河原線の思い出(1)」)
なるほど。徒党を組んだわけではなくて1両だけ17m級のクハがぶら下がっていたわけですね。しかし、1970年頃の西ムコにはまとまった73系の配置はなく、恐らく101系5両編成の代走として走ったとされる南武線中原電車区(西ナハ)の車両であった可能性が高いようです。
しかしクハ1両なら20m級との差はたかだか3mで、それにしては停目がずいぶん手前のように見えるので、何か違う事情があったのかも知れません。
そして「6」ですが、これが一番難解です。基本的には1、3、5、7連なので代走の可能性が高いのですが、何ゆえ?という感じです。組み方としては中央線の基本編成の7両から1両抜くなり、付属編成の3両を2編成つなげるなり、はたまた武蔵野線用に改造が済んでいた1000番台(ないないw)や南武線に入りつつあった黄色い101系が代走5連に充当??
これもいろいろ調べていくと、「休日の競馬開催日には、中央線と同じオレンジ色の101系電車が、確か6、7両編成で運転されていたと思います。」(たまらん坂 for ever「下河原線回想 その2」)や、「休日には競馬観戦用として、東京駅から東京競馬場前駅までの直通電車が走り、中央線の 101 系車両(6-7両編成)が直通運転されていました。」(東京都立多摩図書館 東京マガジンバンクカレッジ 多摩の廃線に関する勉強会:旧下河原線チーム「旧下河原線沿線探訪」)など、休日の「競馬臨」で走ったとみられる記述が目立ちます。つまり、5両編成の代走ではなく7両編成の代走説が有力ですが写真は見つかりませんでした。
最後の「7」は下河原線で運行できる最大両数で、上述のように競馬開催日に東京駅や千葉(千葉駅かどうか不明)から走った臨時電車のことを差します。競馬開催日とはいえそこまで広域から集客するのは、ダービーや天皇賞のような重賞レースの日に限られたのではないかと思いますがどうなんでしょうか。
これはシンプルに101系基本編成と考えられますが、総武線でも運転されていたことは初めて知りました。以下の書籍の「秋葉原駅」のページに顔だけですが停車中の101系(中野電車区のNo.14編成)の姿が記録されています。千葉発だとして延々各駅停車で走ったのか快速運転されたのか興味あるところです。検索できる方は探してみてください。
・生田誠 著「懐かしい沿線写真で訪ねる 総武線・京葉線 街と駅の1世紀」
ということで、見てしまったからには101系5連の“変態つなぎ”を再現すべく、仕込みを開始したいと思います。(あ~あ、、)
最後になりますが、貴重な写真やコメントを引用させていただいた「在りし日の下河原線」はじめ、各HP・ブログ管理者の皆様に御礼申し上げます。ありがとうございました。
営業最終日の恐らく多客対応という状況から「寄せ集め」ではないかとの意識が先行していましたが、同じ寄せ集めでも、ユニットごともってくるという視点はなくまさに「目からウロコ」でした。
その後、当該写真の車番を拡大して再度確認したところ、最後尾はどうやらクモハ100-1で間違いないようです。私は写真をご紹介したに過ぎませんが、このような形で考証のお役に立てたとすれば光栄です。
コメントありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
初めて投稿させていただきます。
下河原線の5連の件ですが、クモハ100+クモハ101は「クモハ100-1+クモハ101-1」だと思います。
以前101系のユニット組み合わせ番号を知りたくて探したのですが、断片的なものしか見当たらなかったので、資料から組み立てたのですが、武蔵小金井区に唯一この組み合わせが出てきました。
手持ちの47年3月の配置表とRP2013年4月号の車歴表から調べましたが、両車ともS33.3.7近車製造、47.3武蔵小金井区配置、S57.6.21廃車となっており、他車との矛盾データは無いことから、量産車第1陣で中央線初期の組み換えの嵐をくぐり抜け最期まで離れずにいた、のではないかと思っております。
この組み合わせは関東ではこの1ユニットだけで、47.3時点では関西には森ノ宮に4ユニット、淀川に2ユニットありますが、MM´ユニットについての記事は見たことがありませんので、本当なのかなぁ?と思っておりましたが、やっぱりいたんだ、と今回の記事で長年の疑問が解消しました。
嬉しくて投稿してしまいました。ありがとうございます。
1976年(S51年)までは国分寺で受け渡しやってたとされてますんで、たぶん見たか音聞いたかしてるハズなんですけどぉ・・・???
