○そごう美術館『大アンコール・ワット展:壮麗なるクメール王朝の美』
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/05/1029_angkor/
先週末で終わってしまった展覧会だが、すべり込みで見てきたので書いておく。本展は、プノンペン国立博物館が所蔵する仏像や神像、遺跡の一部であった柱や彫刻の装飾などを展示したものだ。
アンコール・ワットについては、ほとんど何も知らない。カンボジアの仏像・神像は、博物館でときどき見るので、「ああ、カンボジアの顔だな」ということは分かるが、正直に言って、あまり美形だと感じたことはない。しかし、その肉体の表現は見事だと思う。静かで満ち足りていて、「肉体」というより、哲人の「精神」が示現した姿に感じられる。
最も印象深かったのは「ジャヤバルマン7世の頭部」である(上記サイトに写真あり)。ジャヤバルマン7世は、アンコール王朝の絶頂期に君臨し、「諸王の中の王」と呼ばれた人物だというが、簡素な頭髪、太くて短い首、開いた鼻、厚く大きな唇には、強大な権力やカリスマ性を感じさせる要素はない。むしろ社会の底辺で忍耐強く暮らす階層を想起させる。しかし、下卑た印象はなく、広い額、なだらかな弧を描く眉の下で、軽く閉じた目、謎めいた微笑みは、「アジア的な高貴さ」を感じさせる(こういう言い方ってオリエンタリストかな?)。これは写実なのだろうか、それとも、ある程度の理想化を伴っているのかしら?
それから「ひざまずくプラジューナーパーラミタ(般若波羅蜜多)」という彫像。これはジャヤバルマン7世の最初の王妃ジャヤラージャデヴィーをモデルにしたものだ。王妃は仏教に帰依し、苦行のため、痩せ細って、早逝したという。確かに古代の女性像としては、異例に痩せた姿である。サンボットというスカートで大きく膨らんだ下半身に対して、はかなげな上半身は、三角フラスコのように見える(まるで近代彫刻の造形だ!)。地味なひっつめに結った髪、小さな顔は、鼻筋が目立ち、いくぶん釣り目のきつい表情で、大ぶりの唇だけが不似合いに肉感的である。解説は「(仏教に帰依することによって)自得した表情」と言うが、そうだろうか? 私には、苦悩の中で無理に作った微笑に感じられた。
たまたま、上記に取り上げたのは、精神性の強い彫像だが、写真パネルにあった「乳海攪拌」(壁面レリーフ)などは、マニエリスティックで、混沌としたパワーを感じさせる作品だった。いつか現地に行ってみたいものだ。
○立花隆『天皇と東大:大日本帝国の生と死』(上下) 文藝春秋社 2005.12
久しぶりの「読んだもの」更新である。700頁超×2冊の大作を、1週間かかって、ようやく読み終わった。本書の原文は、月刊誌『文藝春秋』に、1998年から2002年まで連載されていた「私の東大論」である。私は雑誌連載には全く無関心だったので、この単行本で初めて一気に全文を読み通した。
面白かった。ただし、それは「日本近代史」が事実として持っている面白さである。本書が一編の著作として面白いかというと、やや首をかしげざるを得ない――ここで私が「著作としての面白さ」と言うのは、たとえば(無意味な比較かも知れないけど)戦後日本を書いた小熊英二の『<民主>と<愛国>』みたいな感銘はなかった、ということだ。
その理由は、本書の根底に、どうにも「図式的な見方」を感じてしまうからだ。著者は本書の終章近くで、「私はずっと前、少年期のころから、なぜあの戦争が起き、なぜ終わったのかを最大の疑問として生きてきた」と告白している。終戦時に5歳だったという著者は、戦争の「理由」や「責任」は実感として理解できない、しかし、その「結果」としての辛酸は十分に嘗めた世代である。だから、上記の疑問には、「なぜ(あんな不幸な、不義な、そして愚かな)戦争が起きたのか」という、強い憤りと反感が、深く刻まれているように感じる。
そして、著者は、戦争責任の根源を、天皇中心主義者(右翼的国粋主義者)に求め、おおむね国家主義者を悪、民主主義者を善と断ずる。その基本的構図に、私は否を唱えるつもりはない。しかしながら、著者は「絶対無謬」の戦後世代に自分を置き、戦中・戦前世代の「誤謬」と「無知蒙昧」を、あげつらっているような感じがする。過ぎ去った「歴史」が、こういう手つきで扱われるのを見るのは、あまり気分のいいものではない。
たとえば、美濃部達吉の天皇機関説事件や津田左右吉事件にかかわった、狂信的右翼思想家・蓑田胸喜を、あたかも「道化」のように冷笑する態度。または、東京大学初代総理・加藤弘之の「変節」に対する容赦のない非難。さらに言えば、訳あって本書に掲載された「南校時代全職員生徒」の集合写真に対して「当時の日本(明治4年7月~5年8月)がどれほどの未開国であったかがすぐわかる」とコメントしているのを読んだときは愕然とした。そう言うか~。このひとって、「非合理」とか「無知」「未開」が徹底して許せない、要するに近代主義者なんだなあ、と思った。
私は著者よりさらに一世代降っているので、戦前の狂信的国家主義者も、戦後の民主主義世代も、どっちもどっちだろう、という醒めた感覚がある。ここに最近の右傾化する若者を付け加えてもいい。「どっちもどっち」というのは「民衆は常に過ちやすく、騙されやすい」という認識である。
そういう私から見ると、著者が、戦後まもなく公刊された『きけ、わだつみの声』(戦没学生の手記)において、天皇制を肯定し、戦争を礼賛する語句が、反戦・平和運動の趣旨に合わないからという理由で削除されていたことを、近年ようやく知って、共産党の指示による「歴史の改竄」に驚き、「あの時代(戦前・戦中)は、後世の我々が考えている以上に(世の中一般の人々が)右翼的、国粋主義的であったということである」と、ナイーブに慨嘆しているのは、何を今さら、と苦笑を誘われる。
本書には、そうした”世の中一般の人々”とは異なり、あくまでファシズムに抗し、学問の自由のため、孤高の戦いを続けた幾人かの大学人が登場する。吉野作造、河上肇、美濃部達吉、矢内原忠雄など。彼らの戦いは尊い。
