村上春樹 1992年 講談社
ついでなんで、村上春樹のつづき。
今年に入ってから、年代をおって、ちょっと村上春樹を(特に長編を)読み返してみようと考えてたんだけど、『ダンス・ダンス・ダンス』の次は、だいたいこれの番かなって思ってた。
そしたら「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」のなかに、カクテルの話があって、おいしいカクテルをつくるのには、生まれつき具わった何かが必要で、どれだけ練習してもだめな人と、最初からすらっと作れる人がいるっていうんだけど、そのことを『国境の南、太陽の西』のなかで書いたっていう。
まるでおぼえてないんで、小説を読み返してみなくちゃ、と思った。
ちなみに、カクテルを作る才能みたいなものについては、村上さんの実体験らしい。小説を書くには、ささやかなエピソードみたいな、頭の中の抽斗(ひきだし)が必要って、エッセイ集のまえがきでは言ってますが、そういう例のひとつなんでしょう。
そしたら「村上ラヂオ」のなかにも、この小説の話題があって、ドイツの人気のあるテレビの公開文芸批評番組でドイツ語訳の『国境の南、太陽の西』がとりあげられて、高名な評論家が「これは文学ではない。文学的ファースト・フードに過ぎない」って言って、司会者と討論になり、結果として評論家は不愉快のあまり12年間つとめたレギュラー・コメンテーターの座を降りた、っていうんだけど。
ますます、小説を読み返してみなくちゃ、と思った。
というわけで、急いで読んでみた。
最初の三部作では、名前もなかったような村上春樹の書く小説の主人公も、「ノルウェイの森」あたりから名前を獲得したと思ったら、本作では、サラリーマン勤めは経験するわ、結婚はするわ、ふたりの娘をもつわで、ちょっと驚いた。(ちなみに私は初めて読んだときのことなんか、まるで忘れてる。)
でも、ストーリーについては、まあ、いいです、特に異論のあることもありませんし。また、不思議な喪失感をめぐって、あれこれ苦悩がありますけど、そういうのはキライぢゃありません。
今回読み返して、ふと思ったんだけど、そういえば短編で“100%の女の子”に会うってえのがあったねえ。一般的に綺麗とかそういうのだけぢゃなくて、自分にとっての100%の女の子。
その出会いによって、自分が補完されるっつーのか、それとも似た者同士のおかげで欠落感が解消されるっつーのか、よくわかんないけど、なんかそんな感じを求めてる。
それを相手にどう伝えたらいいのかってのが大変なんだろうけどね。
で、ストーリー云々よりも、小説のなかで細かい部分部分について、なぜか心に留まっちゃうものがあったりするんだけど、今回は特に気になった(というか、気に入った)のが、2つ。
ひとつは、どうして新しい小説を読まないのかと訊かれたときの、主人公の答え。
>「たぶん、がっかりするのが嫌だからだろうね。つまらない本を読むと、時間を無駄に費やしてしまったような気がするんだ。そしてすごくがっかりする。昔はそうじゃなかった。時間はいっぱいあったし、つまらないものを読んだなと思っても、そこから何かしらは得るものはあったような気がする。それなりにね。でも今は違う。ただ単に時間を損したと思うだけだよ。年をとったということかもしれない。」
…うーん。こういうフレーズに「あっ」って思ってしまうと、“誰にでも書けることを自分にしかできない書き方で書く”のが小説だとしたら、あいかわらず小説書くのうまいよなーって思わされてしまう。
もうひとつは、自分の前から消えてしまった女性を追い求めるだけではどうしようもないので、仕事に力を傾けようと、自分の所有する店の改装にとりかかるところの主人公の考え方のト書き。
>そろそろ店の内装を変え、経営方針を再検討する時期にさしかかっていた。店には落ちつくべき時期と、変化する時期とがある。それは人間と同じなのだ。どんなものでも同じ環境がいつまでも続くと、エネルギーが徐々に低下してくる。そろそろ何かしらの変化が求められていると僕は少し前からうすうす感じていた。空中庭園というものは、決して人々に飽きられてはならないのだ。
前だったら、このフレーズに足を止めて見入るようなことはなかったと思う。やっぱ二十代のときに読んだのと、いま読むのでは感じ方がちがうんだろう。
