many books 参考文献

好きな本とかについて、ちょこちょこっと書く場所です。蔵書整理の見通しないまま、特にきっかけもなく08年12月ブログ開始。

儀式

2011-07-23 19:39:48 | 読んだ本
ロバート・B・パーカー/菊池光=訳 1990年 ハヤカワ・ミステリ文庫版
順に読み返してるスペンサーシリーズだけど。
こないだ読んだ「レイチェル・ウォレスを捜せ探せ(※2019年1月修正)の次が、かの「初秋」で、そのつぎが「残酷な土地」。
そのふたつについては、前にこのブログには書いたから、こんどの順番は、これ。
今回のスペンサーの仕事は、人探し。家出した女子高生探し。家出して売春してる女子高生。
誰の依頼だかよくわかんない感じで、父親は娘をもう家には入れないって言ってるし、母親は見つけてほしいんだけど、どうしていいか分からず混乱してる。高校のカウンセラーをしてるスーザンが、どうやら一番熱心に、彼女をみつけて保護すべきと思ってる。
で、スペンサーのことだから、例によって、その女の子を見つけるのはいいんだけど、本人が望まないならムリに家に帰そうとはしない。
依頼人の当初のリクエストにただ従うんぢゃなくて、自分の信念を大事にするから、ロクでもない家庭に戻すくらいなら、戻してもまた家出すんのは明白だし、少女本人が少なくとも今よりマシな環境におかれてマシな生き方するにはどうしたらいいか考えちゃう。
ちなみに、スーザンのほうも簡単な人間ぢゃなくて、全部をスペンサーに任せっぱなしにはしない。事件を追ううちにスペンサーは裏社会の悪党たちから脅迫を受けてるんだけど、巣窟に踏みこむときにスーザンは自分も行くという。「きみは直接かかわってはいけない。」っていうスペンサーに対して、スーザンは「あなたは、わたしの意に反してわたしを守る権利はないのよ。わたしには、自分の正義感と信念に基づいて行動する権利があるわ」と主張する。スペンサー曰く「たまげた科白だな」
どうでもいいけど、今回読み返して、チェックした箇所。
私は、彼女が帰るか、自分が帰る時、いつもチラッと悲しみを覚える。たとえほんのしばしの別れであっても。明日会うとわかっている時ですらも。たぶん、それで新鮮な感じが続くのだろう。しょっちゅう一緒にいたら、お互いに頭がおかしくなるかもしれない。いや、おかしくなるはずだ。互いにそれぞれ住まいと仕事をもっていて、会いたい時に会う方がいい。
うん、そういうのが、いい。最初読んだときのことなんか憶えてないけど、けっこう影響受けてるのかも。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女のケモノ道

2011-07-22 18:33:24 | 岡崎京子
岡崎京子 2005年 文藝春秋
ヲカザキの、えーと、なんだ、エッセイマンガ(巻末の解説におけるよしもとばななの表現)。
2005年に刊行されましたが、初出は『CREA』の1994年から96年にかけての連載です。
エッセイとは言われてますが、そのなかみは、まんが家の岡崎京子、書店バイターの清岡卓美、某出版社編集者の天野鈴子の鼎談です。鼎談っていうと固いな、表現が。
帯のウラっ側にいわく、“失恋、流行りもの、引き締め、占い、年下のカレなど、20のきびしくけわしい「女のケモノ道」をしゃべり倒す!”ということで、しゃべくりまくってるノリがそのまま本になってます。
「くちびるから散弾銃」みたいで、キライぢゃないです、私は。
>私は「心がわりの相手は僕に決めなよBYオザケン」につきるなぁ。マイ・スウィーテスト・ワードは。言われてみたいなりなり~。
とかって岡崎京子の発言とか、その一例。
「女の○○道」ってテーマのトークで、勢いで数々の暴言も飛び交ったりしてるようだけど、毎回のように“今回もまとまらなかった”で締められてるように、とりとめがないんだけど、まあ、そこがいい本です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国境の南、太陽の西