しかし、私が最も感銘を受けたのは、南原繁(戦後初の東大総長)の存在である。敗戦の日に法学部長の職にあった南原は、それから2週間後、「大学新聞」に「戦後に於ける大学の使命――復員学徒に告ぐ」という文章を書いた。本書には、その一部が採録されている。これがいいのだ。有名な文章だそうだから、知っている人は知っているんだろうなあ。私は初めて読んだが、いま読んでも全く色褪せていない。戦後60年目に、真の勇気と自尊を取り戻すために(現実を直視せよ/理想を見失うな)、断然、読むべき文献の一ではないかしら。その後も、南原は、名演説によって、東大生のみならず、全国の学生、知識人、そして市井の人々を力づけたという。
著者は言う、「南原は、学徒出陣のときに、自分が何もできなかったことを、生涯最大のトラウマとしてかかえ、そのときの思いを何度も何度も語りつづけた」と。だからこそ、彼の言葉は、今なお我々の胸を打つのだ。「無謬」の中に自分を置いて、他者を断罪している限りは、何も変わらない、何も変えられないのだと思う。
久しぶりの「読んだもの」更新である。700頁超×2冊の大作を、1週間かかって、ようやく読み終わった。本書の原文は、月刊誌『文藝春秋』に、1998年から2002年まで連載されていた「私の東大論」である。私は雑誌連載には全く無関心だったので、この単行本で初めて一気に全文を読み通した。
面白かった。ただし、それは「日本近代史」が事実として持っている面白さである。本書が一編の著作として面白いかというと、やや首をかしげざるを得ない――ここで私が「著作としての面白さ」と言うのは、たとえば(無意味な比較かも知れないけど)戦後日本を書いた小熊英二の『<民主>と<愛国>』みたいな感銘はなかった、ということだ。
その理由は、本書の根底に、どうにも「図式的な見方」を感じてしまうからだ。著者は本書の終章近くで、「私はずっと前、少年期のころから、なぜあの戦争が起き、なぜ終わったのかを最大の疑問として生きてきた」と告白している。終戦時に5歳だったという著者は、戦争の「理由」や「責任」は実感として理解できない、しかし、その「結果」としての辛酸は十分に嘗めた世代である。だから、上記の疑問には、「なぜ(あんな不幸な、不義な、そして愚かな)戦争が起きたのか」という、強い憤りと反感が、深く刻まれているように感じる。
そして、著者は、戦争責任の根源を、天皇中心主義者(右翼的国粋主義者)に求め、おおむね国家主義者を悪、民主主義者を善と断ずる。その基本的構図に、私は否を唱えるつもりはない。しかしながら、著者は「絶対無謬」の戦後世代に自分を置き、戦中・戦前世代の「誤謬」と「無知蒙昧」を、あげつらっているような感じがする。過ぎ去った「歴史」が、こういう手つきで扱われるのを見るのは、あまり気分のいいものではない。
たとえば、美濃部達吉の天皇機関説事件や津田左右吉事件にかかわった、狂信的右翼思想家・蓑田胸喜を、あたかも「道化」のように冷笑する態度。または、東京大学初代総理・加藤弘之の「変節」に対する容赦のない非難。さらに言えば、訳あって本書に掲載された「南校時代全職員生徒」の集合写真に対して「当時の日本(明治4年7月~5年8月)がどれほどの未開国であったかがすぐわかる」とコメントしているのを読んだときは愕然とした。そう言うか~。このひとって、「非合理」とか「無知」「未開」が徹底して許せない、要するに近代主義者なんだなあ、と思った。
私は著者よりさらに一世代降っているので、戦前の狂信的国家主義者も、戦後の民主主義世代も、どっちもどっちだろう、という醒めた感覚がある。ここに最近の右傾化する若者を付け加えてもいい。「どっちもどっち」というのは「民衆は常に過ちやすく、騙されやすい」という認識である。
そういう私から見ると、著者が、戦後まもなく公刊された『きけ、わだつみの声』(戦没学生の手記)において、天皇制を肯定し、戦争を礼賛する語句が、反戦・平和運動の趣旨に合わないからという理由で削除されていたことを、近年ようやく知って、共産党の指示による「歴史の改竄」に驚き、「あの時代(戦前・戦中)は、後世の我々が考えている以上に(世の中一般の人々が)右翼的、国粋主義的であったということである」と、ナイーブに慨嘆しているのは、何を今さら、と苦笑を誘われる。
本書には、そうした”世の中一般の人々”とは異なり、あくまでファシズムに抗し、学問の自由のため、孤高の戦いを続けた幾人かの大学人が登場する。吉野作造、河上肇、美濃部達吉、矢内原忠雄など。彼らの戦いは尊い。
しかし、私が最も感銘を受けたのは、南原繁(戦後初の東大総長)の存在である。敗戦の日に法学部長の職にあった南原は、それから2週間後、「大学新聞」に「戦後に於ける大学の使命――復員学徒に告ぐ」という文章を書いた。本書には、その一部が採録されている。これがいいのだ。有名な文章だそうだから、知っている人は知っているんだろうなあ。私は初めて読んだが、いま読んでも全く色褪せていない。戦後60年目に、真の勇気と自尊を取り戻すために(現実を直視せよ/理想を見失うな)、断然、読むべき文献の一ではないかしら。その後も、南原は、名演説によって、東大生のみならず、全国の学生、知識人、そして市井の人々を力づけたという。
著者は言う、「南原は、学徒出陣のときに、自分が何もできなかったことを、生涯最大のトラウマとしてかかえ、そのときの思いを何度も何度も語りつづけた」と。だからこそ、彼の言葉は、今なお我々の胸を打つのだ。「無謬」の中に自分を置いて、他者を断罪している限りは、何も変わらない、何も変えられないのだと思う。
○出光美術館『平安の仮名、鎌倉の仮名-時代を映す書のかたち-』
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkantop.html
「古今和歌集成立1100年、新古今和歌集成立800年」を記念する展覧会のひとつ。先月は見仏がてら、京都まで遠征していたら、東京近郊で開催されていた記念展のいくつか(五島美術館、れきはく)を見逃してしまった。がっかり。しかし、その失敗を補って余りある、実り多い展覧会を見ることができた。
