きのうのつづき、っていうか。
死んだらどうなるか知らない人を導くチベット仏教もすばらしいんだけど、自分が死ぬときどうするかっていう話。
自身A級棋士というだけでなく、かつて将棋連盟の会長もつとめ、普及にも尽力し、平成16年に81歳の盤寿(将棋盤のマス目が9×9の81なので棋士の81歳を盤寿という)で亡くなった故原田泰夫九段の生涯を紹介した『青春、原田泰夫のノート』という記事が、「将棋世界」誌に2008年8月号から2009年8月号まで12回にわたって連載された(2009年5月号は休載)。その最終回に、平成16年3月に肺炎を患って入院した後、自宅療養になってからの原田九段のさいごの時期の様子が書かれている。
長いけど引用しちゃう。
>「盤寿の会」が終わったころから、原田は徹底的な書斎の整理を始めた。押し入れの中からたくさんのダンボール箱を引っ張り出して、熱心に整理をしている。箱には、過去何十年分の講演関係の名簿や記録などの資料が保管されていた。それらは「いつか原稿を書くときに必要になるから」と手をふれさせなかったものだ。原田はそれらの資料一つ一つに目を通しながら、必要のない物を破り捨てるなどしてコツコツと処分していった。
そんなことが毎晩続く。夫人は、なんで急にそんなことをし始めたのか分からなかったが、やがて何かを覚悟しているんだなと感じたそうである。気持ちのよい光景ではなかったが、黙って見守るしかなかった。
そんなことが、いつまで続いただろう。
ある日、最後の処分を終えた原田は、「ハァ~」と大きなため息をついて横になった。原田の部屋は、きれいさっぱり片付いていた。目をつむったままじっと動かないので、夫人が声をかけると「起こすな。いま、田舎の道を歩いているんだ。親友のヒサオ君の家に行くところなんだ」と、つぶやくようにいった。原田はすでに自分の死が近いことを悟り、生まれ育った新潟の分水町の、懐かしいあの道この道、来し方を思い出していたのかもしれない。
7月の七夕の朝。原田は突然「将棋連盟へ行く」といい出した。夫人が体調を気遣って止めても「いやどうしても行ってきます」というので、しかたなく、ふだんから秘書的な世話をしてくれていた知人の女性に頼んで、タクシーで付き添ってもらった。車の中から建物を見て帰ってくる予定だったが、原田は「降りる」といって、しっかりとした足取りで会館の中へ入って行った。
原田は、会議中の理事たちや事務局の職員たちに声をかけて回ったあと、玄関の前で静かに一礼をして将棋会館を後にした。自宅に戻った原田は「もう、これでいいだろう」といい、安心したように床に入ったという。
その4日後の7月11日。原田は自宅で静かに息を引き取った。享年81。将棋に捧げた生涯だった。
すべてを自分で片付けて、準備が整った後、関係する人に挨拶して、静かに死んでいく。
私の部屋なんて散らかりっぱなしだけど、死ぬときはこうありたいものだ。
死んだらどうなるか知らない人を導くチベット仏教もすばらしいんだけど、自分が死ぬときどうするかっていう話。
自身A級棋士というだけでなく、かつて将棋連盟の会長もつとめ、普及にも尽力し、平成16年に81歳の盤寿(将棋盤のマス目が9×9の81なので棋士の81歳を盤寿という)で亡くなった故原田泰夫九段の生涯を紹介した『青春、原田泰夫のノート』という記事が、「将棋世界」誌に2008年8月号から2009年8月号まで12回にわたって連載された(2009年5月号は休載)。その最終回に、平成16年3月に肺炎を患って入院した後、自宅療養になってからの原田九段のさいごの時期の様子が書かれている。
長いけど引用しちゃう。
>「盤寿の会」が終わったころから、原田は徹底的な書斎の整理を始めた。押し入れの中からたくさんのダンボール箱を引っ張り出して、熱心に整理をしている。箱には、過去何十年分の講演関係の名簿や記録などの資料が保管されていた。それらは「いつか原稿を書くときに必要になるから」と手をふれさせなかったものだ。原田はそれらの資料一つ一つに目を通しながら、必要のない物を破り捨てるなどしてコツコツと処分していった。
そんなことが毎晩続く。夫人は、なんで急にそんなことをし始めたのか分からなかったが、やがて何かを覚悟しているんだなと感じたそうである。気持ちのよい光景ではなかったが、黙って見守るしかなかった。
そんなことが、いつまで続いただろう。
ある日、最後の処分を終えた原田は、「ハァ~」と大きなため息をついて横になった。原田の部屋は、きれいさっぱり片付いていた。目をつむったままじっと動かないので、夫人が声をかけると「起こすな。いま、田舎の道を歩いているんだ。親友のヒサオ君の家に行くところなんだ」と、つぶやくようにいった。原田はすでに自分の死が近いことを悟り、生まれ育った新潟の分水町の、懐かしいあの道この道、来し方を思い出していたのかもしれない。
7月の七夕の朝。原田は突然「将棋連盟へ行く」といい出した。夫人が体調を気遣って止めても「いやどうしても行ってきます」というので、しかたなく、ふだんから秘書的な世話をしてくれていた知人の女性に頼んで、タクシーで付き添ってもらった。車の中から建物を見て帰ってくる予定だったが、原田は「降りる」といって、しっかりとした足取りで会館の中へ入って行った。
原田は、会議中の理事たちや事務局の職員たちに声をかけて回ったあと、玄関の前で静かに一礼をして将棋会館を後にした。自宅に戻った原田は「もう、これでいいだろう」といい、安心したように床に入ったという。
その4日後の7月11日。原田は自宅で静かに息を引き取った。享年81。将棋に捧げた生涯だった。
すべてを自分で片付けて、準備が整った後、関係する人に挨拶して、静かに死んでいく。
私の部屋なんて散らかりっぱなしだけど、死ぬときはこうありたいものだ。