ついでなんで、村上春樹のつづき。
今年に入ってから、年代をおって、ちょっと村上春樹を(特に長編を)読み返してみようと考えてたんだけど、『ダンス・ダンス・ダンス』の次は、だいたいこれの番かなって思ってた。
そしたら「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」のなかに、カクテルの話があって、おいしいカクテルをつくるのには、生まれつき具わった何かが必要で、どれだけ練習してもだめな人と、最初からすらっと作れる人がいるっていうんだけど、そのことを『国境の南、太陽の西』のなかで書いたっていう。
まるでおぼえてないんで、小説を読み返してみなくちゃ、と思った。
ちなみに、カクテルを作る才能みたいなものについては、村上さんの実体験らしい。小説を書くには、ささやかなエピソードみたいな、頭の中の抽斗(ひきだし)が必要って、エッセイ集のまえがきでは言ってますが、そういう例のひとつなんでしょう。
そしたら「村上ラヂオ」のなかにも、この小説の話題があって、ドイツの人気のあるテレビの公開文芸批評番組でドイツ語訳の『国境の南、太陽の西』がとりあげられて、高名な評論家が「これは文学ではない。文学的ファースト・フードに過ぎない」って言って、司会者と討論になり、結果として評論家は不愉快のあまり12年間つとめたレギュラー・コメンテーターの座を降りた、っていうんだけど。
ますます、小説を読み返してみなくちゃ、と思った。
というわけで、急いで読んでみた。
最初の三部作では、名前もなかったような村上春樹の書く小説の主人公も、「ノルウェイの森」あたりから名前を獲得したと思ったら、本作では、サラリーマン勤めは経験するわ、結婚はするわ、ふたりの娘をもつわで、ちょっと驚いた。(ちなみに私は初めて読んだときのことなんか、まるで忘れてる。)
でも、ストーリーについては、まあ、いいです、特に異論のあることもありませんし。また、不思議な喪失感をめぐって、あれこれ苦悩がありますけど、そういうのはキライぢゃありません。
今回読み返して、ふと思ったんだけど、そういえば短編で“100%の女の子”に会うってえのがあったねえ。一般的に綺麗とかそういうのだけぢゃなくて、自分にとっての100%の女の子。
その出会いによって、自分が補完されるっつーのか、それとも似た者同士のおかげで欠落感が解消されるっつーのか、よくわかんないけど、なんかそんな感じを求めてる。
それを相手にどう伝えたらいいのかってのが大変なんだろうけどね。
で、ストーリー云々よりも、小説のなかで細かい部分部分について、なぜか心に留まっちゃうものがあったりするんだけど、今回は特に気になった(というか、気に入った)のが、2つ。
ひとつは、どうして新しい小説を読まないのかと訊かれたときの、主人公の答え。
>「たぶん、がっかりするのが嫌だからだろうね。つまらない本を読むと、時間を無駄に費やしてしまったような気がするんだ。そしてすごくがっかりする。昔はそうじゃなかった。時間はいっぱいあったし、つまらないものを読んだなと思っても、そこから何かしらは得るものはあったような気がする。それなりにね。でも今は違う。ただ単に時間を損したと思うだけだよ。年をとったということかもしれない。」
…うーん。こういうフレーズに「あっ」って思ってしまうと、“誰にでも書けることを自分にしかできない書き方で書く”のが小説だとしたら、あいかわらず小説書くのうまいよなーって思わされてしまう。
もうひとつは、自分の前から消えてしまった女性を追い求めるだけではどうしようもないので、仕事に力を傾けようと、自分の所有する店の改装にとりかかるところの主人公の考え方のト書き。
>そろそろ店の内装を変え、経営方針を再検討する時期にさしかかっていた。店には落ちつくべき時期と、変化する時期とがある。それは人間と同じなのだ。どんなものでも同じ環境がいつまでも続くと、エネルギーが徐々に低下してくる。そろそろ何かしらの変化が求められていると僕は少し前からうすうす感じていた。空中庭園というものは、決して人々に飽きられてはならないのだ。
前だったら、このフレーズに足を止めて見入るようなことはなかったと思う。やっぱ二十代のときに読んだのと、いま読むのでは感じ方がちがうんだろう。