まず、古筆手鑑『見努世友(みぬよのとも)』に興奮! これと京都国立博物館所蔵の『藻塩草』、MOA美術館所蔵の『翰墨城』を以って三大国宝手鑑というのだそうだが、私は2週間前に京都で『藻塩草』を見てきたばかりである。すごい、14面も広げてある!と思っていたら、こちらは25面も開けてありました。これだけで、平安~鎌倉の古筆の流れを一気に通覧できてしまう。
使われている料紙は、実にさまざま。紺地金泥あり、金箔を散らした「彩箋(というらしい)」あり、模様の入った藍雲紙・紫雲紙あり、黄色っぽいのは「黄麻紙」、灰色っぽいのは「楮紙」。「斐紙」には、白のほか、ピンク、むらさき、水色などがある。版型は、わずか2、3行の細い短冊から、ほぼ正方形の枡型本の1ページまで。書かれている文字も、漢文あり、仮名あり、字の大きさ、字間・行間の空き具合、墨の濃さなど、千差万別で、錦の見本帖を見るようだ。
作品名と筆者名(伝○○筆)の組み合わせを見ていくと、伝貫之筆「古今和歌集」(高野切)、伝顕昭筆「源氏物語断簡」(建仁寺切)なんてのは分かるとして、伝源家長筆「仮名聖徳太子伝暦」とか、伝俊寛僧都筆「後撰和歌集」なんてのを見ると、へえ、この人がこんな作品を、と興味をひかれるものもある(まあ、しょせん「伝」ですけど)。
終わりのほうに、「伝蓮生法師(熊谷直実)筆」の断簡があって、大きな料紙の中央に、深い苦悩を吐き出すような小さな文字で「速成就佛身」とあった。華やかな仮名文字の美酒に酔っていた私は、一瞬、虚をつかれた感じがした。熊谷直実についてはこちら。
さて、この展覧会は「平安の仮名」「鎌倉の仮名」の二部構成になっているが、その冒頭のパネルは、平安と鎌倉の仮名の美しさの違いにふれて、以下のように語る。優美・流麗で、消え入るような平安の仮名、厳格・明確で、意志的な強さを感じさせる鎌倉の仮名。この違いは、貴族の世から武士の世というステレオタイプで説明されがちである。しかし、より根本的な原因は、和歌の持つ機能の変化にあるのではないか。貴族たちの日常会話の延長であった和歌が、公的な性格を強めるに伴い、仮名文字の可視的な性質も変化したのではないか。
キーワードは「仮名が和歌を記す文字であるという視点」である。そうだ。仮名は日記のためでも物語のためでもなく(それらは二次的な用法)和歌のために生まれた文字なのだ。私は、この大胆に見えて、直感的には正しい断定を、感動を以って眺めた。
私は学生時代、国文を専攻していたので、古写本との付き合いは長い。しかし、和歌文学の演習で「○○本」や「○○切」を見るときは(翻刻や影印本でいいので)文献資料として見ていた。一方、美術館で古筆切を見るときは、工芸品を見るように、ああ、きれいだなあ~と思って陶然と眺めるだけだった。
この展覧会は、国文学の研究成果が、美術品としての古筆の新たな鑑賞法を提案しているという点で、非常に画期的であると思う。会場には、さらに詳しく、平安~鎌倉の仮名の展開を模式化したパネルも設けられている。伝統的な古筆の観賞を楽しみたい向きには、単に小うるさいだけかもしれないが、私は大いに知的刺激を受けた。
なお、展示図録には、国文学者の後藤祥子さんと田淵句美子さんが寄稿している。これから読むのが楽しみ。
http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkantop.html
「古今和歌集成立1100年、新古今和歌集成立800年」を記念する展覧会のひとつ。先月は見仏がてら、京都まで遠征していたら、東京近郊で開催されていた記念展のいくつか(五島美術館、れきはく)を見逃してしまった。がっかり。しかし、その失敗を補って余りある、実り多い展覧会を見ることができた。
まず、古筆手鑑『見努世友(みぬよのとも)』に興奮! これと京都国立博物館所蔵の『藻塩草』、MOA美術館所蔵の『翰墨城』を以って三大国宝手鑑というのだそうだが、私は2週間前に京都で『藻塩草』を見てきたばかりである。すごい、14面も広げてある!と思っていたら、こちらは25面も開けてありました。これだけで、平安~鎌倉の古筆の流れを一気に通覧できてしまう。
使われている料紙は、実にさまざま。紺地金泥あり、金箔を散らした「彩箋(というらしい)」あり、模様の入った藍雲紙・紫雲紙あり、黄色っぽいのは「黄麻紙」、灰色っぽいのは「楮紙」。「斐紙」には、白のほか、ピンク、むらさき、水色などがある。版型は、わずか2、3行の細い短冊から、ほぼ正方形の枡型本の1ページまで。書かれている文字も、漢文あり、仮名あり、字の大きさ、字間・行間の空き具合、墨の濃さなど、千差万別で、錦の見本帖を見るようだ。
作品名と筆者名(伝○○筆)の組み合わせを見ていくと、伝貫之筆「古今和歌集」(高野切)、伝顕昭筆「源氏物語断簡」(建仁寺切)なんてのは分かるとして、伝源家長筆「仮名聖徳太子伝暦」とか、伝俊寛僧都筆「後撰和歌集」なんてのを見ると、へえ、この人がこんな作品を、と興味をひかれるものもある(まあ、しょせん「伝」ですけど)。
終わりのほうに、「伝蓮生法師(熊谷直実)筆」の断簡があって、大きな料紙の中央に、深い苦悩を吐き出すような小さな文字で「速成就佛身」とあった。華やかな仮名文字の美酒に酔っていた私は、一瞬、虚をつかれた感じがした。熊谷直実についてはこちら。
さて、この展覧会は「平安の仮名」「鎌倉の仮名」の二部構成になっているが、その冒頭のパネルは、平安と鎌倉の仮名の美しさの違いにふれて、以下のように語る。優美・流麗で、消え入るような平安の仮名、厳格・明確で、意志的な強さを感じさせる鎌倉の仮名。この違いは、貴族の世から武士の世というステレオタイプで説明されがちである。しかし、より根本的な原因は、和歌の持つ機能の変化にあるのではないか。貴族たちの日常会話の延長であった和歌が、公的な性格を強めるに伴い、仮名文字の可視的な性質も変化したのではないか。
キーワードは「仮名が和歌を記す文字であるという視点」である。そうだ。仮名は日記のためでも物語のためでもなく(それらは二次的な用法)和歌のために生まれた文字なのだ。私は、この大胆に見えて、直感的には正しい断定を、感動を以って眺めた。
