[、写真と文:36会TKさん提供]
※ 韮山「反射炉」を世界遺産に・・・という運動がありますね。
地元にいる私たちでも、詳しい知識を持っていません。
TKさんからの「反射炉」と「江川氏」についての講義を、共に、少し、勉強をしてみましょう・・・伊豆の花
「 反射炉 」
( 江川太郎左衛門英龍と反射炉への思い )
世界遺産に登録されるかも知れない韮山の「反射炉」へ、何十年ぶりかに行ってきました。
今、話題の場所なので、来観者が多いですね。
「反射炉」と「36代江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)」についての概略の説明です。
まず、この「反射炉」は、構想段階から当時の代官・江川太郎左衛門 英龍が関わっています。
江川家は、代官の職を世襲として代々勤めてきました。
そのため、江川家は通称として太郎左衛門を名乗りました。
つまり「江川太郎左衛門」が現在の一般的な「名字」に当たるのでしょうか・・・
韮山代官、江川太郎左衛門 英龍は、ペリー再来航による日本の危機を感じとり、幕府に、その対策の必要性を申し入れていました。
その結果、大砲造りの命が下り、英龍自身も大砲の知識を深めることに努力を惜しまなかったようですね。
やがて他の藩から大砲造りの専門家を呼び寄せ、1854年に「反射炉」が起工となり、1857年に完成。
鉄製の大砲の鋳造が開始されました。
しかし、実際にはこの反射炉の完成途中で、英龍はこの世を去ってしまいます。
「江川邸の天井の骨組み」・・・この骨組みの構造は、地震に対して考慮したものだと聞いています
英龍の意志は、息子37代英敏(24歳で死去)に引き継がれ、実質的には、柏木総蔵を中心に事業は引き継がれ、1857年反射炉が完成されたのです。
なお、出来上がった鋳造品は穴が開いていない「ムク」の物でした。
大砲として使うには、その「ムク」の鋳造品に穴を開けなければなりません。
このため、近くの川から水を引き、水車を回し、切削用の刃物は固定して「ムク」のままの大砲を水車の回転力で廻し、1ヶ月ほどかけて、穴を開けました。
こうして、まともな大砲が、4門ほど完成したそうです。
その中の1門は、現在の靖国神社に保管されています。
他は、当時の江戸湾上に造られた台座に設置されました。
その場所が、現在のお台場なのですね。
これらの大砲がペリー来航時、抑止力となって働いたと伝えられており、多くの人々の尽力により、日本は外国からの植民地化を免れたと言われています。
このように多くの先人達が苦労してこの国(民)を守ってきたから、今の日本があり、国(民)を守ろうとする気持ちは、昔も今も変わりは無いと思います。
文明(科学)の進化はあっても、人間自身(心)の進化がそれに伴うのは難しい事ですからね。
いつの時代でも、捏造と真実があります。
真実を知る方法は現代では難しいことではありませんね・・・その気さえあれば。
歴史を正しく理解し、苦労された先人たちへ感謝の気持ちを表す事も必要だと考えます。
[以上、TKさん講義]