後円部 括れ部 の様子もよく判る
前方部の裾から 括れ部 後円部 にかけて見る 少し南部に行けば 六角川が有明海に注いでいる
この川を利用したか・・・大和に向かうには遠回りだ 北に向かうと松浦川の支流に出る これを利用すれば玄海灘から関門海峡を抜け瀬戸内海から難波 大和川へと進むことが出来る 何故 内陸だったのだろう・・・うーむ
後円部 括れ部 の様子もよく判る
前方部の裾から 括れ部 後円部 にかけて見る 少し南部に行けば 六角川が有明海に注いでいる
この川を利用したか・・・大和に向かうには遠回りだ 北に向かうと松浦川の支流に出る これを利用すれば玄海灘から関門海峡を抜け瀬戸内海から難波 大和川へと進むことが出来る 何故 内陸だったのだろう・・・うーむ
括れ部付近に降りて来た
前方部の端から 現在の全長は 30m を測る 後円部の径は 26m を測る
前方部の一部(本来の裾の辺り)は削平されている 本来の全長はもう少し延びるとされる
後円部墳頂付近から前方部とその右手を見る 畑が近接しているが古墳周囲はブロックで囲まれている
括れの部分がお判りになると思う 少し裾が拡がっているかな 墳頂には主体部の痕跡は見当たらない
後円部墳頂付近から裾を見ている
住宅がすぐそこまで接近している
主体部(竪穴式石室)付近 綺麗だろ 蜂が・・・一心不乱だ このごろこの様な光景を見なくなったな
野原なんて見なくなったからな
多蛇古古墳(たいじゃこ と読む)
手前が前方部である 削られている
前方部が後円部よりも低く古いタイプである 説明には5世紀中頃とある 5世紀中頃と言えば 倭の五王の時代である
前方後円墳・・・大和連合の一員であった可能性がある
向かって右の羨門が少し傾いて隙間があるが土圧かもしれないな。
雨戸を開けて中を覗くと・・・おー、今まで見て来た石室とは全く異なるものである。小さな石を積んで石室が造られていたのを御覧になられたであろうからな。ここに埋葬された者が生きていた時期、当該地域はある程度の繁栄を見たのではないか・・裕福になったかもね。