街道を歩く

今まで歩いた街道、町並み、これから歩く街道、町並みを散文的に紹介

御宇田井手の扇形分水 (熊本県)

2019-06-12 00:10:00 | 史跡フォトチャンネル

御宇田井手の扇形分水(熊本県)

 

 

農業には水が欠かせないのは誰もが知っている。水の確保で争いまで起こったことがあることも誰もが知っている。それを公平に分水するにはこの形・・所謂円形が一番であろう。日本遺産構成文化財となったことから周辺を整備しているのかもな。近くに古墳が2基(珠塚古墳平原塚古墳)あるんだ。

 

御宇田井手の扇形分水位置

 

当該ブログの記事は令和1年(2019)6月8日から6月11日までである。

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天津彦彦火瓊瓊杵尊御陵参考地 (宮崎県)

2018-12-22 00:10:00 | 史跡フォトチャンネル

天津彦彦火瓊瓊杵尊御陵参考地(宮崎県)

 

 

宮内省の調査により明治29年、宮崎県東臼杵郡北川町の可愛岳(えのだけ)山麓の古墳を「可愛山陵伝承地」とした。宮内省がどんな調査をしたかは判らぬが・・・うーむ不思議だがな。小さな円墳が目の前にある。よく見ると主体部が抜かれているように見える。治定するならそれらしくすればいいのだがな。ひ孫の吾平山上陵の方が凄いのだがな。下手に漫画チックなことはやめてもらいたいな。
古事記にはこのような記事はない。日本書紀にあっては「日向の可愛の山の陵に葬ったと」あるのだがここを治定はしていない。
西都原古墳群中の男狭穂塚も参考地等としていることを付け加えておこう。

 

天津彦彦火瓊瓊杵尊御陵参考地

 

当該ブログの記事は平成30年(2018)12月6日から21日までである。再度ご観覧あれ。

西郷さんが好きな方は・・賢明なる読者諸氏ならばもう読んでいるかもしれんが・・司馬遼太郎「翔ぶが如く」が面白いだろうな。(我輩の感想だが)

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吾平山上陵 (鹿児島県)

2018-12-05 00:10:00 | 史跡フォトチャンネル

吾平山上陵(鹿児島県)

 

 

「天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は、西洲の宮でおかくれになった。それで日向の吾平山上陵に葬った。」と日本書紀神代下に書かれてあるのだが、古事記にはそのようなことは書かれていないことを記しておく。ただ尊だけではなくその妃である玉依姫尊と一緒である。ご夫婦の陵である。荘厳な雰囲気の中、息を殺して参道を進むと・・まさに神々しくもその姿を見ることが出来る。素晴らしい場所である。伊勢神宮に雰囲気が似ていることから小伊勢と呼ばれているのも肯けるのではないか。おっと、神武天皇の御両親だぞ。この地を小学生が遠足で訪れているのは良いことじゃないか。日本の原点を垣間見ることが出来るのはこの地に生まれたればこそであろう。

 

吾平山上陵位置

 

当該ブログの記事は平成30年(2018)11月20日から始まり12月4日までである。

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早水神社 (宮崎県)

2018-11-11 00:10:00 | 史跡フォトチャンネル

早水神社(宮崎県)

 

 

 古事記

「応神天皇、日向国の諸縣君の女、名は髪長比売、その顔容麗美しと聞こしめして、使ひたまはむとして喚上げたまひし時、云々〜太子大雀命に賜ひき。」とある。

 日本書紀

「応神天皇にある人が申しあげて「日向国に髪長媛という嬢女がいて、諸県の君牛諸井の女です。これは国中での美人です」と言った。天皇は〜髪長媛を召された。〜大鷦鷯尊は大いに喜ばれた」とある。
流れ込む川が見当たらないので・・湧いてくるのだろうな。だから水が澄み切って綺麗なのだろう。その綺麗な水で顔を洗うと美人になると言われるのは肯ける話ではないかな。ただ我輩は男だから・・・うーむ。

 

早水神社位置

 

当該ブログの記事は平成30年(2018)11月5日から10日までである。

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安徳天皇陵 (山口県)

2018-08-05 00:10:00 | 史跡フォトチャンネル

安徳天皇陵(山口県)

 

 

もう少し綺麗に管理してもらいたいものだ。赤間神宮ばかりに目が行きすぎ、殆どの人は赤間神宮にしか行かないのである。我輩からすれば少々残念ではある。少しの隙間から垣間見ると、幼くして崩御されてもやはり天皇陵で、それは八角墳なのである。思わず頭を垂れて合掌してしまう。