2011-07-21 19:58:12 | 村上春樹
村上春樹 1992年 講談社
ついでなんで、村上春樹のつづき。
今年に入ってから、年代をおって、ちょっと村上春樹を(特に長編を)読み返してみようと考えてたんだけど、『ダンス・ダンス・ダンス』の次は、だいたいこれの番かなって思ってた。
そしたら「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」のなかに、カクテルの話があって、おいしいカクテルをつくるのには、生まれつき具わった何かが必要で、どれだけ練習してもだめな人と、最初からすらっと作れる人がいるっていうんだけど、そのことを『国境の南、太陽の西』のなかで書いたっていう。
まるでおぼえてないんで、小説を読み返してみなくちゃ、と思った。
ちなみに、カクテルを作る才能みたいなものについては、村上さんの実体験らしい。小説を書くには、ささやかなエピソードみたいな、頭の中の抽斗(ひきだし)が必要って、エッセイ集のまえがきでは言ってますが、そういう例のひとつなんでしょう。
そしたら「村上ラヂオ」のなかにも、この小説の話題があって、ドイツの人気のあるテレビの公開文芸批評番組でドイツ語訳の『国境の南、太陽の西』がとりあげられて、高名な評論家が「これは文学ではない。文学的ファースト・フードに過ぎない」って言って、司会者と討論になり、結果として評論家は不愉快のあまり12年間つとめたレギュラー・コメンテーターの座を降りた、っていうんだけど。
ますます、小説を読み返してみなくちゃ、と思った。
というわけで、急いで読んでみた。
最初の三部作では、名前もなかったような村上春樹の書く小説の主人公も、「ノルウェイの森」あたりから名前を獲得したと思ったら、本作では、サラリーマン勤めは経験するわ、結婚はするわ、ふたりの娘をもつわで、ちょっと驚いた。(ちなみに私は初めて読んだときのことなんか、まるで忘れてる。)
でも、ストーリーについては、まあ、いいです、特に異論のあることもありませんし。また、不思議な喪失感をめぐって、あれこれ苦悩がありますけど、そういうのはキライぢゃありません。
今回読み返して、ふと思ったんだけど、そういえば短編で“100%の女の子”に会うってえのがあったねえ。一般的に綺麗とかそういうのだけぢゃなくて、自分にとっての100%の女の子。
その出会いによって、自分が補完されるっつーのか、それとも似た者同士のおかげで欠落感が解消されるっつーのか、よくわかんないけど、なんかそんな感じを求めてる。
それを相手にどう伝えたらいいのかってのが大変なんだろうけどね。
で、ストーリー云々よりも、小説のなかで細かい部分部分について、なぜか心に留まっちゃうものがあったりするんだけど、今回は特に気になった(というか、気に入った)のが、2つ。
ひとつは、どうして新しい小説を読まないのかと訊かれたときの、主人公の答え。
「たぶん、がっかりするのが嫌だからだろうね。つまらない本を読むと、時間を無駄に費やしてしまったような気がするんだ。そしてすごくがっかりする。昔はそうじゃなかった。時間はいっぱいあったし、つまらないものを読んだなと思っても、そこから何かしらは得るものはあったような気がする。それなりにね。でも今は違う。ただ単に時間を損したと思うだけだよ。年をとったということかもしれない。」
…うーん。こういうフレーズに「あっ」って思ってしまうと、“誰にでも書けることを自分にしかできない書き方で書く”のが小説だとしたら、あいかわらず小説書くのうまいよなーって思わされてしまう。
もうひとつは、自分の前から消えてしまった女性を追い求めるだけではどうしようもないので、仕事に力を傾けようと、自分の所有する店の改装にとりかかるところの主人公の考え方のト書き。
そろそろ店の内装を変え、経営方針を再検討する時期にさしかかっていた。店には落ちつくべき時期と、変化する時期とがある。それは人間と同じなのだ。どんなものでも同じ環境がいつまでも続くと、エネルギーが徐々に低下してくる。そろそろ何かしらの変化が求められていると僕は少し前からうすうす感じていた。空中庭園というものは、決して人々に飽きられてはならないのだ。
前だったら、このフレーズに足を止めて見入るようなことはなかったと思う。やっぱ二十代のときに読んだのと、いま読むのでは感じ方がちがうんだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上ラヂオ