私は学生時代、国文を専攻していたので、古写本との付き合いは長い。しかし、和歌文学の演習で「○○本」や「○○切」を見るときは(翻刻や影印本でいいので)文献資料として見ていた。一方、美術館で古筆切を見るときは、工芸品を見るように、ああ、きれいだなあ~と思って陶然と眺めるだけだった。
この展覧会は、国文学の研究成果が、美術品としての古筆の新たな鑑賞法を提案しているという点で、非常に画期的であると思う。会場には、さらに詳しく、平安~鎌倉の仮名の展開を模式化したパネルも設けられている。伝統的な古筆の観賞を楽しみたい向きには、単に小うるさいだけかもしれないが、私は大いに知的刺激を受けた。
なお、展示図録には、国文学者の後藤祥子さんと田淵句美子さんが寄稿している。これから読むのが楽しみ。
○松岡美術館『古伊万里展-古九谷・柿右衛門・金襴手』
http://www.matsuoka-museum.jp/
上記サイトにも掲載されているポスターを見たとき、うわっ、これはすごいぞ、という予感がした。古九谷2点、柿右衛門2点、金襴手2点の写真を並べているのだが、「どうだ」と言わんばかりの名品揃いである。
そして、期待は裏切られなかった。展示は、時代順に、古九谷・柿右衛門・金襴手と進むのだが、逸品揃いで、気を抜ける作品が無い。やっぱり、こういうとき、個人コレクションを基礎に発展した博物館は強いなあ。これが、先日の「伊万里と京焼(東京国立博物館)」だと、各時代・各様式の基準作が揃っていて、伊万里陶磁器の展開を、”お勉強”するには好都合だった。しかし、この展示会で見る作品は、いずれもハナから”基準作”を超えていて、比較や類推を拒絶するものが多い。ひとつひとつ、制作者の芸術的創造性に脱帽するのみである。
だから、レビューをするのは難しいが、あえて印象的な作品をあげると、古九谷の青手では「無花果文平鉢」がイチ押し。縁(ふち)文様を施さず、皿いっぱいに絵を描く。キッカイな姿の太湖石(?)が横たわり、その上を無花果(イチジク)の葉と、たわわな果実が埋めている。たとえ純真無垢な子供に描かせても、こうは描けないだろうという大胆さだ。
構図の大胆さは、時代や様式を超えて、伊万里の陶磁器を貫く特徴だと思う。たとえば、古九谷の1つ(青手ではない)は、魚眼レンズを覗いたように、大地が右斜め上にあり、視界を水平に横切る梅の枝に小鳥がとまっている。また徳利の頸の部分まで羽根を伸ばす孔雀など。平易で親しみやすいといわれる柿右衛門様式でも、よく見ると、ずいぶん大胆なデフォルメと様式化を施している。
色絵に比べて、伊万里の染付(青花)は、やや凡庸かなと思ったら、「鳳凰文八角大壺」は、牡丹と鳳凰を描くのに、まるでシルエットだけでよしとするかのように、濃い青絵具をボテボテと置く。清朝の巧緻な青花とは対極の世界だ。
東博で「伊万里」の魅力に目覚めた方は、ぜひこちらにも足を運んでほしいと思う。
http://www.matsuoka-museum.jp/
上記サイトにも掲載されているポスターを見たとき、うわっ、これはすごいぞ、という予感がした。古九谷2点、柿右衛門2点、金襴手2点の写真を並べているのだが、「どうだ」と言わんばかりの名品揃いである。
そして、期待は裏切られなかった。展示は、時代順に、古九谷・柿右衛門・金襴手と進むのだが、逸品揃いで、気を抜ける作品が無い。やっぱり、こういうとき、個人コレクションを基礎に発展した博物館は強いなあ。これが、先日の「伊万里と京焼(東京国立博物館)」だと、各時代・各様式の基準作が揃っていて、伊万里陶磁器の展開を、”お勉強”するには好都合だった。しかし、この展示会で見る作品は、いずれもハナから”基準作”を超えていて、比較や類推を拒絶するものが多い。ひとつひとつ、制作者の芸術的創造性に脱帽するのみである。
だから、レビューをするのは難しいが、あえて印象的な作品をあげると、古九谷の青手では「無花果文平鉢」がイチ押し。縁(ふち)文様を施さず、皿いっぱいに絵を描く。キッカイな姿の太湖石(?)が横たわり、その上を無花果(イチジク)の葉と、たわわな果実が埋めている。たとえ純真無垢な子供に描かせても、こうは描けないだろうという大胆さだ。
構図の大胆さは、時代や様式を超えて、伊万里の陶磁器を貫く特徴だと思う。たとえば、古九谷の1つ(青手ではない)は、魚眼レンズを覗いたように、大地が右斜め上にあり、視界を水平に横切る梅の枝に小鳥がとまっている。また徳利の頸の部分まで羽根を伸ばす孔雀など。平易で親しみやすいといわれる柿右衛門様式でも、よく見ると、ずいぶん大胆なデフォルメと様式化を施している。
色絵に比べて、伊万里の染付(青花)は、やや凡庸かなと思ったら、「鳳凰文八角大壺」は、牡丹と鳳凰を描くのに、まるでシルエットだけでよしとするかのように、濃い青絵具をボテボテと置く。清朝の巧緻な青花とは対極の世界だ。
東博で「伊万里」の魅力に目覚めた方は、ぜひこちらにも足を運んでほしいと思う。
○東京国立博物館 特集陳列『武芸-鷹狩、犬追物-』
http://www.tnm.jp/
先週末、国立博物館に行った。時間があったら「北斎展」にも寄ってみようかな、と思っていたが、とんでもない話だった。午後4時の時点で「70分待ち」って、どうするのかと思っていたら、閉館を6時まで延長したらしい。
まあ、いいや~。今日の私のお目当ては、特集陳列の「鷹狩、犬追物」である。先日、通りすがりに、ちらっと見て、もう一度、ゆっくり見に来ようと思っていたものだ。写真は「武田流犬追物雛形」である。机上訓練をするための紙人形だ。役目の異なる何十人もの登場人物が、装束や持ち物も、丹念に描き込まれている(もちろん裏側も)。
この「日本の博物学シリーズ」は、本館1階のウラ通りの展示室で行われているもので、文書(もんじょ)や書籍が中心、たまに絵図が混じるくらいの地味な展示だが、私はいつも興味深く見ている。