 

安徳天皇陵(山口県)位置

 

当該ブログの記事は平成23年(2011)12月10日から17日までである。
         平成29年(2017)7月29日から8月1日までである。

 

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松尾城跡 (福岡県)

2018-06-14 00:10:00 | 史跡フォトチャンネル

松尾城跡(福岡県)

 

 

 

城とはあるが今目にする城ではない。舘と言ったほうが相応しいであろう。これを見るに城の周囲は完全防備である。時代の移り変わりと言うものはさぞや厳しかったであろう。
小山の頂上にそれはある。素晴しく見晴らしがよい。まるで天空の城である。ただ、城主はこの麓に住んでいたのである。さぞや家来は登城するのが嫌だったろうな。この山城は山上に築かれた砦の様に見える。複雑な形ではなく長方形で真ん中に張り出しが設けられている。崖側には櫓の基礎がある。ここまで登ってきた甲斐があったというものであった。山の稜線が気持ちよく冷たい風が汗ばんだ顔に当って心地好い。斜面は急である。当然に下から敵が攻めると言うのは殆ど不可能であろう。ただ周りを固めておけば兵糧攻めで時間をかけて落とすことは出来るかもしれない。周囲はそんなに広さを持たないからである。

 

松尾城跡位置

 

当該ブログの記事は平成22年(2010)5月26日から31日までである。

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伝 平知盛の墓 (福岡県)

2018-03-13 00:10:00 | 史跡フォトチャンネル

伝 平知盛の墓(福岡県)

 

 

門司 甲宗八幡拝殿脇にひっそりと再祀されている。古城山に城を築き源氏との合戦に備えたのだが周知の如くである。平家滅亡を目の当たりにし、自らも入水して果てた。その遺骸を古城山(筆立山山中)に葬ったとあるが、昭和28年6月の大水害で被害を被ったので再祀したとある。初詣に来たのだが・・・うーむ。

 

伝 平知盛の墓位置

 

当該ブログの記事は平成30年(2018)3月9日から12日までである。

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大友氏上原館土塁跡 (大分県)

2018-02-24 00:10:00 | 史跡フォトチャンネル

大友氏上原館土塁跡(大分県)

 

 

大友氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。(ウイキペディア抜粋)

大分市内に点在する古墳探訪のうち大臣塚古墳に立ち寄った際に少し散策したものである。 この付近は道が狭く車を停めて悠長に散策なんて出来るものではない。如何ともしがたい事ではあるが近くに大きな駐車場を持つスーパーがあるのでその一角に停めたのである。そこからの帰りは少々の買い物である。駐車場代くらいは払わないとな。

 

大友氏上原館土塁跡位置

 

当該ブログの記事は平成30年(2018)2月19日から23日までである。

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九州鉄道茶屋町橋梁 (福岡県)

2017-10-04 00:10:00 | 史跡フォトチャンネル

九州鉄道茶屋町橋梁(福岡県)

 

 

小倉(旧)~黒崎 11.5km間(明治24年開業) 途中 大蔵駅(明治31年開業)当初本線として開業したが海岸線を走る戸畑線(現鹿児島本線)が本線に昇格したためこの区間の呼称が大蔵線となった。明治40年国有化されその後明治44年廃線となった。ここにその橋梁を見ることが出来るとともに線路跡だったことが少し判る程度に道が残っている。大蔵駅跡は今では公園化されているが、駅跡であったことは誰も判らないかもしれんな。

 

九州鉄道茶屋町橋梁位置

 

当該ブログの記事は平成29年(2017)9月30日から10月3日までである。

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城井掩体壕 (大分県)

2017-01-04 00:10:00 | 史跡フォトチャンネル

城井掩体壕(大分県)

 

 

戦争を知らない世代だが叔父が一時だが宇佐糸口の部隊にいたそうで、母がここまで会いに来たことがあると言っていた。掩体壕は恐らくは軍事機密だっただろうから見ることなど到底出来なかっただろう。

城井一号掩体壕脇に鎮魂の碑がある。その横には英霊の名が並んでいる。 現在があるのはこの方々の命が礎になっているのだということを目の当たりにしたのである。

 

城井掩体壕位置

 

当該ブログの記事は平成28年(2016)12月25日から平成29年1月3日までである。

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