https://cappaahiru.blogspot.com/2020/05/blog-post_3.html
E851の国分寺乗入れは無かったと思います。
S44秩父線石灰石輸送専用デビューですから。
さよなら運転の12系も新秋津でした。
南武線には元ジュラ電もいたのですね。73形の時代も知ってはいるのですが、ちゃんと撮影しておかなかったのが悔やまれます。
旧型国電はつなぎ方が自由とはいえ、73形あたりはMc-T-M-Tcがなかば基本となっていたので、確かにMc封じ込めは珍しいかも知れません。
下河原線ですが、実は私の親戚の家が国分寺駅が見える場所にあって、小学生の頃はよくおじゃましていたので貨車の入れ替えを頻繁にやっていたのは覚えているのです。が、まだ走っていたであろう下河原線を見た記憶がなく、西武のE851も当然来ていたはずですが記憶にありません。残念なことです。目にしてはいると思うので、無意識の記憶を脳内から読み出してデジタル化できるサービスがあった即申し込みたいくらいです。笑
私も準地元ながら下河原線は見たことがなく、1979年に中央線開通90周年?のイベントでまだ残っていた国分寺駅の下河原線ホームにトタのクモハ40が横付けされていたのを見たことがあります。この時は下河原線ホームに南北を繋ぐ跨線橋から入ることができました。
「5連」に刺さっていただきありがとうございます。笑
TcMMcMMcというと付属×2の片方のTcを落としたような編成で、単純に×2とするのではなく、5連に収める必要があったことを強く感じます。
「鉄道ファン図書館」というサブスクに加入しているので698号を見てみようと思ったのですが、2018年までしか公開されておらず残念ながら未確認です。そのかわり別の号で5連の姿が2件確認できました。
「直通の競馬臨は10連で走り、武蔵小金井で付属の3連を切り離して7連で入線した」という目からウロコのような記述もあってますます沼にはまり込んでおります。
下河原線を走った101系については追加情報が集まったらまた投稿したいと思います。
で、イベント人混みが苦手な私は「5連の謎?」を解くべく、非冷の書庫で汗だく(嘘)でファン誌などバックナンバーを探索してみました
鉄道ファン698号(オレンジバーミリオン物語)にカラーで鮮明な5連の走行写真を見つけました。TcMMcMMcで貴兄の推測通り1968.8撮影となってます。
言われてみれば101系5連は確かに珍しいかも知れません。“晩年”をいつからとみなすかによりますが、1970年頃には既に走っていたような記述もありましたので、1973年明けてからの最晩年というわけでもなさそうです。
逆に、武蔵野線用1000番台の改造が1972年11月頃から活発化しているようなので、最晩年は一時的に編成を解かれた車両をかき集めて組成していたかも知れませんね。興味は尽きません。
昭和38年5月26日は「第30回東京優駿競走(日本ダービー)」の開催日だったようです。
撮影者は1日追っかけてた様で、東京発4本、千葉系は101系2本、73系3本が確認できます。
Mc40+Mc73の2連も・・クモハ40が欲しくなってきた^^;
下河原線定期運用の101系は3連または3連×2だと思ってました。終盤、専用の5両編成があったのか?(他線区には存在しないから)イベント用特別仕立て?
実走は事実なのでモノにして下さい^^
今日JAMを見に行く予定なのでトラムの101系も偵察してこようと思います。800番台はホビーのキット組があるので、もし食指が動けば0番台の導入を検討しようかと。
南武線そのような編成がありましたか。自分は南武線、横浜線など近場なのにまったく記録してなくて後悔しきりです。篠原のクモハ101が40年の時を経て素敵なカタチになることをお祈りいたします!
JAMでトラムウェイから101の試作品の展示もありましたね。
南武線沿線に住んでますので101系末期は中原の黄色と橙色の編成で中間に先頭車が入りその隣の中間車に「通れません」と張り紙をしてました。 これを再現すべく篠原のクモハ101を求めましたが40年近くそのままです。 そういってるうちに篠原も過去帳入りしました。
東ウラさんの情報を加えて完結するように空けて待っておりました。笑
ネタ本おもしろそうなのでさっそく注文しました。競馬臨が走ってる写真は結局ほとんど
見つからなかったので楽しみです。
それはそれとして、変則5連をどうするか・・・笑
前回の投稿で予告があったので、ツッコむ為に調べておきました。
ネタ元は、「中央線オレンジ色の電車今昔50年」(JTB)
オレンジ・カナリヤ101系7連「東京競馬場前」の走行写真(S38.5.26)が頻繁に登場します。Mc40+73系6連もあったようですよ。
当時、日中の立川ー浅川の小運転(101系、2・3連)も行われてましたネ。
と言う事で、「祝:武蔵野線開業50年」!・・失礼しました^^