今回も、たとえば鷹匠が鷹を湯浴み(水浴びか?)させたあと、大事に白布にくるんで水気を拭いてやっている図とか、鷹に与えるためのウサギの縛り方とか、「将軍家駒場鷹狩図」では、勇壮な鷹狩に挑む武士たちの輪の中に、大鍋で食事の用意をする炊事係なども描かれていて、実におもしろかった。あと、洋犬が入り込む前の標準的な日本犬の姿。尻尾はきりりと巻いているけど、耳は垂れているのね。
また、言葉だけでは伝えにくい有職故実を伝えるための、苦心の数々も面白い。今なら、さまざまな材料を用いることが可能だが、当時は、二次元にしても三次元にしても、素材は紙しかなかったわけだ。下図は、犬追物に使う、馬上沓(くつ)の紙模型。
展示は今週末(11日)まで。担当研究員に声援を送る意味で、宣伝しておく。
http://www.tnm.jp/
先週末、国立博物館に行った。時間があったら「北斎展」にも寄ってみようかな、と思っていたが、とんでもない話だった。午後4時の時点で「70分待ち」って、どうするのかと思っていたら、閉館を6時まで延長したらしい。
まあ、いいや~。今日の私のお目当ては、特集陳列の「鷹狩、犬追物」である。先日、通りすがりに、ちらっと見て、もう一度、ゆっくり見に来ようと思っていたものだ。写真は「武田流犬追物雛形」である。机上訓練をするための紙人形だ。役目の異なる何十人もの登場人物が、装束や持ち物も、丹念に描き込まれている(もちろん裏側も)。
この「日本の博物学シリーズ」は、本館1階のウラ通りの展示室で行われているもので、文書(もんじょ)や書籍が中心、たまに絵図が混じるくらいの地味な展示だが、私はいつも興味深く見ている。
今回も、たとえば鷹匠が鷹を湯浴み(水浴びか?)させたあと、大事に白布にくるんで水気を拭いてやっている図とか、鷹に与えるためのウサギの縛り方とか、「将軍家駒場鷹狩図」では、勇壮な鷹狩に挑む武士たちの輪の中に、大鍋で食事の用意をする炊事係なども描かれていて、実におもしろかった。あと、洋犬が入り込む前の標準的な日本犬の姿。尻尾はきりりと巻いているけど、耳は垂れているのね。
また、言葉だけでは伝えにくい有職故実を伝えるための、苦心の数々も面白い。今なら、さまざまな材料を用いることが可能だが、当時は、二次元にしても三次元にしても、素材は紙しかなかったわけだ。下図は、犬追物に使う、馬上沓(くつ)の紙模型。
展示は今週末(11日)まで。担当研究員に声援を送る意味で、宣伝しておく。
○高島俊男『中国の大盗賊・完全版』(講談社現代新書) 講談社 2004.10
高島俊男は、丸谷才一さんが推す執筆者のひとりである。本書の元版が出たのは1989年のことだという。講談社から、四百字づめ270枚で新書の執筆依頼を受けた著者は、気がついたら420枚も書いてしまった。しかたがないので、大胆非情な削減を施し、270枚の原稿を作り直した。
もとの原稿は、「最後の盗賊王朝中華人民共和国」(著者)と、創業皇帝・毛沢東を書くのが主題で、歴代の盗賊王朝は、その前史のつもりだった。しかし、当時はまだ社会主義の未来を信じている人も多かったし、中国を否定的に見ることに対する反発感情も強かったので、毛沢東を扱った部分は、まるまる廃棄せざるを得なかった。それから15年間、ダンボール箱に眠っていた旧稿が、再び陽の目を見ることになったのが、本書である、という。
私は、以前、本書の旧版を読んだ記憶がある。なので、書店に並んだ『完全版』を見ても、もう一回、読み直そうとは、なかなか思わなかった。しかし、たまたま立ち読みした「あとがき」で上記の経緯を知って、読んでみることにした。
なるほど、面白い。旧版と重複する、漢高祖・劉邦、明太祖・朱元璋、李自成、洪秀全らを扱った部分も、小気味よくてサクサク読めるが、15年前の旧稿そのままだという毛沢東の章は抜群である。たぶん中国史をよく知らない者が読んでも楽しめると思うが、少し知っていて読むと、「見立て」の芸に、いちいち膝を打ちたくなる。
いちばん恐れ入ったのは、中華人民共和国と明王朝の「見立て」。創業皇帝・毛沢東は太祖・朱元璋である。しかし、中華人民共和国において、党と国家の路線を市場経済の方向に大転換する英断を下したのは、(華国鋒に続く)第三代皇帝の小平だった。これは、明帝国の第三代成祖永楽帝が、創業皇帝の遺志に背くことによって成功し、国家を(ただし、全く別の国家として)生きながらえさせたことに似ている。
それから、毛沢東支配下の中国が、マルクス主義を受け入れた理由。中国では二千年以上にわたって儒家の経典が絶対万能の書だった。二十世紀になって儒教そのものは否定されたが「真理をしるした書物というよりどころを求める習性」は急にはなくならなかった。その間隙を埋めたのが、「革命経典」マルクス主義だったのである。著者は、この傍証を、中国における書物の分類法に求める。それは「より正しい、より尊い本から順に並べてゆく」のである。
こんな調子であるが、本書は決して、反中国・嫌中国の立場から、毛沢東と共産党中国を「否定的」に捉えたものではない。毛沢東に関しては、抜群の腕力、胆力、統率力を評価し、かつ、彼のように、詩文の才と文化的教養を備えた開国皇帝は、「古来一人もいなかった」と称える。さらに、「毛沢東の伝記はおもしろい。(略)こいつの前では朱元璋も李自成もケチなコソ泥くらいに見えてくるという大盗賊が、中国をムチャクチャに引っかきまわすという、一般中国人にとっては迷惑千万の歴史がおもしろいのである」と、大絶賛(!?)を惜しまない。そして、こういう毛沢東評価は、日本の中国学者の独創ではなく、本場の中国人にとっては、至極当たり前のものなのではないかと思う(時代と社会情勢によって、大きい声で言うか言わないかの差はあれ)。
ただし、付け加えておけば、著者は、毛沢東と共産党の中国支配を「肯定」しているわけではない。著者は、中国人を「天性自由の民である」と見る。だから、(統制好きの日本人と違って)てんでばらばらに好きなことをやらせてこそ本領を発揮する国民から、徹底的に自由を奪った共産党支配の十数年は、中国にとって、まことに不幸な歳月だった、と評してる。でも「おもしろい」んだよなあ、この二十世紀の"盗賊王朝"のハチャメチャの歴史...