2011-07-20 19:03:11 | 村上春樹
村上春樹・文 大橋歩・画 2001年 マガジンハウス
きのうの続き。って出版の時系列でいったら逆だけど。
村上春樹のエッセイ集。きのうとりあげた新しいやつ「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」と同様、「anan」に連載してたもの。
もう10年も経ちましたか、そうですか。これはちっとも読み返してなかったんだけど、新刊が出たもんだから、ひさしぶりに読んでみた。
ホントかウソかわかんないことが書いてあるのが村上春樹のエッセイの楽しいとこだけど、読み返してみたら、この本には「真っ白な嘘」って章があって、そこで次のようなことが語られてる。
嘘をつくのは得意ではないが、嘘をつくこと自体はそれほど嫌いではない。それって「深刻な嘘をつくのは苦手だけど、害のない出鱈目を言うのはけっこう好きだ」ってこと。
そのあたりのこと、たとえばの話で、昔、ある月刊誌で書評を頼まれたことがあって、普通にやっても面白くないから、架空の本をでっちあげて、それを評論したけど、なかなか愉快だった、なんて、とんでもないこと書いてある。
「でっちあげをするぶん頭は使うけれど、本を読む時間は節約できる。」だなんて、読書好きの村上さんらしくない言い方だ。
で、あとで読者から苦情とか問い合わせが、来るかと覚悟してたのに来なかったんで気が抜けた、って書いてあるんだけど、そこまで読んで、これって、もしかして「そういう書評をしたことがある」ってこと自体が、でっちあげなの?って思わされて、おもしろい。
ほかにも、例によって食べもの屋さんの話があるんだけど、奈良を旅行していて、小さな町で古いうなぎ屋さんをみつけたときの話なんてのが、私は気にいっている。
二階の静かな座敷に通されて、1時間近く待てど暮らせど料理は出てこない、ほかに客はいない、一階の調理場のほうは、しーんとしている。
>のぞいてみると、ひと昔前のポーランド映画っぽい湿った仄かな光の中で、腰が曲がったおばあさんが一人、太いくしみたいなものを手にむこう向きに立っていた。そして僕が見守る中で、それをどおんと振り下ろして、うなぎの首を刺した。まるで古い夢の中の光景みたいだった。
って、やっぱ小説みたいだよなー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おおきなかぶ、むずかしいアボカド

2011-07-19 09:13:40 | 村上春樹
村上春樹文・大橋歩画 2011年7月 マガジンハウス
先週、とくに目的もなく本屋に入ったら、村上春樹の新しいエッセイ集が出てた。副題は「村上ラヂオ2」。
あいかわらずおもしろくて、スーッと読める。
今回、まえがきで村上春樹は、エッセイについて、「ビール会社が作るウーロン茶」みたいなものと、例によってうまいこと言ってる。(もちろんビールは小説。)
でもウーロン茶を作るからには一番おいしいウーロン茶を作りたいってとこがいい。
「エッセイはむずかしい」という章では、エッセイを書く際の原則も披露されてる。
「人の悪口を具体的に書かない」「言いわけや自慢をなるべく書かない」「時事的な話題は避ける」の三つ。
締め切りに追われたら、書いちゃいがちのような気がするけど、もともと締め切りに迫られることのないひとだから。
で、そういう決まりごとのなかでエッセイを書くと、「どうでもいいような話」に限定されるっていうんだけど、だいじょうぶ、十二分におもしろい。
また、文章について、「こっちのドアから入ってきて」という章では、「おにぎりで言えば、お米を選んで注意深く炊きあげ、適当な力をこめて簡潔にぎゅっと握る。そういう風に作られたおにぎりは、誰が食べてもおいしいですよね。」という言いかたをしてて、誰か特定のひとたちの趣味を狙ってんぢゃなくて、どんなひとたちにもメッセージを届けられる自信を語ってる。
村上春樹のエッセイのなかで、私がおもしろいと思うことのひとつには、ホントかウソかわかんない店とかが出てくることで、たぶんホント(現実)だと思うんだけど、フィクション・空想でも、まあいいか読んで楽しいからって思わされちゃうものがある。
今回で言ったら、たとえば「究極のジョギング・コース」ってやつ。
オレゴン州ユージーンのナイキの本社に、究極のジョギング・コースがある。一周3キロほどで、鳥の声を聴きながら美しい森を抜け、なだらかな丘陵を上下し、路面には柔らかいおがくずがみっちり敷き詰めてある。
そのナイキの社員以外は走ることができないコースを、取材のついでに実際に走ってみる機会があって、「こんなコースが近くにあって、毎日自由に使えたら、人生はどれほど心安らかなものになるだろう。」なんて感想なんだけど、んー、小説のなかの出来事みたい。
もうひとつは、神宮球場の帰りに寄る外苑西通りのバーでは、適当な名前をでっち上げて(「シベリア・ブリーズ」とか)カクテルを注文すると、バーテンダーは顔色ひとつ変えずに適当なカクテルを作って出してくれた、とか。
小説のなかでだったら、もちろんアリなんだけど(バーテンダーの名前は、ジェイだな、やっぱ)、エッセイで書かれると、ちょっと不思議。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする