見もの・読みもの日記

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呑んで食って/居酒屋の誕生(飯野亮一)

2014-10-02 22:48:05 | 読んだもの(書籍)
○飯野亮一『居酒屋の誕生:江戸の呑みだおれ文化』(ちくま学芸文庫) 筑摩書房 2014.8

 江戸に幕府が開かれると、参勤交代で出仕する武士のほか、たくさんの人が集まってきた。その多くは男性で、江戸は男性都市としてスタートした。というのが、本書の書き出しである。したがって、江戸には早くから「酒を売る店」が出現した。寛永年間の『江戸図屏風』には酒屋が確認できる。そして、独り者には、量り売りの酒屋よりも、軽い食事といっしょに「居酒」できるお店がありがたい。「居酒」という言葉がみられるようになるのは元禄時代(1688-1704)、「居酒屋」の名称は、寛延年間(1748-51)頃から使われ出した。こんな調子で、実にきびきびと、知らなかった事実が明らかになる。博引傍証だが、雑学の迷路には陥らない。

 江戸の町づくりの画期となったのが明暦の大火(1657)。大火の後、復興事業にかかわる人夫や職人たちの食生活を支えたのが、煮物や焼物(団子や田楽)の簡単な食事、湯茶や酒を提供する「煮売茶屋」だった。しかし、煮売茶屋があまりに増えすぎたため、幕府は火災予防の観点から、夜間営業の禁止措置を取る。この頃、灯火原料の菜種の栽培が大阪周辺で盛んになり、「下りもの」として大量に江戸に流入するようになった。庶民が夜間に出歩き、外食を楽しむことが始まっていたのである。元禄12年(1662)には、ついに店舗での夜間営業が認められる(担い売りは禁止)。この「煮売茶屋」が酒も提供するようになり、一方、居酒屋が酒の肴を充実させるようになって、現在の居酒屋の先祖のような商売形態が生まれていく。

 だいたい年代に即した概略史のあとに、いろいろ個別テーマが取り上げられているが、どれも面白い。江戸で飲まれていたのは、上方から船で運ばれてきた「下り酒」だったが、波に揺られることで「酒の性(しょう)やはらぎ」旨みが増すと考えられた。上方では、伊丹や池田の酒を、いったん江戸に運び、また戻して賞味することも行われていたという。面白いなあ。酒飲みの、こういう面倒くさいところが好きだ。

 酒といっしょにどういう料理(肴)が提供されていたかは、いちばん興味のあるところ。代表的なのは「芋の煮ころばし」か。「いも酒や」という営業形態があるくらいだ。『すずしろ日記』の山口晃さんも、芋をつまみに飲むのが好きと書いていなかったかな。それから鍋料理。二人か三人の「小鍋立」が主流だった。この獣肉に関する章は、もう少し敷衍して、1冊の本にしてほしい。江戸時代の鶏肉は硬かったので、鍋料理向きで、焼き鳥には向いていなかった。幕末から明治にかけて、流行は、鳥鍋から牛鍋へ移り変わる。いっとき、豚鍋も出現するが、江戸の豚は食用ではなく、主に外科医が実験用に飼っていた。へえ~。

 湯豆腐、から汁(おからの味噌汁)、卵焼き、刺し身なども見られる。ねぎま(葱と鮪の鍋)は定番料理。変わったところで、ふぐ汁、ふぐのすっぽん煮、安康汁も。まぐろは「下魚」だったんだなあ。「まぐろ売りおろすと犬が寄って来る」って、ひどい言われよう。

 遊里帰りの客を見込んで、オールナイトはもちろん、早朝も営業していたり、昼時は長屋の女房たちがテイクアウトして帰って酒盛りを始めたり、居酒屋は働き者である。注文は「○文の酒を○合」という具合に、酒の値段と量をいう。「こなから(小半=半分の半分=二合五勺)」というのがよく使われる単位で、「四文(しんもん)こなから」というのは、安酒を注文するときの常套句だそうだ。面白い~。使う場面はないだろうが、覚えておこう。

 古来、日本人は、冬の一時期を除き、冷酒を飲むことが普通だったが、16世紀後半に清酒が生まれると、オールシーズン燗酒を飲むようになった。この典拠はロドリゲスの『日本教会史』。江戸時代はチロリで燗をするのが一般的だったが、幕末になると燗徳利(お銚子)が普及する。『東海道四谷怪談』(1825)は「かんどくり」の早い用例が見られるという。あと、居酒屋は、夫婦で営む場合もあったが、一般的に店員は男性ばかりだったとか、江戸時代には(高級店でも)座布団を敷いて飲食することはなかったとか、料理を入れた食器を盆に載せ、じかに座敷や床几の上に置くのが江戸時代のスタイルで、テーブルや食卓を使用して飲食するのはあり得ない、という指摘も、挿絵を見ながら、ふむふむと納得。

 著者の飯野亮一氏は、食文化史研究家。服部栄養専門学校理事・講師というのが「職業」になるのだろう。食文化関係の辞典の共著者になっているが、これまで単著の著作はないようだ。本書の「おわりに」によれば、江戸の居酒屋について一冊の本にまとめてみたいと考えて史料集めをし、原稿作りをしてきたが、特に「どこから出版しようとは考えていなかった」とのこと。出版を考えずに、これだけの量と質を備えた研究をまとめていたことに驚く。幸せな研究スタイルというものかもしれない。そんな著者に出版を勧めてくれた研究者仲間、編集者の存在があって、本書は「書き下ろし」として、ちくま学芸文庫に入った。いやーこんな面白い原稿が埋もれなくて、本当によかった。
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2014年9月@東京:菱田春草(東近美)、仏教美術逍遥(金沢文庫)ほか

2014-10-01 23:22:57 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立近代美術館 『菱田春草展』(2014年9月23日~11月3日)

 菱田春草(1874-1911)の生誕140年を記念する回顧展。春草は草創期の東京美術学校を卒業後、岡倉覚三(天心)の日本美術院創立に参加。横山大観、下村観山とともに、明治期の日本画の革新に貢献したが、満37歳の誕生日を目前にして早世した。

 春草といえば、やっぱり『黒き猫』と『落葉』かな。よく行く永青文庫に収蔵されているので、何度か見たことがある。横山大観や下村観山ほど多様な作品が思い浮かばないのは、生涯が短く、さらに眼病にも悩まされ、作品数が多くないためだと初めて認識した。それでも重要文化財4点(『王昭君』『賢首菩薩』『落葉』『黒き猫』)は近代芸術家として最多だそうだ。日本画の大家となった横山大観が「(自分より)春草の方がずっと上手い」と語っていたというエピソードは微笑ましい。二人の個性は、「火」の大観と「氷」の春草に譬えられていたが、正反対だからこそ切磋琢磨し合えるライバルだったのだろう。

 短い生涯の中でも、春草の作品は、何度かスタイルを変えている。古画の模写で腕をみがいた習作時代はさておき、日本画の生命である線を捨てて、空気や光を描くことに挑戦した「朦朧体」。これ、当時の人々にはダメだったんだなあ。現代人の目で見ると、何が駄目なのか、よく分からないけど。ここから春草は、色彩(配色構成)の研究に取り組み、面を、結果的に線を取り戻していく。残された時間がもう少しあれば、さらに変化する画風が見られたのではないか。私は『春丘』『荒磯』『紅葉山水』など、大きな風景を描いた作品が好きなので、眼病が悪化したあと、春草が身近な自然を描くことに喜びを見出した気持ちは分かるが、もう一度、大きな風景を描いてほしかった、と惜しまれる。

 永青文庫の『黒き猫』が後期出品(10/15~)だというのは分かっていたが、黒いチビ猫が木の根元に下り立ったところを描いた『柿に猫』という作品が出ていると知ったので、これを見たくて出かけた。なかなか同作品が出てこないので、どうしたのかなと思っていたら、展覧会の最後が「猫特集」になっていた。『黒き猫』が有名になったあと、春草のところには、猫を描いてくれという注文が殺到したのだそうだ。高橋由一の『鮭』もそうだったが、美術ファンってしょうがないなあ。

 春草は、頭に黒ぶちのある白猫も何度か描いている。これは、伝徽宗帝筆『猫図』(かつて益田鈍翁が所蔵)を意識したものだ。『猫に烏』の真っ白な猫も好き。播磨屋本店(おかきの?)所蔵『黒猫』の、威嚇するように背中の毛をふくらませた黒猫もかわいい。最後は、ほとんど「猫を愛でる」ためのコーナーである。

 なお、俳優の田辺誠一さん(画伯!)による音声ガイドはおすすめ。会場内の解説だけでは追い切れない、作家と作品のエピソードを詳しく紹介していて、泣ける。

神奈川県立金沢文庫 企画展『仏教美術逍遥』(2014年8月21日~9月28日)

 金沢ゆかりの仏教美術(仏像、仏画、工芸品、文書類など)約50点を紹介。1階入口に、大善寺(横須賀市)の天王立像二体(平安時代)が展示されていた。両手を振り動かすようなポーズ。こういうのを「平泉式」というのか。確かに、むかし岩手県に見仏旅行に行ったとき、踊るような天王像をいくつも見た。ちなみに二天像は、持国天・多聞天(東大寺の中門式)か持国天・増長天(元興寺、興福寺の中門式)という組み合わせが多いそうだ。

 龍華寺の聖観音菩薩立像も平安時代の古仏だというが、素人には年代判定が難しい。龍華寺所蔵の『図録鈔』は、かなり大型で、塗り絵のように愛らしかった。龍華寺は、金沢文庫から金沢八景に歩く途中、何度か通り過ぎたことのあるお寺である。鎌倉時代の『刺繍諸尊集会像』など、たくさんの寺宝を持っていることをあらためて知った。

 ところで、金沢文庫の次回展、特別展『日向薬師』のポスターには、仏像の顔の部分に白紙を貼り付けて「中止となりました」のお知らせが掲示してあった。さきほど見たら、文庫のサイトも完全休止で「収蔵庫環境整備のため、臨時休館中」となっている。ツイッターの情報がもう少し詳しくて、「館内収蔵庫内の一部にカビが発生し、収蔵庫内の環境を改善するため、しばらく休館することになりました」とのこと。ううむ、ご苦労が思いやられる。

羽田空港ディスカバリーミュージアム 第15回企画展『永青文庫コレクション 平家物語と太平記の世界』(2014年9月13日~12月14日)

 この日は、いつもよりやや早い飛行機で札幌に戻るつもりだったのだが、羽田空港に行ってみると、機材繰り不調のため、出発が1時間ほど遅れるという。こういうときの時間つぶしのためにある(?)のがこの施設。昨年から気になっていたのだが、初めて入館してみた。現在は、江戸時代の絵入り本の「平家物語」と「太平記」、それに「平家物語」に取材した『一の谷合戦図屏風』と『屋島合戦図屏風』を展示。貰ったパンフレットによると、後期(10/28~)から、なんと菱田春草描く『平重盛』が展示されるそうだ。美術学校在学中の習作だというが、ぜひ見たい。

 入館無料。永青文庫は、もちろん自館のPR効果もねらっているのだろうが、いい仕事をしてくれていると思う。
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