高島俊男は、丸谷才一さんが推す執筆者のひとりである。本書の元版が出たのは1989年のことだという。講談社から、四百字づめ270枚で新書の執筆依頼を受けた著者は、気がついたら420枚も書いてしまった。しかたがないので、大胆非情な削減を施し、270枚の原稿を作り直した。
もとの原稿は、「最後の盗賊王朝中華人民共和国」(著者)と、創業皇帝・毛沢東を書くのが主題で、歴代の盗賊王朝は、その前史のつもりだった。しかし、当時はまだ社会主義の未来を信じている人も多かったし、中国を否定的に見ることに対する反発感情も強かったので、毛沢東を扱った部分は、まるまる廃棄せざるを得なかった。それから15年間、ダンボール箱に眠っていた旧稿が、再び陽の目を見ることになったのが、本書である、という。
私は、以前、本書の旧版を読んだ記憶がある。なので、書店に並んだ『完全版』を見ても、もう一回、読み直そうとは、なかなか思わなかった。しかし、たまたま立ち読みした「あとがき」で上記の経緯を知って、読んでみることにした。
なるほど、面白い。旧版と重複する、漢高祖・劉邦、明太祖・朱元璋、李自成、洪秀全らを扱った部分も、小気味よくてサクサク読めるが、15年前の旧稿そのままだという毛沢東の章は抜群である。たぶん中国史をよく知らない者が読んでも楽しめると思うが、少し知っていて読むと、「見立て」の芸に、いちいち膝を打ちたくなる。
いちばん恐れ入ったのは、中華人民共和国と明王朝の「見立て」。創業皇帝・毛沢東は太祖・朱元璋である。しかし、中華人民共和国において、党と国家の路線を市場経済の方向に大転換する英断を下したのは、(華国鋒に続く)第三代皇帝の小平だった。これは、明帝国の第三代成祖永楽帝が、創業皇帝の遺志に背くことによって成功し、国家を(ただし、全く別の国家として)生きながらえさせたことに似ている。
それから、毛沢東支配下の中国が、マルクス主義を受け入れた理由。中国では二千年以上にわたって儒家の経典が絶対万能の書だった。二十世紀になって儒教そのものは否定されたが「真理をしるした書物というよりどころを求める習性」は急にはなくならなかった。その間隙を埋めたのが、「革命経典」マルクス主義だったのである。著者は、この傍証を、中国における書物の分類法に求める。それは「より正しい、より尊い本から順に並べてゆく」のである。
こんな調子であるが、本書は決して、反中国・嫌中国の立場から、毛沢東と共産党中国を「否定的」に捉えたものではない。毛沢東に関しては、抜群の腕力、胆力、統率力を評価し、かつ、彼のように、詩文の才と文化的教養を備えた開国皇帝は、「古来一人もいなかった」と称える。さらに、「毛沢東の伝記はおもしろい。(略)こいつの前では朱元璋も李自成もケチなコソ泥くらいに見えてくるという大盗賊が、中国をムチャクチャに引っかきまわすという、一般中国人にとっては迷惑千万の歴史がおもしろいのである」と、大絶賛(!?)を惜しまない。そして、こういう毛沢東評価は、日本の中国学者の独創ではなく、本場の中国人にとっては、至極当たり前のものなのではないかと思う(時代と社会情勢によって、大きい声で言うか言わないかの差はあれ)。
ただし、付け加えておけば、著者は、毛沢東と共産党の中国支配を「肯定」しているわけではない。著者は、中国人を「天性自由の民である」と見る。だから、(統制好きの日本人と違って)てんでばらばらに好きなことをやらせてこそ本領を発揮する国民から、徹底的に自由を奪った共産党支配の十数年は、中国にとって、まことに不幸な歳月だった、と評してる。でも「おもしろい」んだよなあ、この二十世紀の"盗賊王朝"のハチャメチャの歴史...
○根津美術館 特別展『筑前 高取焼 -古高取と遠州高取-』
http://www.nezu-muse.or.jp/
今回の特別展はパスしてもいいかなあ、と思っていた。高取焼って地味だし。そうしたら、ある筋より、「今ね、第二展示室には南北朝の仏画がずらっと出てるよ」という耳寄り情報を聞いてしまった。それは見逃すわけにはいかない...というわけで、今回は、どちらかというと常設展にひかれてやって来た。
とは言え、まず特別展である。高取焼は、江戸時代初期、筑前福岡藩の藩窯として開窯したもの。入口付近には、小さな長円形の茶入れがずらりと並ぶ。濃茶の地肌が、自然石そのもののようだ。握れば手のひらに、ひやりとした感触が伝わってくるに違いない。どれも同じような色調で、飽きるかなと思ったが、意外と飽きない。わずかな釉薬の垂れ具合が、山水画を見ているようで面白い。これって、私はいつの間にか、石を愛でる文人の極意を体得してしまったのかも。
順路の途中で、突然、大型の花入や水指が登場する。円満であるべき筒胴を、わざとへこませたり、ひしゃげたりしたモダンなデザインなので、おや、現代作家の作品かな?と思って、よく見たら、プレートに「early 17th century」とある。びっくりした。さらに茶碗になると、いったい、普通の茶碗を作る気があったのか、なかったのか、聞いてみたいような大胆奇抜なデザインが頻出する。Wikipediaによれば、この「歪みを取り込んで」「芸術性より興趣をそそる志向」が「古高取」の特徴だそうだ。
それから、第二室へ。なるほど、片側の壁一面に、室町・南北朝の仏画が勢揃いしている。『釈迦三尊十六善神像』が2枚。この、さまざまなキャラクターを盛り合わせたお買い得感が南北朝だ。1枚は、赤やピンクなど暖色系の残りが目立つ。文殊菩薩の獅子をはじめ、目の大きい、愛嬌のある顔をしたキャラが多い。もう1枚は、緑、青、金など、多様な色彩がよく残っている。その隣、龍の背に立つ「明星天子」は何者だか分からないし(虚空蔵菩薩の脇侍らしい)、さらに隣、よく肥えた弁財天の後ろに、蔵王権現と役行者が並んで控えているのはなぜ? という具合で、謎だらけ。いちいち頭をひねるのが、楽しい。
最後に、第二室の天井桟敷のギャラリーに上がった。畳敷きのオツな展示ケースは、ふだんは茶道具の展示が多いところだが、なぜか今期は塗り盆に徳利と酒杯が組み合わせて並んでいる。「まあ、仏画でも見ながらおひとつ」と誘われているようで笑ってしまった。ありがたく杯を受けたい気分だった。庭の紅葉も、もうしばらくは見頃。
http://www.nezu-muse.or.jp/
今回の特別展はパスしてもいいかなあ、と思っていた。高取焼って地味だし。そうしたら、ある筋より、「今ね、第二展示室には南北朝の仏画がずらっと出てるよ」という耳寄り情報を聞いてしまった。それは見逃すわけにはいかない...というわけで、今回は、どちらかというと常設展にひかれてやって来た。
とは言え、まず特別展である。高取焼は、江戸時代初期、筑前福岡藩の藩窯として開窯したもの。入口付近には、小さな長円形の茶入れがずらりと並ぶ。濃茶の地肌が、自然石そのもののようだ。握れば手のひらに、ひやりとした感触が伝わってくるに違いない。どれも同じような色調で、飽きるかなと思ったが、意外と飽きない。わずかな釉薬の垂れ具合が、山水画を見ているようで面白い。これって、私はいつの間にか、石を愛でる文人の極意を体得してしまったのかも。
順路の途中で、突然、大型の花入や水指が登場する。円満であるべき筒胴を、わざとへこませたり、ひしゃげたりしたモダンなデザインなので、おや、現代作家の作品かな?と思って、よく見たら、プレートに「early 17th century」とある。びっくりした。さらに茶碗になると、いったい、普通の茶碗を作る気があったのか、なかったのか、聞いてみたいような大胆奇抜なデザインが頻出する。Wikipediaによれば、この「歪みを取り込んで」「芸術性より興趣をそそる志向」が「古高取」の特徴だそうだ。
それから、第二室へ。なるほど、片側の壁一面に、室町・南北朝の仏画が勢揃いしている。『釈迦三尊十六善神像』が2枚。この、さまざまなキャラクターを盛り合わせたお買い得感が南北朝だ。1枚は、赤やピンクなど暖色系の残りが目立つ。文殊菩薩の獅子をはじめ、目の大きい、愛嬌のある顔をしたキャラが多い。もう1枚は、緑、青、金など、多様な色彩がよく残っている。その隣、龍の背に立つ「明星天子」は何者だか分からないし(虚空蔵菩薩の脇侍らしい)、さらに隣、よく肥えた弁財天の後ろに、蔵王権現と役行者が並んで控えているのはなぜ? という具合で、謎だらけ。いちいち頭をひねるのが、楽しい。
最後に、第二室の天井桟敷のギャラリーに上がった。畳敷きのオツな展示ケースは、ふだんは茶道具の展示が多いところだが、なぜか今期は塗り盆に徳利と酒杯が組み合わせて並んでいる。「まあ、仏画でも見ながらおひとつ」と誘われているようで笑ってしまった。ありがたく杯を受けたい気分だった。庭の紅葉も、もうしばらくは見頃。
○紀田順一郎『カネが邪魔でしょうがない―明治大正・成金列伝』(新潮選書) 新潮社 2005.7
社会変動の激しかった明治大正期、運と度胸と才覚を元手に、一代で巨万の富を築いた人々がいた。本書は、鹿島清兵衛、鈴木久五郎、大倉喜八郎、岩谷松平、雨宮敬二郎、木村荘平らを取り上げる。
彼らは、必ずしも貧困のどん底から這い上がってきた人物ではない。天狗煙草の岩谷松平は、父母に死別したあと、小僧同然の待遇で養家で育てられ、幼年期に苦労をしているが、大倉喜八郎は越後国新発田の大庄屋の生まれだった。鹿島清兵衛は江戸有数の酒問屋の婿養子で、典型的な大家のドラ息子ある。
また、彼らの人生の軌跡もさまざまである。戊辰戦争に際して、文字通り白刃の下を掻い潜り、冒険小説もどきの前半生を送った大倉喜八郎。何度も大損を繰り返し、七転び八起きで還暦の大祝宴を開くに至った遅咲きの雨宮敬二郎。「成金」の語源とも言われながら、30歳で破産し、困窮の後半生を送った鈴木久五郎。
ただ、彼らに共通するのは、富を手に入れたあとの蕩尽ぶりである。豪邸を構え、愛人を囲い、有名どころの芸妓を総揚げする。それも、揃いの法被で練り歩くとか、お座敷列車を借り切って京都まで大宴会なんてのは大人しいほうで、丸裸にして札束を拾わせるだの、相撲を取らせるだのという馬鹿馬鹿しさ。ロウソク代わりに百円札を燃やしたという逸話は、嘘かほんとか分からないが、時には巨大な人工富士を造って宴客を楽しませ、時には朝鮮に虎狩りに行くなど、何か、強迫的な富の蕩尽を繰り返す。
なぜ、この国では、自分の名を冠した公共施設や美術館・図書館の建設を考えるような財界人が、極めて少ないのか(大倉美術館や商業学校を残した大倉喜八郎は、稀有な例外)。なぜ一流の学校を出た教養人が、小金を握れば女遊び、ドンチャン騒ぎの愚挙を演じるのか。この点には海外の日本研究家も疑問を抱くという。
うーん。うまく言えないのだが、確かに、我々の世間には、堅実な公共投資よりも、カーニバル的な蕩尽を求める、狡猾な欲望がある。子孫代々富み栄えることより、鹿島清兵衛や鈴木久五郎のように、富貴の絶頂から素寒貧に落ちる人生を愛惜する(一面では寿ぐ?)気持ちがある。それは、果たして本書のあとがきのように「ネガの心性」と言い切れるものなのか。あるいは「一期は夢よ、ただ狂え」と歌った古人の遺伝子なのだろうか。
それから、成金たちが、徹底して女性を蕩尽の対象として扱う態度を見ていると、近代日本では、政治よりも学術よりも、もしかしたら軍事よりも、実業の世界に女性が1個の人間として入り込むのって困難だったんじゃないか、と感じた。この点は、少し社会が変わったと信じたい。
なお、本書は雑誌『風俗画報』の図版を、しばしば挿絵に用いている。この雑誌、面白いなー。ゆまに書房からCD-ROM版が出ているが、全11枚で22万円か...
社会変動の激しかった明治大正期、運と度胸と才覚を元手に、一代で巨万の富を築いた人々がいた。本書は、鹿島清兵衛、鈴木久五郎、大倉喜八郎、岩谷松平、雨宮敬二郎、木村荘平らを取り上げる。
彼らは、必ずしも貧困のどん底から這い上がってきた人物ではない。天狗煙草の岩谷松平は、父母に死別したあと、小僧同然の待遇で養家で育てられ、幼年期に苦労をしているが、大倉喜八郎は越後国新発田の大庄屋の生まれだった。鹿島清兵衛は江戸有数の酒問屋の婿養子で、典型的な大家のドラ息子ある。
また、彼らの人生の軌跡もさまざまである。戊辰戦争に際して、文字通り白刃の下を掻い潜り、冒険小説もどきの前半生を送った大倉喜八郎。何度も大損を繰り返し、七転び八起きで還暦の大祝宴を開くに至った遅咲きの雨宮敬二郎。「成金」の語源とも言われながら、30歳で破産し、困窮の後半生を送った鈴木久五郎。
ただ、彼らに共通するのは、富を手に入れたあとの蕩尽ぶりである。豪邸を構え、愛人を囲い、有名どころの芸妓を総揚げする。それも、揃いの法被で練り歩くとか、お座敷列車を借り切って京都まで大宴会なんてのは大人しいほうで、丸裸にして札束を拾わせるだの、相撲を取らせるだのという馬鹿馬鹿しさ。ロウソク代わりに百円札を燃やしたという逸話は、嘘かほんとか分からないが、時には巨大な人工富士を造って宴客を楽しませ、時には朝鮮に虎狩りに行くなど、何か、強迫的な富の蕩尽を繰り返す。
なぜ、この国では、自分の名を冠した公共施設や美術館・図書館の建設を考えるような財界人が、極めて少ないのか(大倉美術館や商業学校を残した大倉喜八郎は、稀有な例外)。なぜ一流の学校を出た教養人が、小金を握れば女遊び、ドンチャン騒ぎの愚挙を演じるのか。この点には海外の日本研究家も疑問を抱くという。
うーん。うまく言えないのだが、確かに、我々の世間には、堅実な公共投資よりも、カーニバル的な蕩尽を求める、狡猾な欲望がある。子孫代々富み栄えることより、鹿島清兵衛や鈴木久五郎のように、富貴の絶頂から素寒貧に落ちる人生を愛惜する(一面では寿ぐ?)気持ちがある。それは、果たして本書のあとがきのように「ネガの心性」と言い切れるものなのか。あるいは「一期は夢よ、ただ狂え」と歌った古人の遺伝子なのだろうか。
それから、成金たちが、徹底して女性を蕩尽の対象として扱う態度を見ていると、近代日本では、政治よりも学術よりも、もしかしたら軍事よりも、実業の世界に女性が1個の人間として入り込むのって困難だったんじゃないか、と感じた。この点は、少し社会が変わったと信じたい。
なお、本書は雑誌『風俗画報』の図版を、しばしば挿絵に用いている。この雑誌、面白いなー。ゆまに書房からCD-ROM版が出ているが、全11枚で22万円か...
○紀伊国屋書店BOOKLOG「書評空間」
http://booklog.kinokuniya.co.jp/
丸谷さんの書評を読んだついでに、紀伊国屋書店の「書評空間」をほめておきたい。同サイトの「ブックログ宣言」は、紀伊国屋が「プロの読み手による書評ブログ」を開設する理由を(私なりに要約すると)以下のように語る。
いま、多くの書評は、膨大な新刊書をやみくもに追いかけ、それを効果的にプロモーションすることが主眼となっている。しかし、我々が本当に必要としている情報は、書評子がどんな趣味の持ち主で、どんな生活をおくっており、その書籍を、どういう興味で読んだか、ということなのではないか。 書評子に対する信頼と親近感があってこそ、その書評は、我々が本を選ぶ参考になる。そこで、同サイトは、「たくさんの書籍を日常的に購入している専門の方(=プロの読み手)にご登場いただき、(ブログを通じて)書籍をどう読んだかをご紹介いただこう」と考えたのだという。
この考えかたは丸谷さんと共通する。丸谷さんは前掲書の冒頭インタビューで、本を選ぶときは、プロの書評家として選ぶのか、それともまず自分が読みたいものから読むのか、と聞かれて、「僕はなるべく内心の欲求から本を読むようにしています」「近頃はこの傾向が流行っているか(略)そういうことは考えないで」「自分の内部にいる読者を大事にする」と答えている。その結果、彼の書評は、「ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙」(前掲書のオビ)になっている。結局、本読みにとって、いちばん価値ある書評とは、こういう、いくぶん私信めいたものなのだ。
紀伊国屋の「書評空間」が、いつから始まったのか、私は知らない。各執筆者のアーカイブを覗いてみると、例外的に2004年の記事を持つものもあるが、おおむね2005年以降に立ち上がったブログである。特にこの夏以降、続々と新しい書き手が増えているように思う。
個人的によく見にいくのは、大阪市立大学大学の早瀬晋三さんのサイト。東洋史の先生なので、取り上げる本が、いちいち私の琴線に触れる。実は全然存じ上げない方だったが、この書評ブログで、すっかりファンになってしまった。哲学者の中山元さん、国文学の紅野謙介さんのサイトも、ときどきチェックを入れている。
ところで、この記事を書くにあたり、ほかの書店はどうなのかな?と思って、大手書店のサイトをいくつか覗いてみたが、紀伊国屋の「書評空間」に比肩できるページを作っているところは見つからなかった。う~ん、ネットでできることはオンラインショッピングだけじゃないよ。ほかの書店もがんばれ。
*三省堂 http://www.books-sanseido.co.jp/
*丸善 http://pub.maruzen.co.jp/
*有隣堂 http://www.yurindo.co.jp/
*ジュンク堂 http://www.junkudo.co.jp/
http://booklog.kinokuniya.co.jp/
丸谷さんの書評を読んだついでに、紀伊国屋書店の「書評空間」をほめておきたい。同サイトの「ブックログ宣言」は、紀伊国屋が「プロの読み手による書評ブログ」を開設する理由を(私なりに要約すると)以下のように語る。
いま、多くの書評は、膨大な新刊書をやみくもに追いかけ、それを効果的にプロモーションすることが主眼となっている。しかし、我々が本当に必要としている情報は、書評子がどんな趣味の持ち主で、どんな生活をおくっており、その書籍を、どういう興味で読んだか、ということなのではないか。 書評子に対する信頼と親近感があってこそ、その書評は、我々が本を選ぶ参考になる。そこで、同サイトは、「たくさんの書籍を日常的に購入している専門の方(=プロの読み手)にご登場いただき、(ブログを通じて)書籍をどう読んだかをご紹介いただこう」と考えたのだという。
この考えかたは丸谷さんと共通する。丸谷さんは前掲書の冒頭インタビューで、本を選ぶときは、プロの書評家として選ぶのか、それともまず自分が読みたいものから読むのか、と聞かれて、「僕はなるべく内心の欲求から本を読むようにしています」「近頃はこの傾向が流行っているか(略)そういうことは考えないで」「自分の内部にいる読者を大事にする」と答えている。その結果、彼の書評は、「ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙」(前掲書のオビ)になっている。結局、本読みにとって、いちばん価値ある書評とは、こういう、いくぶん私信めいたものなのだ。
紀伊国屋の「書評空間」が、いつから始まったのか、私は知らない。各執筆者のアーカイブを覗いてみると、例外的に2004年の記事を持つものもあるが、おおむね2005年以降に立ち上がったブログである。特にこの夏以降、続々と新しい書き手が増えているように思う。
個人的によく見にいくのは、大阪市立大学大学の早瀬晋三さんのサイト。東洋史の先生なので、取り上げる本が、いちいち私の琴線に触れる。実は全然存じ上げない方だったが、この書評ブログで、すっかりファンになってしまった。哲学者の中山元さん、国文学の紅野謙介さんのサイトも、ときどきチェックを入れている。
ところで、この記事を書くにあたり、ほかの書店はどうなのかな?と思って、大手書店のサイトをいくつか覗いてみたが、紀伊国屋の「書評空間」に比肩できるページを作っているところは見つからなかった。う~ん、ネットでできることはオンラインショッピングだけじゃないよ。ほかの書店もがんばれ。
*三省堂 http://www.books-sanseido.co.jp/
*丸善 http://pub.maruzen.co.jp/
*有隣堂 http://www.yurindo.co.jp/
*ジュンク堂 http://www.junkudo.co.jp/